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2010年8月

2010年8月31日 (火)

民主党代表選について⑤

 おおかたの予想に反して、小沢さんが代表選への出馬表明をした。

 菅さんと小沢さんの間で本当はどういうやりとりがあったは分からないが、ともあれ、選挙の結果にかかわらず協力していくことで一致したという双方からの発言が聞けて、まずはひと安心といったところだ。

 この言葉が本当ならば、この危急の時に、分裂・政界再編のごたごた劇だけはなくなるのだろう。

 当初からの代表選挙をやるとの約束だけは実行してもらえるようだ。

 誰が舵取りをしても、今の閉塞状況を一挙に解決できる航路は見いだせないだろうが、せめて解決の方向にむけて全力で舵をきる姿を見せてくれることを切に希望する。

 

 誰にも届かない不安や怒りを、ブツブツ言っていうだけでなんにもできない私は、結局あなたがたに頼るしかないのだから。
 

よだきぼ(宮崎弁でなまけもの)の弁明

 今日の日経新聞「春秋」は「自分で年を取ったなと思ったのはいつ?」という高峰秀子さんへの問いかけた逸話から始まっていた。

 それは、昨日の日銀の金融緩和策と政府の経済対策、そして民主党の代表選についての話への導入だったが、私にはこの逸話が身に凍みるものがあった。

 この質問に対して高峰さんは、「明日にしよう、そう思ったときですね。前は、今日やるべきことは全部今日、すませていた」と答えたそうだ。

 高峰さんが70歳を過ぎたころのことだという。

 一芸に秀でた人、ものごとをなし遂げた人は総じて「すぐやる人だ」。

 その対極にあるのが私。

 だけど愚鈍な私は、まだ年を取ったことに気付いていない。

 あと10年は「年をとったな」と思わずに生きれるような気がする。

 これはある意味救いようのない馬鹿なのかもしれないが、これからの10年でこれまでの?0年間のそれっぱなしの軌道を、少しは修正したいと思った今日この頃でした。

民主党代表選について④

 なんだ?驚いた!唖然。

 いやいや、やっぱりそうかと言うべきか。

 夜のニュースで、管さんと鳩山さんが、おそろいで記者会見をしている。

 小沢さんが代表選に出ないというような話をしている。

 短い記者会見の間に、鳩山さんは何度か「トロイカ体制」という言葉を使った。

 カタカナ語の苦手な私は、すぐに辞書を引いた。

 「トロイカ」=ロシアの3頭立ての馬車。

 「トロイカ方式」=「三人の有力者、特に政治家による指導・執行体制」とある。

 三人の有力な政治っていうのは、管さん、小沢さん、あとの一人は鳩山さんなのだろうか。

 鳩山さんは政界を引退するとテレビの画面で公言していたはずだから、トロイカの馬にはなれないはずだ。

 政治家とは平気で嘘を言える人ということなのか。

 これでは選挙演説も、公約も意味はないのではないか。

 脱小沢を改めろと言われたのかという貴社の質問には、そんな話はしていないと答えている。

 脱小沢の象徴である仙石官房長官と枝野幹事長をやめさせろとか、小沢さんを要職につけろと言われているのではないかという質問には、ポストについての話はしていないという。

 非公開での話だから、当事者が話をしていないということは話はなかったのかもしれないが、テレビカメラとマイクを前にして話したことでも「そんな話はしていない」と言い切れる人種だから、質問するだけ無駄なことだと思う。

 「小沢さんの意見を聞かずに政権運営ができないというのはおかしいと言って、脱小沢を明言していた管さんが、鳩山さんの言うトロイカ運営をすることは、私は納得できない。

 今晩の状況は、小沢さんが代表選を降りることが決定したわけではなく、明日菅さんと小沢さんが会って話をするということだけだ。

 よもや、豪腕小沢さんが直前の言葉を翻すようの恥ずかしいことはしないと思うのだが。

 明日、彼らの詭弁会見を見せつけられるのならば、腹立たしい限りだ。

 報道は、芸能レポーターみたいに追いかけまわしてマイクを突きつけ内容のない質問をするよりも、それまでに彼らが喋った言葉を繰り返し繰り返し流すだけでいい。

 その言葉と行動の差異を見せつけるだけでいい。

 悲しいのは、私たちがそれに変わる人を選べないことだ。

2010年8月30日 (月)

民主党代表選について③

 ここにきて菅さんが小沢さんと会談をすると報道されている。

 どういう意図かはわからないが、これで小沢さんが代表選に出ないとなると民主党への信頼は完全になくなる。

 政治空白を作ってはいけないとか、1年で首相が3人にも交替するのはおかしいとかその他いろいろ言われるけど、ここまで来たら代表選はやるべきだろうし、やらざるを得ないだろう。

 自民党政権時に談合政治と言って非難していたそのことをやるわけにはいかないだろう。


 と思うのだが、それをやるのが今の政治家。

 菅さんが「命をかけて」と言っていたが、彼らには命が何個あるのだろう。 

 小沢さん支援の議員が、「ここで小沢さんが出馬をとりやめたら、ポストと引き換えに引き下がったと言われる。小沢さんが選挙に出ないということは『絶対に』ない。」と言っていたが、「絶対」という日本語をしらない今の政治家の「絶対」を見守りいた。

 どうせ信頼も期待もできない今の政治なのだから、「できる」といっている小沢さんにやらせてみてはどうだろう。

 豪腕と言われる小沢さんだが、政治で豪腕を振るうのを見たことがない。

 首相になれば雲隠れもできないし、常に衆目にさらされることになる。

 陰の総理から表の総理になった小沢さんの豪腕を見てみたいという気がする。

2010年8月28日 (土)

丸善、ジュンク堂300坪の大型書店

 大日本印刷の参加にある丸善書店とジュンク堂書店が、共同で2012年1月までに売り場面積が3000平方メートル前後の大型店を10店出店する。

 同時に300平方メートル程度の小型店数点を閉める。

 本屋好きの私としては、3000平方メートルという大型の書店なんて聞くとぞくぞくするのだけど、私の町には無関係のこと。

 300平方メートルの小型店舗に該当する本屋さんが1軒あるが、私の町ではそれが一番大きな本屋さんなのだ。

 当市延岡市は人口13万人、宮崎県で3番目に大きい町なのだが、全国的な書店淘汰の波にあらわれた結果、書店は3店舗しかない。

 全国的に見ても、書店数はこの10年で3割減少しているのだが、当市では地元発の本屋さんは壊滅してしまった。

 もともと小さな本屋さんでは欲しい本が揃ってなくて、欲しい本があって取り寄せるとなると3週間もかかっていた。

 今でも地元の本屋さんでは欲しい本がならんでいないことが多くて、10年前くらいからはアマゾンなんかのネット書店で購入することが多くなった。

 それがさらに弱小の書店経営を圧迫して中小の書店が無くなっていくという悪循環に陥っている。

 都会では3000平方メートルなんて大型店ができて便利になるけど、田舎町では本屋がなくなってしまうという悲しい状況が待っている。

 アマゾンに代表されるようなネット通販書店が勢力を拡大していく一方、電子書籍という新しい流れが沸き起こっている。

 私は、手帳と本は紙派だ。

 何度か、手帳の代わりにパソコンや電子手帳を使ってみたが一覧性という部分では紙にかなわない。

書籍をスキャナーでパソコンに取り込んで整理するという方法もやってみたが、やっぱり紙の本の一覧性にはかなわない。

それで、今流行りのihponやらipad には余り興味がなかったのだが、昨日、文具小物を趣味とする私の知人からipada見せられて、ipadが購入研究対象小物として浮かび上がってきた。

知人が私に自慢してみせびらかせたなかでの電子書籍と、スキャナーで取り込んだ書籍や文書の一覧性は紙に充分対抗できる出来になっている。

なにせ、パソコンと違って立ち上がりが早い。

ぱっと開いて、開いた瞬間から立ち上がっている。

ドコモのデータ通信カードとノートパソコンを購入したばっかりで、すぐに購入には走らないかもしれないが、購入リストのトップの座についてしまった。

日本の出版業界はまだ電子書籍完全に容認にはならないようだが、電子書籍の台頭は遠くはない。

音楽の世界ではネットでのダウンロードの波に押されてCDの売り上げが落ち閉店した渋谷HMVのニュースはつい最近のことだ。

 映画を見るために1時間もかけて宮崎に行かなくてはいけないように、本を探しに宮崎まで行かなくてはならなくなることのないことを祈りたい今日この頃です。

夏休みの宿題

今日の日本経済新聞土曜版に、「夏休み宿題ギリギリって人多いわ」という記事があった。

その中で、一昨年に電通リサーチ行なった、小学生の子供を持つ両親を対象にした調査資料を取り上げていた。

それによると、全体の6割強の人が夏休み前半までに宿題を終わらせたいとしていた。

 夏休み中盤までにというのを含めると8割強になる。

 ところが実際には、前半までに終わらせたのは20%弱。中盤までに終わらせた人を含めても30%強。

 最終日ぎりぎりまでかかった人が35%。夏休み中に終わらなかった人が5%くらいいる。

 私の小中学校時代はこの5%に入る。

 「早くやったほうがいい、早くした方がいいとわかっていながら、それを後回しにしたり、先送りしたことは誰しも思い当たる。」

 「最近の行動経済学の研究で、そういう人が結構たくさんいることが分かってきました」と述べてあるのだが、最近の好同経済学で研究しないとわからない事だったのかと、少々ショックを受けた。

 そういう人が大多数で、私もその中の1人だと思っていたからだ。

 そういう人が少数派で、私はだらしのないその少数派だったのだろうか。

 「少年老い易く学成り難し」だとか、「光陰矢の如し」だとかいう諺があるのは、私のような、よだきんぼ(宮崎弁で怠け者のこと)が多いからだと思っていた。

 みんなができているのならこんな言葉が諺として使われていないんじゃないかなと思うというか、そう思いたかったと言った方がいいのか。

 「整理整頓」なんてポスターがかかっていたりする事務所なんかをよく見かるけど、これは整理整頓ができない社員が多いってことで、みんなが整理整頓できている職場だったら「整理整頓」なんてポスターはいらないのだ。

 本屋さんのビジネス書のコーナーに「すぐやる技術」だとか「すぐやる人の習慣」とか「すぐやる人になる法」なんて本が沢山並んでいるというのは、すぐやらない人が多いってことだと、すぐやらない私は「赤信号みんなで渡ればこわくない」論で、自己嫌悪の海溝から少しは浮かび上がれていたのだ。

 私のような「よだきんぼ」が多いから、すぐやる人たちはすぐやることをネタに出版もできているわけだ。

 整理整頓のポスターといっしょで、人間がみんなすぐやる人になったら、「すぐやる関連」の人たちは全然目立たなくなってしまうことになって、本屋さんの自己啓発コーナーは10分の1位に縮小しなければならないのではないか。

 と、何もして来ないまま宿題の山を抱えて人生の中の夏休みの終わり状態の私は、それが自分だけではないんだと、後ろ向きな自己弁護をしている今日この頃です。

2010年8月27日 (金)

民主党代表選について②

 就任後たった半年で小沢さんを道連れにして辞任した鳩山さん。

 辞任会見では「次の総選挙には出馬しない」と明言し、事実上の引退宣言をした。

 その後、引退を撤回するかのような発言をしたが、引退について明言はされていない。

 そんな鳩山さんだが、今回の代表選でのテレビ露出は一番大きかった。

 最初には、民主党員として管政権を支えると言い、そう言いつつ軽井沢の別荘に烏合を集め、そこで小沢さんと会談をしてどうなることかと思っていたら、引き続き菅さん支持を表明し、その後菅さんと面談したと思ったら、小沢さんを支持するという。

 「民主党員として管政権を支えるのは当然」と言っていたのが、「小沢さんを応援するのは『大義『」だという。

 言葉が軽いと言われるけど、軽いというのは少しは重さがあるということで、鳩山さんの場合は言葉は意味を持たないということだろう。

 私は、政権交替、首相就任時の鳩山さんに期待をしていた。

 世間離れしているのは、良い意味での育ちの良さで経済的に恵まれているから、怖いもの無しで政治を変えてくれるのではないかと思っていた。

 しかし、結果は違っていた。

 鳩山さんの言葉は、無重力だった。

 辞任に至った一番の問題は普天間発言だったと思う。

 「最低でも県外」

 「辺野古の海に基地は作らせない」とも言っていた。

 「5月までに決着させる。3月までに政府案をまとめる」

 「今月中にやらなきゃならないとは法律で決まっているわけではない」

 「5月までに決着させる」

 「移転先は、腹案を用意してある」

 その後、移転先徳之島でのゴチャゴチャ。

 カメラの前でマイクに向かって喋った言葉だけど、数日もすると全然違ったことを言う。

 ビデオ映像が残っていても、自分の話は一貫していると主張する。


 一事が万事だ。


 そもそも民主党は、1年交替で首相が3人も交替した自民党を激しく追求して政権交代した。

 今回もし小沢総理が誕生したら、1年で首相を3人も取り替えるわけだ。

 国会でのどんな激しく論争しても、発言する言葉が意味を持たないのではしかたがない。



 「命をかける」

 政治家のどんな言葉も胸に響かない。

 

 

チリ鉱山落盤事故②と民主党代表選

 チリの鉱山落盤事故については、その後も毎日のように新しい情報が報道されている。

 33名全員が無事だったのは、強い統率力を持ったリーダーによるところが多いと言われてるが、私は、33人の全員の団結力が一番の原因だったと思う。

 常に危険にさらされた環境の中で、文字どおりの運命共同体的な仕事をしている彼らの絆は、私たちが想像もできないほどの強い結びつきなのだろう。

 身勝手な行動は他人の命を脅かすと同時に自分の命も危うくするという生死をともにした仕事をしているからこその奇跡だったのだろう。

 民主党は代表選問題で大騒義をしいる。

 日本国民全員が落盤事故で生き埋めになりそうな状況なのに、リーダーは自分たちだけの生き残りしか考えていないように思えてしまう。

 今朝のワイドショーで、落盤事故のリーダーが無事生還できたら、チリの大統領に当選するのではないかと言っていたが、日本のリーダーにお願いしたいものだ。

 落盤事故についてのもう一つの解決事項。

 避難所でのトイレの問題を心配していたのだが、避難所に接続する坑道が前後2キロメートル位は行き来できるというから、避難所の外に排泄場所を確保しているのだろう。

 それでちょっと安心した今日この頃でした。

2010年8月26日 (木)

どうなるのか、小沢一郎代代表選出馬表明。

 小沢一郎さんが民主党の代表選へ出馬表明をした。

 民主党の党首選挙は、日本国の総理大臣を選ぶ選挙になるわけだ。

 国民の政権交代の期待を受けて、民主党が政権をとってからまだ1年にならないのに3人目の首相を誕生させるのだろうか。

 自民党末期に、阿部さん、福田さん、麻生さんと、1年ごとに首相が変わった。

 そのときに民主党は、解散総選挙を迫っていたはずだ。

 それなのに政権与党になったら、鳩山さんを6カ月で、管さんを3カ月で葬り去ろうというのだろうか。

 首相辞任のときに政界引退を明言した鳩山さんは、辞める気はないようだし、政治家の言葉の責任の無さはひどすぎる。

 政治家という人種は、言葉に責任を持たないことと、対話をしないことが必須の要件なのだろうか。

 今朝、ワイドショーに山岡さんが出演していたが、各出演者から質問を受けてもその質問に対しては答えず、まったく別な話をする。

 質問者が、質問に答えて下さいと話を遮ろうとしても、声を大きくして勝手な自論をぐだぐだと繰り返すだけ。

 国会議員のテレビ会見は、いつもこんなものだ。

 大きな声で人に話をさせずに、自分だけが喋るだけ。

 こんな人たちが国会議員をやっているのだから、国会で審議なんかで切るはずがない。

 それにしても、小沢さんは日本をどうしようというのだろうか。

 菅さんを首相にしていたら日本はつぶれてしまうとは言うが、自分がどうするかという話を聞いたことがない。

 今回の選挙は、小沢さんが勝っても地獄、負けても地獄。

 結果次第では民主党が分裂しそうな感じもある。

 株も為替も、日本をとりまく状況は末期的なものを感じるのに、個人的な権利闘争をしているときではないと国民はみんな感じている。

 そして、国家、国民のことを考えている政治家はいないということも、悲しいけどわかってしまった。

 この20年、後がない、後がないと言いつつ、根本的な解説策はなく借金生活でしのいできていているのだから、この際もう一度ガラガラポンとぶっ潰しても仕方がないのかなとも思う今日この頃です。

2010年8月25日 (水)

チリ鉱山落盤事故

 チリの鉱山で大きな落盤事故があり、地下に閉じ込められた作業員33人が地下避難所で無事生存しているというニュースが話題になっている。

 事故から17日が経過した22日、状況を探るために地下700メートルの地中に掘り進んだドリルを引き上げたところ「33人は避難所で元気でいる」という手書きのメッセージがついていたというとこだ。

 避難所は地下700メートルの地点にあり、広さは約50平方メートル、照明等の電池や水、食料などがストックされていたという。

 今後は、水、食料品、医薬品などを避難所に届けながら、救出活動を続けていくことになる。

 今日のニュースではカメラやマイクが送り込まれて、地上との連絡もとれるようになっていた。

 しかし、救出までには4カ月もかかるということだ。

 50平方メートルというと15坪、30畳の広さ、1人畳1枚分のスペースになる。

 4カ月間も狭い空間に閉じ込められるわけで、野口さんが宇宙ステーションに長期滞在したのが5カ月だったから、期間的には生きていくこには問題がないのだろうが、生活環境は宇宙ステーションに比べてはるかに劣悪なものになるのだろう。

 宇宙ステーションの長期滞在は長期滞在するために充分な準備をして行なうわけで、今回のように突発的な事故によるものとは全く状況が違っている。

 生存のニュース報道での関係者の喜び方、さらには閉じ込められた側の人が自分たちと別行動で地上に逃げた人の無事を喜ぶ様を見ていると、炭鉱労働者の特別な団結心が感じられる。

 こんな団結真の強い人たちの集まりだから、異常な状態での生活にも耐えることができるだろう。

 無事全員が生還できるとは信じているのだが、報道でも全然触れられていないことで気がかりでしょうがないことが一つある。

 それは、排泄物の処理のことだ。

 排泄物の処理は難民キャンプでも大きな問題になっている。

 溜まっていく汚物の処理や、臭いの問題はどうするんだろう。

 4カ月は長すぎる。1日も早い解決を祈りたい。

 

2010年8月24日 (火)

「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」ウソ?ホント?

 武田邦彦著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」を読んだ。

 3年前に話題になった本で、本屋で立ち読みして面白いと思って買ってきたのだけど、そのまま本棚に放っておいたものだ。

 ちなみに私の本棚はそんな本ばかりで、本屋で立ち読みして買ってきてじっくり読もうと思ってそのままになっているものが多い。

 読まずには捨て難く、本は溜まる一方なので、ときどき集中して読むことになるのだが、読みたくて買った本だけに読みはじめるとなかなか面白いものが多い。

 武田邦彦さんは「環境問題のウソ」論の本を多数出版されていて、その多くがベストセラーになっている。


今回、改めて読んでみようかと思ったのは、私はゴミの分別をこまめにやっているのだが、これが果たして本当にリサイクルされているのだろうかという疑問が拭えないからだった。

 私の町でも今年からゴミ収集が有料化された。

 ただし、資源ゴミについては無料で収集するということになった。

 今まで、空きビン空き缶ペットボトルを資源ゴミとして収集していたのだが、それに加えてプラスチック包装・容器も資源ゴミとして収集してくれることになった。

 私は、これまでも新聞雑誌、ペットボトルはきちんと分別して資源ゴミとして出すようにしていたが、プラスチック容器まで資源ゴミとして仕分けると、一般ゴミの量はずいぶん少なくなってしまう。

 ゴミ収集の有料化で一般ごみは目に見えて少なくなった。

 それは町のごみ収集ステーションを見ても明らかだった。

 一方、プラスチックゴミを含めた資源ゴミの量は増えている。
 
 特にペットボトルの増え方は半端ではない。

 当市では、ゴミ収集無料の時代にはペットボトルは分別すれば資源ゴミとして収集するが、一般の燃えるごみとしても出してもよかった。

 それが、今年から燃えるゴミは有料になったもので、従来は分別が面倒くさいから燃えるゴミとして出していたペットボトルの多くが、資源ゴミとして分別して出されるようになった。

 さらにプラスチック容器も無料収集される資源ゴミになったもので、この2つの資源ゴミの量が大幅に増え、ペットボトルとプラスチックゴミの収集日を増やすことになった。

 私は、この増えすぎた資源ゴミの山を見て、このゴミ状のモノが本当にリサイクルされるのだろうかと疑問に思うようになった。

 それで、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」をじっくり読んでみようと思ったわけだ。

 私の疑問は、武田さんの論に納得させられるところが多かった。

 データの量、質ともに不足した感じがあり、武田さんの個人的な感情のみでの理論展開が多いようも思うが、私が直感的に感じているリサイクルのインチキ臭さを確信に近づけさせられた。

 武田さんの主張については、データを捏造しているとか根拠が曖昧だとか、批判も多い。
 
 大勢としては武田さんが異端児として取り扱われているようだが、ペットボトルやプラスチックゴミを追跡して実態調査をすればその真偽は簡単に判明することだ。

 どこのテレビ局だったか忘れたが、リサイクルゴミの回収業者を数年にわたって追跡調査した報道を見たが、その業者はリサイクル料をもらって回収したゴミを秘密裏に他県に持ち出して廃棄ゴミとして処分していた。

 武田さんも知名度をあげんがために極端な自論を感情的に展開しているように感じられるところもあるが、自論を裏付けるために、武田さんもどこかの自治体のゴミの行方を集中して調査してもらいたいものだ。



 他方では、「環境問題はウソはウソ」という本も出版されている。

 私たちは、一度冷静に環境問題の真偽を問うてみる必要はあるだろう。

2010年8月23日 (月)

梨本さん死去

 今朝のワイドショーで、芸能レポーターの梨本さん死去のニュース報じられていた。

 死因は肺ガン。65歳だった。

 ずいぶん早すぎる死だ。

 亡くなる数日前にもツイッターで闘病生活についての発信をしていたという。

 がんと闘って生還するつもりだったのだろう。

 つい最近、劇作家のつかこうへいさんが、やはり肺ガンで亡くなった。65歳だった。

 サザンオールスターズの桑田さんも食道がんで入院中。

 去年は忌野清志郎さんが58歳で死去。

 吉田拓郎さんもがんの再発でコンサートを中止した。

 若くして癌に犯された有名人のニュースが続いている。

 
 今日のワイドショーで梨本さんの死去を伝えるニュースにおいて、鳥越俊太郎氏が「恐らく家族には、梨本さんの余命についての宣告は伝えられたいただろう」

 「それを梨本さんには伝えていなくて、梨本さんは回復できると信じて闘病生活を続けていたのだろう」

 とコメントしていた。

 鳥越さんは、直腸ガン、肺ガン、肝臓ガンと三回もの手術を受け、みごとに復帰したという経験を持たれている。

 常日頃、「早期発見すればがんは治せる病気だ」と言っている。

 その経験から、梨本さんの状況は手遅れであったことを悲しんでの発言だったのだろうが、「梨本さんは抗ガン剤だけでの治療だったようで、手術ができなくて抗ガン剤治療だけという状態は、回復の可能性は低い」というコメントは、梨本さんと同じ状況にある抗ガン剤だけでの治療をしている患者さんにとっての配慮が足りなかったように思う。

 鳥越さんが日頃言っている、「がんは治せる病気」ということだけを声を大に発信してほしい。

 抗ガン剤治療も進歩していて、効果のある治療法がどんどん開発さていることを大いに宣伝してほしい。

  

 

 

渋谷HMV閉店

 渋谷HMVが閉店。

 九州の片田舎にいて、「渋谷HMV」には行ったことはないのだが、東京みたいな大都会の有名店でも時代の波には逆らえないものだなと感じた。

 98年のピーク時に5878億円あったCDの生産額は、09年にはは2495億円と激減している。

 思い起こせば、最近休養宣言をした宇多田ヒカルが760万枚という爆発的な売り上げを上げたファーストアルバム「First love」を出したのが99年だった。

 その頃はB'ZだのGLAYだの、今病気療養中の桑田君ひきいるサザンオールスターズ、浜崎あゆみ他小室ファミリーと、そんなに音楽ファンでもない私がちょっと思い出すだけでも相当な歌手たち(アーティストと言わなくてはいけないのかもしれないが)が、出すアルバム出すアルバム200万枚だの300万枚だのと販売枚数を競っていた。

 私はほとんどCDを買うことはないので気がつかなかったのだが、そういえばこのこところ100万枚以上売れたなんて話をほとんど聞かない。

 楽曲の売り方も、インターネットでダウンロードして購入するというのがあたりまえになっているそうで、聞くだけならインターネットで聞けてしまうし、作詩作曲演奏する人たちの収入にも影響しているのだろう。

 著作権料や印税収入みたいなものも減ってきているのだろう。

 このことについて、今朝のワイドショーのコメンテーターたちは「CDのジャケットや歌詞カードも一体で曲を楽しんでいる」という意見が多かったが、私はレコード時代に育ったものでいまだにCDの小さなジャケットになじめない。

 たまにCDショップに買いたいアルバムを探しにいくのだが、老眼の身には、CDケースの背中の見出し(本で背表紙)の小さな文字を頼りに目的のCDを探すのは一苦労なのだ。

 それに歌詞カードの文字も小さくて、拡大コピーする必要がある。

 レコードの時代には、アルバムはLPといわれる直径30㎝くらいもあるレコード番だったから、それを包むジャケットをながめながら目的のレコード盤を探すのは楽しい作業だった。

 CD販売製作会社に提案だが、CDジャケットと歌詞カードを昔のLPレコードのサイズにして、それを折り畳んでCDにつけたらどうか。

 40歳代以上の年代をターゲットにした楽曲については、ぜひそうするといい。

 この年代はインターネットもそんなに詳しくないし、お金を使ってCDを買う層だと思われるから、販売促進策としても妙案だと思うのだがいかがだろう。

 60年代70年代のヒット曲をあつめたベスト盤なんかに、LP時代の大きなジャケットと歌詞カードをつけてCD復刻版として売りに出すと結構うれると思うのだが。

2010年8月21日 (土)

ホームホスピス宮崎

 先日のNPO法人のセミナーの資料の中に「アクティーボ」という冊子があり、 宮崎県内のNPO法人の活動が紹介されていた。

 その中でに「ホームホスピス宮崎」があった。

 「『宮崎にホスピスを』でなく『宮崎をホスピスに』・・・」

 「主に終末期の患者さんや介護を必要としてる方の在宅での看取りをサポートしています。」という見出しがで紹介されていた。

 「かあさんの家」を運営していて、民家を借りて24時間体制のホームホスピスを運営している。

Kanban

 
 医療保険制度や介護保険制度の狭間でサービスが受けられない人への受け皿的な仕事もされている。

 ホスピスというのは、癌とエイズに限られるそうで、グループホームは認知症で介護度や年齢に制限があるということだ。

 認知症で癌が発生した場合、積極的な癌治療をしない場合は病院は退院になるし、介護施設では癌や重篤な病気がある場合は受け入れが困難になる。

 そんなときの受け皿となるべく始めたのが「かあさんの家」だそうだ。

 私も昨年母を亡くしたが、亡くなる前の数年間は病気や怪我で入退院をくり返していた。

 医療保険制度では長期の入院ができず、本人の入院していたいという意志にもかかわらず退院を迫られる。

 自宅では介護保険で、訪問介護やデイサービスを利用させてもらった。

 母は最期まで認知症は入らなかったのだが、入退院を繰り返す中で医療制度の矛盾をいろいろ見聞きした。

 ひどい認知症で徘徊等で手間がかかる患者さんは退院を迫られたり、24時間専属の付き添いを自分で手配することを条件にされたりする。

 家での看護や介護が困難だから病院や介護施設にお世話を頼みたくても、受け入れる病院や施設がない。

 病院も介護施設もボランティアで経営をしているわけではないので、手間がかかって採算のとれない患者さんを抱える余裕はないのだろう。

 「かあさんの家」は、民家を借り上げて運営していて、一軒あたり5名の入居者を受け入れ、ケアを担当するスタッフが住み込みで働いている。

 小規模だから、夜勤者はふすまの無効に息づかいを聞き、食べる、排泄する、着替える、お風呂に入るといった普通の生活ができるように援助することを毎日続けて、ともに過ごす時間が重なって、入居者同士もスタッフも疑似家族となっていくのだそうだ。

 また、病院や施設では問題行動がある場合に危険を避けるために身体拘束をすることもあるが、問題行動を起こすのは不穏状態になる原因があるからで、その原因をきちんと見てケアすると問題行動が収まることが多いという。

 そういうケアをしていくためには、せいぜい5~6人が限度だという。

 だから、5~6人で採算だか取れるような制度にするべきだとも言っている。

 自分の母の介護を経験しているが、妻も私も仕事を抱えていて、24時間の介護は無理だった。

 私の母幸い認知症が入らなかったのだが、病気に認知症がともなった高齢者の看護は大変だと思う。

 自分の親でさえ面倒見切れないのに、病院にも介護施設でも引受手がないような患者さんの受け入れ先を引き受けている人がいることに畏敬の念を覚える。

 しかも、それをボランティア活動からはじめたことには、ただただ頭が下がります。

 「ホームホスピス宮崎」ホームページhttp://www.npo-hhm.jp/index.htm

2010年8月20日 (金)

1尾1000円のサンマ

 毎度のことだが、テレビが「サンマの不漁」で大騒ぎをしている。

 海水温が高いためだとか、温暖化だとか、理由もあれこれ論じられている。

 とにかくなんでも異常事態にして人心の不安を煽りたいというテレビの常套手法だ。

 サンマがなくたって生活に支障はないのだから、大騒ぎしてもらわなくてもいい。

 それにしてもサンマの不漁は事実のようで、サンマの値段が高騰している。

 1尾1000円というサンマもあるそうで、今朝のワイドショーでは1尾680円のサンマを売っているスーパーを取材していたが、さすがに買う人はほとんどいないようだった。

 それでも、どうしてもサンマが食べたいという人がいるからスーパーは仕入れをして680円で売っているんだろう。
 

 私はサンマは好きなんだけど、680円のサンマは食べなくてもいい。

 サンマに限らずこのところ話題になるマグロだって同じことだ。

 私はマグロも好きで、特にトロは大好きで、大好きといってもトロは高いから寿司屋さんでもめったに食べなかったんだけど、最近は回転寿司なんかて安いトロが食べられるようになったからときどきは食べていたんだけど、一切れ1000円2000円なんてトロは食べなくてもいい。

 結局、食べる人がいるから獲るわけで、食べる人が多いと獲る方ももっとたくさん獲ろうとして、とりすぎた結果資源が枯渇するわけで、資源が枯渇して少なくなると値段が上がるわけだ。

 私は思うのだけど、トロにしても、100g2000円の肉にしても、確かに美味いけど、毎日こればかりが続いたら1カ月もしないで食べたくもなくなるだろうし、しばらくは食べたくもないという気分になるだろう。

 だけど、ご飯と味噌汁と漬け物だけが毎日続いたら、もっと美味しいものを食べたいと思うだろうけれども、「もう食べたくない」という気持にはならないだろう。

 今は、食べ物は無数にあるわけで、サンマが食べられなかったらサバでもいいし、イワシでもいいわけで、トロや鯛なんかは我慢すればいいというか我慢するまでもなく、無いと生きていけないというものでもない。

 それなのに下手にテレビで大騒ぎするから、日頃食べることもなくて気にしていなかった人まで、トロが食べたくなったり1000円のサンマを食べてみたくなったりして、なおさら品不足になるのじゃないかな。

 人間が豊になると、より美味しいものを求めるようになるわけで、安い魚よりは高い魚、豆よりは肉ということになる。

 マグロなんかのように高級な魚は養殖されて、養殖には安い魚が大量に餌になっているわけだし、牛肉は美味しいけど牛を育てるのには膨大な穀物が飼料として消費されている。

 このまま人間が増殖を続けたら、そのうちに食料不足になることは目に見えているのだが、普通にまあまあおいしい食べ物で満足する生活をしていたら、食料不足になる日を伸ばせるのではないかななどと思っている。

 とにかく、経済的に裕福とはいえない私は、自分が手が出ない高級な食べ物はすぐにあきらめて、手軽に食べられる食べ物で我慢をすることを続けるしかない。

 それでも、私の食生活は結構楽しいものだと思っている。

闘牛場、牛が乱入

 昨日、スペインの闘牛場で牛が客席に飛び込んで観客に襲いかかるというニュースを見た。

 興奮した牛が高さ数メートルの柵を飛び越え、フェンスをよじ登って客席に飛込み、逃げまどう観客に襲いかかる様子が中継画像で映し出されていた。

 テレビの画面は、最初に闘牛場にひっぱりだされた牛を映していたが、自分の置かれている立場がわかっているのか、牛は怒りをあらわにして観客席を睨み付けていた。

 この時点で、闘牛場で牛が暴れて人に襲いかかるニュースなんだなというのはわかったが、まさか2メートル以上ありそうなフェンスを乗り越えて客席に飛び込んでいくとは思っていなかった。

 テレビ画面でアップになった牛が、やおら観客席に突進してフェンスをよじ登ろうとしている姿を見て、「頑張れ!乗り越えろ!」と牛を応援していた。

 客席に飛び込んだら観客が危険なわけで、本当なら観客の心配をしなくてはいけなかったんだろうけど、なぜだか私は牛の応援をしていた。


 闘牛というと、ナポレオンの軍服みたいな衣装を来た闘牛士が赤い布を使って牛を興奮させて、襲いかかってくる牛を直前でさっとかわすという光景だけが印象に残っているが、その繰り返しの中で闘牛士は牛の背中に剣を刺していく。

 それも一気に致命傷になるようなさし方ではなく、急所をはずして何本もの剣を刺していき、最後にとどめをさすということだ。

 私たちはテレビや映画なんかで最初のうちの華やかな部分だけしか見ていないからスペインの伝統文化として何の疑問もなく見過ごしているが、背中に何本もの剣をひきずって、血を流しながら自分に襲いかかる闘牛士という凶悪な敵に向かって勝ち目のない闘いを続け、最後には殺されていく牛を楽しい芸能を見るかのように見続けることのできる日本人は少ないのではないだろうか。


 自然界は弱肉強食の世界で、弱いものは強いものに食べられ、その代わりに弱いものは膨大な子孫を残すということで種を保存させるという食物連鎖の中ですべての生物が生きているわけで、自分が生きるために他のものを殺しているのであって、殺すことが楽しみで他のものを殺すのは人間だけなのではないだろうか。

 人と人が争って、その究極は戦争だろうけど、戦争に限らず人が争う中で相手を拷問にかけるということがあるが、そんなとき相手が苦しむ姿を見ることに喜びを覚えるような心理状況に陥る場合があるようだが、他の動物が人間みたいに他の生き物を意味もなく痛めつけて苦しむ姿を楽しんでいるという話は聞いたことがない。


 人間に特別に頭のいい人やそうでもない人がいるように、牛にも普通の牛に比べると特別頭のいい牛もいるわけだろうから、昨日のニュースの牛がそんな牛で、人間の理不尽な楽しみのために自分の命がもて遊ばれる理不尽さに怒りを感じて、最後の力を振り絞って人間に反撃しようとしたのではないだろうか。

 スペインの伝統的な文化遺産としての闘牛も、最近では動物虐待にあたるのではないかという議論が高まっているようで、スペインでも闘牛禁止条例を採択した州もあるようだ。

 私は、闘牛で牛が殺されていく様子を最後まで記録したドキュメンタリー映画を見た事があるが、胸が痛んで最後までは直視できなかった。

 勝ち目のない闘いを強いられた中で、怒りと悲しみをいっぱいにした牛の表情を見ていて、いたたまれない気持になった。

 日本の捕鯨に反対して世間を賑わす「グリーンピース」は、どうして闘牛を放置しているのだろうか。

 闘牛場にこそ乗り込んで、無法な殺戮を阻止すればいいのだ。

 この牛は、すぐに捕らえられてその場で殺された。

 怪我をした方々はお気の毒だが、大怪我がなかったことは幸いだった。

 私は、非道な人間たちに一矢むくいたかった牛に、やっぱり声援を送り続けたい。

2010年8月19日 (木)

NOP法人設立セミナー

 昨日、宮崎で「特定非営利活動法人(NPO法人)の申請・届出」の講習を受けてきました。

 というのも、先日NPO法人の設立や、NPOのメリット、デメリットについて聞かれたのですが、まったく答えられなかったのですが、ちょうどその直後に講習の案内がきたもので参加した次第です。

 行政書士会の講習ですから、行政書士の仕事としてNPO法人設立の申請方法についての講義は当然のこととして、設立後の運営方法についても題材になっていました。

 講義は1部2部にわかれていて、1部は県の生活・協働・男女参画課の方からNPO法人の設立の申請・届出について、2部は、NPO法人の運営についての具体例でした。

 2部の講師は宮崎市行政書士会の2人の方でしたが、このお二人の方はすでにNPO法人を立ち上げられていて、自分の体験に基づいた運営方法を教えてくれました。

 1人の方は「NPO法人みやざき後見サポートセンター」を運営しておられます。

 成年後見制度普及啓発及び高齢者等の権利擁護、財産管理の支援に関する事業、法人光線法人後見監督に関する事業、成年後見人等の支援及び養成に関する事業を主な事業としているようです。

 成年後見人制度というのは、判断能力の不十分な人を保護するために本人の行為能力を制限するとともに本人のために法律行為を行なったり、本人による法律行為を助けたりする制度です。

 この後見人になる人の8割くらいは家族、親族ですが、弁護士・司法書士などが職業後見人として選任されているケースもあります。

 言葉通り、仕事として後見人を引き受けているわけです。

 私は、行政書士として後見人を業としてとりあつかえるのかという興味をもって講義を聞いていたのですが、「みやざき後見サポートセンター」を運営している講師(行政書士)はボランティア的な使命感だけでやっているように感じました。

 もう1人の方が運営しているのは「フロンティア会」というNPO法人で、ニートや引きこもり、登校拒否の子供たちを支援する事業をしていました。

 この方もまた、ボランティアのようです。

 金儲けのネタにならないかななんて不埒な考えで受講していた私としましては、若干恥ずかしい思いで講義を聞いていました。

 講義のあと、30分くらいの質疑応答の時間がありましたが、私同様金儲け的な発想でセミナーに参加した方が多かったようで、質問者からは収入的な質問が多く、ボランティアで運営している講師との質疑応答が若干かみ合わない印象を受けました。

 中には商業ベースで運営しているNPO法人もあるのかもしれませんが、そのほとんどはボランティアのようです。

 楽して金儲けできるネタはないかなと思っている人が多い世の中で、人のために役に立つことに生きがいを感じている人がたくさんいることをしらされて、予想していたのとはまた違った成果を得た一日でした。

 NPO設立については、しっかりマスターできました。

2010年8月18日 (水)

資源ゴミはリサイクルされているのか

 わが町は、今日は資源ゴミの日。

 ペットボトルとプラスチックを分別して出している。

 一般ゴミ収集が有料化されたが、ペットボトルとプラスチック類は資源ゴミとして無料で収集するというシステムになったせいで、ペットボトルや包装容器のプラスチック類の分別が進んできたように感じる。

 でも、この膨大なペットボトルとプラスチックゴミのどれだけがリサイクルされているのだろう。

 リサイクルには私たちが想像する何倍ものお金がかかる。

 リサイクルの名を借りて、大量の税金が投入されているのだ。

 リサイクルにはお金がかかるから、リサイクル業者は自治体からリサイクル費用をもらっている。

 だから、リサイクル業者は、リサイクルゴミとして収集したごみは当然リサイクルしなければないないわけだ。

 リサイクルにはお金がかかることと、膨大に発生するリサイクルゴミを処理する能力がないこともあり、このゴミを秘密裏に燃えるゴミとして処分しているという話がある。

 このことは、あるテレビ局が何年もかけて取材したものを報道していた。

 リサイクルゴミとして収集してきたものをこっそりと県外にゴミとして持ち出しているのを映像でとらえていた。

  日本生産性本部が今年2月に実施した消費者調査では、温暖化対策に使ってもいいと考える金額は「月1000円まで」との回答が54%、「負担したくない」が22%だった。

 約80%の人が温暖化対策になどお金は使いたくないということのようだ。

 これが実情だと思う。

 私はアパートの管理をやっていてゴミ置き場の整理もしているが、ゴミ収集が無料のときにはペットボトルやプラスチックゴミを分別する人はまれだった。

 それが一般ゴミは有料、ペットボトル等の資源ゴミは無料ということになって分別は進んだように思う。

 建前では「地球にやさしく」なんて言っているけど、結局自分のことが一番大事というのが人間の心理だろう。

 

2010年8月17日 (火)

お盆の大渋滞報道

 お盆休みが終わった。

 お盆前の先週始めから、テレビでお盆による高速道路の大渋滞予測を連日のように報道していた。

 大騒動になりそうな話題を設定して、そのことについて報道を続けていって、いっきにその話題で盛り上げるという談合テレビの常套手法だった。

 テレビ報道は、大騒ぎして人の目を注目させるネタを常に探しているわけで、お盆の大渋滞は夏の定番のネタだ。

 今年は、高速道路の一部無料化と土日全区間1000円均一料金の影響で、高速道路が空前の大渋滞をするという予測をたてていた。

 大渋滞が起これば、お盆の始まりからお盆が終わるまで、いかにひどい大渋滞が起こっているかという様を、各社が競い合って報道する。

 日本中の渋滞情報を探し回り、20キロの渋滞よりも30キロ、39キロよりは40キロといった具合に、渋滞を求めて取材合戦を展開する。

 そして渋滞に巻き込まれた人の苦難の様を、これまた各社が競争で報道する。

 渋滞で退屈して泣きわめく子供の画がとれたら大成功で、パーキングエリアで駐車できない車を見つけては大喜びする、トイレが長蛇の列になっていたら並んでいる人にインタビューできるし、土産物屋が混雑している映像も欲しい。

 今年は、例年の数倍の混雑をわくわくして期待していた。

 100キロの大渋滞になるだろうなんてコメンテーターもいた。

 しかし現実はまったくのあてはずれ。

 お盆前から、お盆期間と連日中継車が出て、例年以上の大渋滞を探しつづけていたが、なかなか期待するほどの渋滞が起こらず、毎日のように「そろそろ渋滞が始まりつつあるようです」なんていうアナウンスを続けて、最後の土曜日、日曜日に空前の大渋滞が起こるのを期待したのだが、それもあてがはずれてしまった。

 本来なら、日曜日から月曜日にかけてのニュースワイドショーの予定枠がすっかり空いてしまったようだ。

 「ニュースで渋滞する、渋滞すると報道したアナウンス効果で、渋滞が緩和されることになってよかった」なんて苦し紛れに言っていたけど、本心から「よかった」なんて言ってないのは見え見えな気がする。

 とって変わってトップの座についたのが、「猛暑」で、日本中の暑さの競演になっってしまった。

 夏は暑いに決まっていて、それにしても今年の夏は暑いなとは思っているが、そんなことはテレビで教えてもらわなくてもわかっているのであって、テレビが本当に視聴者の役に立とうとおもうのだったら、熱中症をはじめとする暑さ対策のことを中心に報道してくれるといいのだけど、もともと暑さにはうんざりしている視聴者にむけて、本当はこんなに暑いんだぞなんてもっと暑がらせるような報道しかしない。

 ということで、今日も暑いけど、夏が涼しいとその方が大きな問題なんだから、しかたがないとあきらめて、夏を乗り切ろうと思っている次第です。

 

2010年8月16日 (月)

わがまま不動産屋、宅地建物取引主任者

 私は性格は悪い。

 性格が悪いと言えるのは、それは私が自分を客観的に見ることができるからで、客観的に自分を見ることができるなんていうと、なんだか福田元首相が言っていたようなセリフで余り好感度の持てるセリフじゃ無いような気がするけど、客観的にみて私の方が福田さんより自分を客観的に見ることができる自信があって、福田さんは自分を客観的に見ることができると言っていたわりには世の中の評判を全然わかっていなかった。

 話がそれてしまったが、客観的にみて自分は言葉を選ばずに話をするもので、相手を傷つけたり怒らせたりすることが多々ある。

 悪意はないのだが、というか悪意がなくても人を傷つけていいわけはないのだが、大人の社会は本当のことを言ってはいけないことがあるとわかっているのに、つい思ったままの発言をして相手を傷つけてしまうのだ。

 不動産情報館日記でも書いたが、貯金がぜんぜん無いのに住宅ローンをめいっぱい借りて家を買いたいというお客さんに、「貯金ができていないということは、収入に余裕がない生活をしてきていたのだから、安易な気持で家を買ってしまうと生活が厳しくなりますよ。」「5万円の家賃を6カ月滞納したら30万円の負債になるけど、1500万円借りた住宅ローンの月々の支払い5万円を6カ月滞納したら1500万円一括で支払えってことになって、1500万円一括で払わなかったら家が競売にかけられて、競売だと600万円か800万円でしか売れなくてローンの残額は700~800万円残ってしまう。競売になって家が無くなったらおしまいってことじゃなくて、家が無くなってもさらにローンの残額を払えと責めたてられることになるんですよ。」
 
 なんて助言(と私は思っている)をすると、ほとんどのお客さんは不愉快なことを言う屋だという顔をして帰ってしまう。

 これは私の勝手な正義感だとは承知の上なのだが、不動産会社の広告につられて安易な考えで家を買おうと思っているお客様にはどうしても言わずにいられない。

 お客様はお客様なりに自分の夢を描いて、それこそ楽しい気分で家探しをしているのに、いきなり頭から水をぶっかけるようなことを言ったのでは愉快なはずが無い。

 こんな私の助言を聞いて、「よくぞ言ってくださった」と感謝していただいた記憶は、当然のことながら全然ない。

 たまに、「家を買うためにパートも始めたし、無駄遣いもやめた。車も1台処分して家計を引き締めてますから大丈夫です」なんてことをおっしゃるお客様がいたりして、そんなお客様なら大丈夫かなと思ってお付き合いしていただく。

 そもそもお客様に説教がましいことを言うは、商業人としては正しいことではないと思うのだけど、心配なお客様を目の前にするとどうしても余計なことを言ってしまう。

 それに、これも以前に言ったことだけど、私は、てげてげな(相当な)よだきんほ(なまけもの)なもので、「お客様は神様です」ってことでお客様の言いなりになってしゃにがむに動き回るのがよだきい(めんどう)だということもあるんですね。

 営業の秘訣はまずはスピード。考える前に動けなんて言われて、実際それが正道だろうとは思うのだけど、だからといって下手な鉄砲も数打ちゃ当たる式にお客様の要望に合うかどうか考えることも、なんでもかんでも物件を紹介していく営業はどうも苦手で、お客様の要望に合うものをじっくり選んで希望にあったものだけをすすめている(つもり)

 お客さんからは全然顔も出さないダメ営業マンになってしまうことが多い。

 実際お客さんの要望を100%満たす物件はないのだけど、70%か80%を満足させる物件もそうそうにあるものでもない。

 それは不動産に従事している人はみんなわかっていることで、50%か40パーセントしか条件を満たしていないような物件でも一応紹介する。

 そうしているうちにお客様も、いろいろと物件を見ているうちに自分の条件を100%満足させる物件はないことを気がついて、少し条件を広くしてくる。

 そんなとき、やっぱり一所懸命物件を紹介してくれていた不動産屋さんがいい不動産屋さんであって、私みたいなよだきんぼの不動産屋はそんな営業マンに遅れをとってしまう。

 そんな私でも不動産業界で30年やって来れたのは、人より勉強をしてきたせいではないかと思ったりしている。

 これは客観的な事実ではなくて、すこぶる主観的な感想なんだけど、不動産屋さんは勉強しない人が多いように感じていて、それは私が30年前に不動産会社に入社したときの感想で、その時代に比べると最近の不動産屋さんは少しは勉強しているようだけど、それでもまだ不動産取引のプロと自称するにはおこがましいほどの勉強しかしていない不動産屋さんが多い。

 不動産会社を始めるには不動産の資格をとらなくてはいけなくて、それか結構難しい資格だと巷(ちまた)では思われているようだけど、これはそんなに難しい試験ではない。

 その資格というのが宅地建物取引主任者というのだけど、合格率は10%ちょっとで、合格率を見るとやっぱり難しいじゃないかと思われるかもしれないけど、実質の合格率は50%だと思って良い。

 というのは、試験を受けている人の半分くらいはほとんど勉強しないまま試験を受けていて、この人たちは合格できるはずがないと思ってじゅけんしているわけで、残りの半分の半分くらいの人は少しだけ勉強しているけど合格はまず無理だろうと思いながら試験を受けている人たちで、結局絶対に合格したいと思って勉強して受験しているのは全体の25%くらいの人なのです。

 この25%の人の半分の人が合格するわけで、 25%の半分の12~3%の数字が、受験者総数の12~3%になるのだが、合格するつもりで勉強した人だけを対象にしてみると合格率50%になるわけだ。

 
 長年そんな身の回りの人を見ていて分析した結果が、私の持論である合格率50%論だ。

 不動産会社に勤めている者は、取引主任者の資格の必要性は重々わかっているわけで、みんな試験は受けるのだけど、ほとんどの者が勉強しないまま試験日を迎えてしまって、ひょっとしてまぐれで通らないかと試験を受けても一夜漬け程度では受かる試験ではない。

 当然試験は不合格で、来年こそはと思いつつまたしても勉強しないまま試験日を迎えてしまうということを何年もくり返している人たちのなんと多いことか。

 この資格(宅地建物取引主任者=宅建主任者)がないと不動産業はできないと勘違いしている人が多いようだけど、不動産会社の社員5人に対して1人の宅建主任者がいなければならないという資格なのだ。

 だから、延岡市を例にとると大きな不動産会社でも社員はせいぜい20人くらいだから、そんな会社だと取引主任者が5人くらいるだけで、営業マンの多くが資格をもっていないわけだ。

 そんな資格も持たないで不動産のプロなんて言っている営業マンも多いのですよ。

 専門家と言うのだったら最低取引主任者の試験に合格するくらいの勉強は必要で、しかも必要性を感じて勉強さえすれば2回で合格できるはずの資格をとっていない人のほうが多い業界だから、人よりちょっと勉強しただけで私が法律に詳しいという評判をもらえたわけだ。

 私はこの業界に入って数年でそう感じて、自分の悪い性格は変えられないから、代りに勉強して不動産の法律や税金に詳しくなって、欠点を補おうと思って勉強をした。

 で、結構業界内でも詳しくなって、ずっと会社勤めをしていたから私の知識を会社内で利用できていたから私の存在価値もあったのだが、10年ちょっと前に独立してからは徐々に私の性格の悪さが経営のさまたげになると通説に感じて、遅きに失する感もあるのですが゛、少しは言葉を慎もうと思い仕事にいそしむ今日この頃です。

 売買契約解約 その②

 先日売買契約をした買主さんの融資が受けられなかくて解約になった話をしましたが、その後の経緯です。

 しっかりとした説明をして契約をしていたものですから、売主さんには、契約解約についてすんなりと受け入れていただきました。

 差し入れていた手付金100万円もその日のうちにもどしていただきました。

 100万円と言えば結構な大金ですので、銀行にあずけておいた手付金をおろしてきていただきました。

 売れたと思って喜んでいただいてたのに、手間をおかけするとこになり申し訳ない気持で、顔を合せるのがつらいです。

 その手付金を買主さんにもどして、解約の手続きを終了しました。

 売主さんの処理も買主さんの処理も、時間をお客様の都合に合せの処理です。

 次に、融資を申込みしていた金融機関に行き、融資申込み時に差し入れていた土地建物の登記簿謄本の原本を始めとする書類を引き上げて、それを売主様側の不動産会社に届けなければいけません。

 そして、もう一度売主さん側にお詫びすることになります。

 スムーズに売れたときと同様の仕事量です。

 感謝もされず、自分の落ち度ではないけどお詫びをして、報酬はゼロです。

 スムーズに行くときにも、水面下ではトラブルにならないように問題点を全部解決しながら話を進めているのですが、スムーズに行っているときには私たちのそんな努力は見えないものです。

 「不動産屋さんはいいね。ちょっと案内して、ちゃちゃっと書類を書いただけで何十万円もの手数料をとるんだからね。手数料をちょっとまけてよ。」なんていうお客さんがいますけど、私は手数料はまけません。

 手数料を値引きしなくてはいけないような仕事はしていませんから。

 私は、たった数十万円のために、数千万円の責任を負って仕事をしております。

 という、不愉快な発言をする不動産屋です。

2010年8月14日 (土)

朝日新聞、住宅の夢、競売

 今朝の朝日新聞の1面トップ記事は、不動産会社や不動産販売会社の関係者にとって、どきっとする内容だった。

 「住宅の夢 そばに奈落」という見出し。

 副題は「競売09年度6万件」

 09年度に新築された住宅は80万戸。

 マイホームの夢をかなえた人の陰で、競売以外で売却された分も含めれば、その1割相当の「住宅ローン破綻」が起きているとみられる、という記事だ。

 確かにそういった傾向はあるだろうと思う。

 しかし、少なくとも私の住む町延岡市では少し様相は違っていると思う。

 まず、ここ数年新築住宅の受注が非常に低迷している。

 不動産業者が口を揃えて言っているのは、「土地が動かない」という言葉だ。

 そして、次に出てくるのが「中古住宅が売りにでてこない」という言葉。

 競売になる物件がまったくないというわけではないのだが、その数は少ない。

 新築物件が売れにくいので、新築の建売業者さんの活動もあまり活発ではない。

 小さな町なので(といっても人口は13万人あるのだが)、地縁血縁、友人知人、知り合いだらけで、あまり強引に売りつけるような商売をしている会社はいない。

 数年前に圏外の新築マンション販売会社が新築マンションを分譲したが、その会社の販売方法は地元業者にはまねができないほどの熱心さがあった。

 のんびりしている宮崎人からみれば、ときとしてその熱心さは強引とも思えるような営業にも思える。

 日頃の自分の商売がなんとのんびりしていることかと、見習うべき点もあった。

 
 最近私が相談を受けたお客さんは、圏外のマンション販売会社からマンションを購入していて、支払いが困難になってどうしたらいいかという相談で来られた。

 今日の新聞の内容と同じような状況でマンションを購入されたようだ。

 地元の銀行では借りれなかったけど、その販売業者さんの提携の金融機関で融資を受けられるとこになって購入を決心したというわけだ。

 新聞記事と同じように、マンション販売会社の口車に乗り、そこと提携している銀行から融資を受けたわけだ。

 今日の記事では不動産会社と銀行がが諸悪の根源みたいに書かれていた。

 たしかに直接的な原因は不動産会社や新築販売業者だろう。

 そしてそれに加担する銀行ということになるのだろう。

 しかし、一番の現況になっているのは国の経済対策なのだ。

 建築は経済的に大きな需要を喚起する。

 だから、国は不況対策として建築需要を刺激するような税制改正を行い、金融対策をして新築需要を喚起にやっきになってきた。

 それに乗っかったのが不動産会社であり銀行なのだ。

 今日の記事で被害者的に扱われている方は、「もともとも無理な借金だった。不動産会社の言いなりになってしまった」と後悔ばかりが口をついていたということだ。

 この記事の中で、「銀行や不動産会社に『家賃と同じ返済額と言われ』頭金なしで家を買う人がいる。だが、頭金がない人はぎりぎりで暮らしてきた人。家を買うとローン以外の負担も増え、返済が苦しくなる。」家計の相談に乗るファイナンシャルプランナー藤川太さんはこう警告する。」とあった。

 私は不動産業をやっていながら、藤川さんと同じことを言っている。

 まずいことに私は言葉の選びかたが悪くて、もっと直接的な言葉で助言する。

 「家賃を5万円も払っている。家賃を払うだけでは馬鹿らしいから、家を買いたい」というお客さんに、決まってする話がある。

 なにかの事情で今の収入が得られなくなって、家賃を6カ月滞納したら貸家を退去しなければならなくなるだろう。そのときには30万円借金ができることになる。
 
 低利で長期のローンを組めば、月々の返済額5万円で1500万円借りれるのかもしれない。

 このローンの返済を6カ月も延滞したら、一括で1500万円支払えという支払い命令がくることになる。

 そして、次には競売で売却ということになるわけだ。

 競売というのは銀行などの申し立てにより、裁判所が入札により強制的に売却するという制度だ。

 競売での価格は市場価格の半値から3割引きくらいなる。800万円から高く売れても1000万円くらいでしか売れないだろう。

 競売で家を売却されても、借金は消えるわけではなく売れた価格の残額は借金として残り、金融機関から残額を取り立てられることになる。

 だから、安易な考え方で、家賃を払い続けるのはもったいないから家を買うというのだったら、そこのところをよく考えて計画したほうがいいですよ。

 という話をする。

 この話は常日頃から周りの人によく言っていることで、私の言っていることは正しいと賛同してくれる人が多い。

 しかし私の話しに賛同してくれるのは、自分に対して言われたことではないからなのだ。

 私は親切だと思って言っているのだが、言われたお客様のほとんどは気分を壊されるようだ。

 私の言い方も悪いのかもしれないが、「家賃並みでの支払いで家を買いたい」というお客様にこの話をすると、そのほとんどの方は「自分を貧乏人扱いにした」という感じで気分をこわしてお帰りになる。

 頭金が無いお客様についても、藤川太さんと同じ考えなので、「今まで貯金をしない生活に慣れている。家を買ったら節約してなんとか支払いができるというお考えでしょうが、相当気持ちを入れ替えないと支払いが厳しくなりますけど、大丈夫ですか」と、つつ言わなくてもいいことを言ってしまう。

 こんな私の無神経とも取れる老婆心的助言に対して、「今までは、これこれの事情で貯蓄はできていないが、これこれの方法で支払いできる家計設計ができているので、家を購入したいのだ」というお客様が、まれではあるがいらっしゃる。

 そういった方だったら、私も安心して物件をおすすめできる。

 だが、そういった奇特なお客様がごくまれにしかいらっしゃらない。

 私は大半のお客様を怒らせてしまっています。

 私は不動産に従事して30年、「よくぞ家を買うことを思いとどまらせてくれました」と、お客様に感謝された記憶はない。

 一人だけ、「あなたに言われていた頭金ができたので本格的に物件を探して欲しい」とお見えになったお客様がいらっしゃった。

 他のお客様のほとんどは、私の助言を余計なお世話と思い、他の不動産会社を訪れていることだろう。

 そんなお客様が、自分の考えを肯定してくれる不動産会社と出会い、自分の意にそって物件をすすめてもらい、無理やりにでも銀行ローンをとおしてもらって、その結果支払いが困難になると「不動産会社の言いなりになった」と、すべてを人のせいにして後悔しているということも多いのではないだろうか。

 不動産に限らず、詐欺的な投資話なんかで、儲け話に「口車にのってしまった」という言葉をよく聞く。

 確かにだますほうが悪いのだが、だまされた方も人の責任だけにはできないように思える。

 長くなったけど、今日の新聞記事から徒然なるままに。

2010年8月13日 (金)

仙台 教諭殺人事件

  仙台の高校教諭殺人事件で、被害者の妻が共犯者として逮捕された。

  先に逮捕されている容疑者の一人は、この妻の住む家で逮捕されている。

  これまでの報道をみていても、容疑者と被害者の妻の間になんからの関係があることは想像させられていた。

  被害者は、殺される2カ月前に顔は血だらけ前歯が数本折れた状態で学校に登校している。

  頭蓋骨骨折までしている重傷なのに、酔って誤って溝に落ちて怪我をしたと言って出勤したというのも不思議な話だった。

  そのまま2カ月入院することになったのだが、退院した日に殺害されている。

  ワイドショーが大喜びしそうな事件だ。
 
  この報道を見ていて、納得できない事が2つある。
 
  ひとつは、被害者が大怪我をした時の事が余り調査されていないこと。
 
  このときの状況は明らかに異常だった。
 
  前歯は全部折れ、顔は血だらけという状態で出勤してきている。
 
  本人は自分で転んだと言っていたそうだが、明かに事件性を感じさせる状況だった。
 
  傷害事件は刑事事件だ。
 
  2カ月もの入院を必要とする重傷だったわけで、これが傷害事件であれば警察は事件としての操作をしなければならなかったはずだ。
 
  本人が、自分でころんだと言っていたので事件として取り上げなかったのかもしれない。
 
  警察は納得いくまで事情聴取をしたのだろうか。
 
  過去に、誘拐殺人事件の恐れがあって家族が警察に操作を依頼しても相手にしてくれずに殺人に至った事件が何度かあった。
 
  ストーカーへの恐怖を警察に訴えたのに、警察が真剣に対応してくれずに殺されてしまったという事件もたびたびあった。
 
  警察官の中にも公務員化している警察官もいるようで、わずらわしい問題にかかりあいたくないという態度の人もいるのではないか。
 
  あのときも今回と同じ人間関係はわかっていたはずだ。
 
 頭蓋骨陥没という大怪我をする重大事件が発生したのだから、事件としての調査をもっと真剣にしていれば今回の殺人事件は防げたのではないだろうか。

 もう一つの不満は、テレビ報道のあり方だ。

 今回の事件をテレビ報道で見る限り、被害者の妻が関与している可能性は高いのかもしれない。

 しかしこの妻が「私は関係ない」と言っている。

 それなのに、次々と妻と容疑者が関係あるかのように報道している。

 この妻と容疑者が深い関係にあったと報道しているが、妻はあくまでも否認している。
 こういった報道で、いつも思い出すのは「松本サリン事件の河野さん」のこと。

 この事件に限らず、報道各社は事件に関与しているかもしれない人に暴力的ともいえる取材攻勢をかけてるようだ。

 まだ確証がとれない噂話の状態でも、水面下ではすざまじい取材合戦を繰り広げているようだ。

 水面下というが、それは視聴者に見えないだけのことで、疑いをかけられている人の家に押しかけ、さらには近隣住民、親戚、友人知人、同級生にいたるまで、ありとあらゆるところに押しかけているのだろう。

 そして思惑に合致する証言のみを流す。

 許せないのは、本人は「やっていない」と言っているのに、報道が勝手に「新しい事実がわかりました」と言って、確証のとれてないことを「事実」のように報道することだ。
 「新しい事実がわかった」というから、どういう「事実」がわかったのかと思って聞いてみると、誰が言ったかわからない「噂話し」の域を出ないような話だったりする。

 三流週刊誌やいかがわしいスポーツ新聞のように、読者も記事の信憑性を問わず面白い読み物として割り切ってしまえるのならいい。

 テレビキャスターがそのような三流週刊誌とは違った、真実を報道するという姿勢を演じるのならば、間違っていたら腹を切るといった心づもりで喋ることだ。

 スポーツ新聞ではこう報道されているだとか、週刊誌はこう言っているというだけだったら、キャスター面はやめて芸能レポーターと名乗ればいい。

 人の言葉を借りて、一切責任をとらなくていい立場から、知識人面してお喋りされると不愉快だ。

 

2010年8月12日 (木)

融資特約付き売買契約

 今日は、ちょっと気持が重くなることがありました。

 先日売買契約をした買主さんの融資が不承認になったのです。

 それを売主さんに報告して、契約を解除して売主さんがあずかっている手付金の返還のお願いをしなくてはなりません。

 売れたと思って喜んでいた売主さんもがっかりしますが、買主さんもがっかりします。

 今回は中古住宅だったのですが、買主の方はやっと気に入った家が見つかって、そこで始まる新しい生活を夢見ていたのです。

 その夢が叶わないということと、自分の借入能力の限度を知らされて二重に落ち込むことになります。

 楽しい仕事ではありません。

 ただし、今回のようなケースでも、手付金はちゃんと帰って来ますし、買主さんの経済的な被害はまったくありません。

 というのは、今回の売買契約は「融資特約」をつけての契約でしたから、融資が出ないことが原因で売買契約の履行が不可能となった場合は、買主側にはなんらのペナルティーは発生しません。

 最近の売買契約は、ほとんどこの「融資特約」をつけての契約になります。

 この契約は買主さんにとっては非常に安心できる契約です。

 一方売主さんにとっては不利な契約であるとも言えます。

 だから、私たち不動産業者は買主さんの収入や勤務年数、手持ち金等の諸条件を調査し、融資が可能だと思うお客さんだと判断して売買契約を締結するわけです。

 通常は契約の前に、金融機関とも相談してある程度の目処を立てた後に契約をします。

 それでも、今回のように融資が不承認になる場合があるのです。

 繰り返しになりますが、不承認になると売主さんも買主さんもがっかりされますが、実質的には大きな被害はありません。

 私たち不動産業者は、売主・買主に大きな迷惑がかからないよう充分説明して契約をしているわけです。

 それで、一番がっかりしなくてはいけないのは私たち不動産業者です。

 まず物件の調査をしています。

 そのためには登記簿謄本始めとして実費として費用がかかっています。

 新聞広告費用もかけています。

 そして案内。

 案内も一度や二度ではなくて、いくつもの物件を案内します。

 その結果気に入った物件が見つかったら、価格交渉に入ります。

 これが一番大変。

 売主さんと買主さんの間には価格に結構大きな開きがあるものです。

 それを何度も折衝して、お互いの価格をおりあわせてやっと売買契約になるのです。

 売買契約にあたっては、重要事項説明書の作成、売買契約書の作成。

 さらには売主さんと買主さんとの時間調整。

 契約後は銀行に資料や関係書を届けて、融資についての打合せもあります。

 膨大な仕事量になるのです。

 契約に手落ちがあれば損害賠償問題もおき兼ねませんので、手落ちの無いように神経を使います。

 それだけの仕事をしても、買主さんの融資がでなければ契約は白紙解約です。

 売主さんにお詫びし、買主さんからも感謝はされず、そして無報酬なのです。

 だから、今日はちょっとブルーです。

 だけど、今日は午後は別の契約があります。

 当然、このお客様も融資特約付きで契約をします。

 このお客様は、購入するにあたって銀行と一カ月近い相談をしていて、担当者からは内諾が出ているのでちょっと安心です。

 しかし、安心してしまえないのが不動産取引です。

 なにがあるかわかりません。

 不動産の売買契約についてはもう少し詳しく話をしたいのですが、そんなこんなで、今日は落ち着いてブログを書いていられません。(といいつつここまで書きましたが)

 売買契約については、後日書こうと思います。

2010年8月11日 (水)

不明高齢者と年金

 所在不明の高齢者の問題が全国的に、次々と明らかになっている。

 神戸市は10日、住民登録された100歳以上の高齢者のうち105人の所在が分からないと発表した。

 また、105人のうち、存命が確認できれば現在の日本最高齢の113歳を上回る114歳以上が18人いることも判明。

 その中には、生きていれば、日本最高齢125歳女性も含まれている。

 その住民登録の住所は、81年に神戸市が買収し公園となっているという。

 市は、所在不明の105人にあらためて訪問調査や周辺住民に聞き取りを始め、所在不明が確認できれば住民票抹消手続きを行うことにしたそうだ。

 神戸市が発表した所在不明の高齢者の数は、これまでに発表された数のなかでも最大級だ。

 しかしこれは、神戸市が不在高齢者問題に対して真剣に踏み込んだことに結果だと思う。

 もっと人口の多い東京、大阪、まだ不明者の数を発表していない市町村でも、相当数の不明者がいると思われる。

 神戸市は、所在不明が確認できれば住民登録の抹消をすると発表しているが、これはもともと法的に定められている事項なのだ。

 それに、年金は本人のために給付するわけだから、本人がいて本人のために年金が使われているのかを確認するのは当然のことだ。

 それを、「プライバシーの問題で・・」「個人情報があるから・・」などと、わけのわからない理由で言い訳していたわけだ。

 責任のがれのいい訳で、テレビの画面みていてもそれはわかる。
 これはテレビのもつ強力な力。

 先日の東大阪市の担当者の記者会見がその典型だった。

 東大阪で119歳になる所在不明者の問題での記者会見で、「年齢の公表は誤解を与えるので・・」ともぞもぞと発表する市の担当者は、一見しただけで本当のことを隠していることは明白だという態度だった。

 おどおどとし、焦点は定まらず、言語不明瞭。

 案の定、記者から「誰に対して誤解を与えるのか?」と突っ込まれ、それに対しては「いやんな意味で誤解を与える」などとわけのわからない答えをする。

 さらに記者から、「いろんな意味って?」と突っ込まれると、「そのへんは差し控えたい」と日本語として成立しない答えをする。

 私も「よだきんぼ」(なまけもの)で怠慢な仕事をすることもあるが、自分の仕事の不手際を指摘されたら、即座に「申し訳ありません。お許しください」と即座に非を認める。

 非を認めれば良いってわけではないが、言い訳すればするほど泥沼に入ってしまう。

 公務員さんの立場もわかる。

 正しいことを行なおうとすると、不正をやっている相手から恫喝されることが少なくないのだろう。
 

 私だって、電車の中で禁止されている携帯電話で大きな声で話している人がいたとしても注意をする勇気はない。

 それと同じこと。

 誰だって、もめごとにはかかわりあいたくないもの。

 しかし仕事となればやらなければいけないときもある。

 今だったらマスコミが応援してくれる。

 良くも悪くもマスコミを味方につけたら勝者になれる。

 市役所や関係の方々は、不正受給が行なわれていることをみんな知っているはずです。

 それを正すチャンスは今しかありません。

 テレビを引き連れて、不正受給者のところに押しかけるのですよ。

 テレビがバックにつけば鬼に金棒。

 テレビの流れに勝てるものはないんです。

 それでも勇気のない人は、情報をテレビにリークしてはいかがだろうか。

2010年8月10日 (火)

脳死による臓器移植、改正臓器移植法

 本人の書面による意思表示がなく家族承諾のみでの脳死による臓器提供が行なわれることになった。

 改正臓器移植法の施行からわずか3週間余りのことだ。

 私は臓器提供はしたくはないという意思表示をしている。

 子供たちは臓器移植をしてもいいという意思表示をしている。

 私は子供たちの意志を知っているが、万一子供の臓器提供を問われる事態に遭遇したら、臓器提供を拒否したいと思っている。

 それは人間の良心を信じきれないからだ。

 医療従事者、移植コーディネータ、その他移植関係者の多くは善良な人たちかもしれない。

 しかし、全部の人を信じ切ることができない。

 数年前の未経験の内視鏡手術で患者が死亡した事件が記憶に新しい。

 立派な病院だったように記憶している。

 手術はビデオで撮影されていて、主実の場面がテレビで報道されたが、医者の笑い声が聞こえていた。

 新しい内視鏡手術で、その医師たちは器具の取扱マニュアルを片手に手術をした。

 医師の研究心から新しい技術を習得したいということもあるだろう。

 しかし、人間の功名心から人に先駆けて新しい技術を試してみたいという心理がないとは言えない。

 医学の発展には、たくさんの犠牲が伴うものかもしれない。

 脳死による臓器提供において3つの重要ポイントがあるという。
 
 「治療を充分つくしたか」「脳死判定を厳格に行なったか」「家族は充分納得しているのか」ということだ。

 今回のケースで気になるのは、家族の同意を得る前に日本臓器移植ネットワークに連絡が入っていたのではないかということだ。

 臓器ネットワークに連絡が入ったのは8月5日のこと。

 家族が臓器移植ネットワークに脳死判定と臓器摘出について承諾したのは8月8日。

 その後に脳死判定を始めている。

 臓器移植関係者は、脳死移植によって助かる人のことで頭がいっぱいになっているだろうが、死を目前にして消えかかっている人の命のを最大限に尊重してもらえているのか。

 今は、臓器移植がトップニュースになり全国民の衆目にさらされているから、慎重に厳格に脳死判定を行なっているだろうが、臓器移植が増えて話題にのぼらなくなったときにも、すべての医者や関係者が今と同じ気持のままでやってくれるのか。

 私は不安は拭いきれない。

「あなたの息子さんは脳死状態です」

「絶対に回復の見込みはありません」

「あなたの息子さんの臓器移植をすることによって助かる命がたくさんあるのです」

 と説得されて、断りきれなくなる人はいないだろうか。

 「あなたは脳死状態のご家族の臓器移植についてはどういうお考えですか」

 「臓器提供をされたいですか」「臓器移植はしたくないですか」

 という単純な質問をしてもらって、家族が少しでも「したくない」という意志を表したら、それを尊重するようにしてもらいたい。

 「臓器移植が普通のことになって、臓器移植をしたくないということを言い出しにくい風潮にならないことを願う。

 それが脳死による臓器移植の伸展のためであるとも思う。

2010年8月 9日 (月)

中国のバブルがはじけませんように

 昨日の日経新聞一面にちょっと心配な記事があった。

 「中国問題債権19兆円」と言う記事だ。

 それによると、中国の商業銀行が地方政府系企業に対して実施した融資のうち、将来不良化する恐れがある「問題経験が」19兆5000億円もあるというのだ。

 一部の地方政府系企業が景気対策に名を借り、採算の見込めない事業に多額の資金を投じてきている。

 景気減速などで、こうした企業への融資が焦げつけば、中国の銀行システムへの打撃は大きい。

 日本だけでなく、世界中がにっちもさっちも行かなくなっている。

 日本の「失われた10年」は、引き続き10年延長になった。

 それでも、「失われた10年」から抜け出すことができない。

 それは、日本だけではなくアメリカもヨーロッパも同じだ。

 唯一、まだ発展途上にあった中国経済で世界経済が保たれているような気さえする。

 この中国が破綻したらと考えると恐ろしい。

 そんなことを感じているのだが、このところの中国はちょっとおかしい。

 20年前の日本のバブルの時を彷彿とさせるものがある。

 バブルだけではなく、日本の不必要な公共事業投資、特殊法人や独立行政法人への税金投入問題と同じ道を歩いているような気もする。

 つくづく、人間はどうしようもない、 自分の利益そして目の前の利益にしか目が行かない動物だと思う。

 官僚や政治家に税金の無駄遣いをするなと言っているが、自分のために使ってくれる無駄遣いならいくら使ってもらったっていいと思っているのだ。

 無駄な道路やダムは造るな!と言うが、自分の町の道路もダムは造ってもらいたいのだ。

 すべてのことがそういう論理で動いている。

 天下り先で悪名高い独立行政法人にしても、その法人に関連している企業、関係者にとっては必要なのだ。

 一般企業と役所の予算の使い方の違いの例えとして、一般企業は予算内で予定の仕事を達成し予算を余らせることは手柄になるが、役所は予算は全部使い切らければ能力がないとしかられるという話がある。

 実際、年度末には余った予算で公共事業をやったり、事務所の備品を買い換えたりしている。

 しかし、一般企業でも同じようなことはある。

 例えばである。

 私は、宮崎県宅地建物取引業協会延岡支部に所属しており、その中で研修委員会の委員長をしている。

 延岡支部では、いくつかの委員会ありそれぞれの委員会が各種行事を担当している。

 各委員会では、年間の運営費として数万円の予算をもらっている。

 予算は主に会議費としてのものだ。

 会議費といっても会議は協会の事務所で行なうわけで、会議自体にはお金はかからない。

 各委員会とも、委員の親睦という名目で行事の打ち上げ等の飲食にお金を使っている。

 昨年だったか、私が委員長をしている研修委員会では、私が忘れていて飲み会等を一回も開かなかったので年度末の予算が余ってしまった。

 私は、この予算を協会に戻すことに決めた。

 協会もここ数年会員が減少傾向にあり、財政が厳しいと言っているのでわずかな金ではあるが余った金は戻そうと思ったわけだ。

 そうしたら、会員の中からもどすのはもったいないから年度内に食事会をしようという声がでた。

 これが、税金の無駄遣いの構図なのだと思った。

 自分が財布の中からだした金ではなく協会から与えられた予算だから使ってしまわないと損だ。

 一方協会は会員減による会費収入が減っていることから会費値上げをしたいのだが、会員の負担を増やしたくないので、経費を減らす努力をしてなんとか運営している。

 日本の現状と全く同じなのだ。

 片や何千億円、こちらは数万円のことだが、根本は同じことだ。

 総論としては無駄遣いをやめて、財政を健全化するべきだ。

 でも、自分に及ぶ無駄遣いはどんどんやってくれ。

 これが大半の人間の本質だ。

 バブルを造ったらその反動で経済が混乱することはわかっている。

 でも、目の前に自分の利益があるのであれば、バブルも大歓迎。

 国家、国政についてもそうだ。

 無駄遣いはやめて、本当に国民のための税金の使い方を考えろといいながら、自分のためには金をよこせというのが人間の心理だろう。

 だから、国民全部が「痛みに耐え」なければならないのだけど、「痛みに耐えなさい」と大きな声をあげ、錦の御旗を振っている張本人たちが甘い水を飲んでいては世の中変わらない。

 一般庶民も本気で「痛みにたえる」から、支配者階級の人たちも「痛みに耐えろ」という約束をして、約束をたがえたら暴動をおこすぞという契約ができないものか。

 などと、思ってしまう。

2010年8月 7日 (土)

核、戦争、平和記念日

 原爆投下から65年。

 今年の広島の平和記念式典は、国連事務総長が参列、原爆投下国のアメリカの駐日大使も出席。

 核保有国のイギリス、フランスからの出席もあった。

 昨年のオバマ大統領の核廃絶に向けた演説もあって、核軍縮への流れが強まりつつあるのかもしれない。

 

 しかし、その後クローリー米国務次官補は自身のツイッターで「アメリカが日本に謝罪することはなにもない」と述べている。

 私は、中学校の修学旅行で長崎の原爆記念館で見た核爆弾の悲惨さ残酷さには大きな衝撃を受けた。

 戦争反対、各開発反対の思いを強く抱いた。

 そして、それ以来ずっと戦争反対、核の開発・保持も反対だった。

 日本の平和憲法は世界に誇れる憲法で、堅持すべきだと思っていた。

 学生生活を終え、社会人として生活するようになり、実社会での経験を重ねていくうちに、日本の平和憲法は人類の理想ではあるが、人間の本質からして現実的にはあり得ないことだと思うようになった。

 普通に暮らしていても、正義が暴力に負けてしまうことはしょっちゅうあることだ。

 いかにも暴力的な人が行列に割り込んできても、怖くて注意もできない。

 仕事で、あきらかに無理難題のいちゃもんをつけられても、恐ろしくて何も言えずに相手の言い分をのまされたこともある。

 いつも最後には正義が勝つ「水戸黄門」なんかが、一定の視聴率を取れるというのも、実世界で自分の正義を曲げて理不尽な強い力に負けている多くの庶民の、あこがれの裏返しだと思える。

 私も、戦争は絶対に反対だ。

 戦争は絶対にいけないことだと思う。

 だから、人類が一切の武器を捨て、この世から戦争をなくすことは理想だ。

私も、子供の頃からずっとそう思ってきた。

 でも、自分が大人になってくると、現実的には無理なことだと思うようになった。

 太古の時代に、力の強いものが人を制しただろう。

 位置は最初は素手で。

 次に人は、素手では叶わない相手には石をもって闘ったかもしれない。

 石よりは、こん棒。

 こん棒よりは槍。

 そして刀。

 日本でも、小田信長が鉄砲を使ってからは闘い方が変わってしまった。

 刀を武士の魂と呼んだ時代に、闘いに鉄砲を使うことは卑怯だと言われたのではないか。

 そして鉄砲は、大砲や機関銃に。

 大砲は、爆弾に。

 人間の歴史は、より強い武器の開発だった。

 そして、作られたのが核兵器だ。

 

 私は、子供の頃から喧嘩が弱かった。

 喧嘩の強いものに逆らえなかった。

 自分なりに正義感は強いものをもっているのだが、暴力は怖かった。

 そして、それは今でもそうだ。

 自分は正しいのに、自分は困っている人の味方になりたいのに、暴力的な言動で恫喝されると引き下がってしまう。

 それでも自分の正義感は残る。

 それだけに、情け無い悔しい思いをすることがある。

 理想では、争いのない、戦争のない世界を作ることが一番良い。

 だけど、人間の本性はそれをゆるさないと思わざるを得ない。

 暴力は、力だけではない、富めるものはより自分の富を増やすために合法的な暴力をふるうことがある。

 

 私は、戦争は反対だ。

 絶対に戦争なんかになってほしくない。

 しかし、戦争は反対だが、核を始めとする武器を持ってはいけないとは言わない。

 私は人間の本性は「悪」だと思っている。

 本当に丸腰で、武器もない、暴力はふるわないとわかったとき、そんな生き方に同調して「絶対にあなたには闘いを挑みません」と思う相手がいるだろうか。

 人間は、食べるのに困っていてなんとか食べ物を手に入れないと死んでしまいそうなときに、武器もなく絶対に抵抗しないか弱い人間がそばにいてたっぷり食料を持っていたら、迷うことなく食料を奪うことだろう。

 かといって、みんなが武器を持っていて、その都度闘っていたのでは生命のおちおち暮らしてもおられない。

 それを守ってくれるのが国家であり、警察だろう。

 警察官は警棒を持ち拳銃を携帯している。

 だから、人は警察官には逆らわないのだ。

 繰り返しになるが、私戦争は反対で、核兵器にも反対なのだが、本当に世界で核廃絶が行なわれたとき、かならず自分だけが核を手にして他国を襲う国が出てくるだろう。

 人間は核戦争を起こしてしまうほど愚かではないと思いたい。

 いっそのこと、核を最大の抑止力として利用してしまってはどうだろう。

 世界中の全部の国が核兵器をもって、武力による紛争解決は不可能なのだとしてしまうというのは暴論だろうか。

2010年8月 6日 (金)

行方不明高齢者と行旅死亡人

 所在不明高齢者が多数見つかっているというニュースに関連して、「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」を知った。

 身元がわからないまま亡くなった場合や、身元がわかっても遺体の引き取り手が現れない場合は「行旅死亡人」と呼ばれる。

 杉並区113歳女性の子供たちの、母親の行方へについてまったく関心がないような話ぶりに不自然なものを感じたのだが、自分の理解の範疇を超えたいろいろな人間関係があることを知らされた。

 行旅死亡人は、地方自治体が遺体を火葬し、遺骨とて保存。、そして、死亡推定日時、性別、推定年齢、身長、体重、外見の特徴、所持品、発見場所などが市町村長名義にて、官報で広告掲載し、引き取り手を待つことになる。
  官報 行旅死亡人 http://www.geocities.co.jp/Milkyway/2392/

 
 また、所持品から身元が判明した場合でも、遺体の埋葬や火葬を行なうものがないときは行旅死亡人と同様に地方自治体の取扱になる。

 こんな話を聞くと、所在不明高齢者のニュースに登場した人たちが特別な人ではないことだと思える。

 一方、去年1年間に家族などから行方不明者として81544人の届出が出ている。

 このうち70歳以上の高齢者が101,707人もいる。

 

 行方不明のままの人や、行旅死亡者で戸籍や住民票が残されたまま生存していることになっているケースも考えられる。

 戸籍や住民票の上だけで生き続けている人がどれだけいるのだろうか。

 

2010年8月 5日 (木)

遺言、介護、葬式、遺産

 お盆が近い。夏は帰省のシーズンだ。

 今日の日経新聞生活欄に、帰省したときに日ごろ離れて暮らしている老親と、今後の住まいのことや介護のこと、そして墓のことなどを元気なうちに話し合っておいたほうがいいという特集記事があった。

 今、団塊の世代が徒党を組んで高齢化社会を築こうとしている。

 しかも、定年退職を迎えた団塊の世代は経済的にも余裕をもっているらしい。

 そう思ってテレビCMや新聞広告を見ていると、団塊の世代を標的にした企画が数多く目につく。

 1960年代のオールディーズのCDの広告だったり、その頃流行った曲のカバー曲をだしたり、当時の映画をDVDにしてセットで売りにだしたり、夫婦でのんびり贅沢旅行なんて企画があったり、膝痛の薬がやたら目につくし…etc.etc

出版業界でも相続に関連するものが溢れている。

雑誌でも頻繁に、相続、遺言、介護、保険、葬儀、墓の特集が組まれている。

私もこのホームページで相続・遺言のことについて書きたいことがあって、カテゴリーを作成している。

私が書きたいことは、今現在の自分がやっておきたいことなのだが、人は死を身近に感じていない年のうちに遺言を書いておくべきだということだ。

今日の日経新聞の特集記事でも、親が元気なうちに親の意志を聞いておいた方がいいということを言っていた。

その場合に、親の自尊心を尊重するように、だとか結論は急がないだとか、送る側の立場での記事になっている。

記事の中で、高齢社会をよくする女性の会の理事長 樋口恵子さんのコメントがあった。

こちらは送られる親の方に対する意見だったが、私の考えとはちょっと意を異にする部分があった。

樋口さんは親への苦言として、「自分が衰えたときや死んでしまった後のことをきちんと考えておくのは最期の身だしなみ。平均寿命にさしかかったら、現実を直視するころあいだ。子供に切り出されるまでもなく、日ごろから話をしておくことが理想だ」とおっしゃっている。

私は、この1、2年で相次いで両親をなくしたのだが、平均寿命にさしかかってしまってからでは、なかなか具体的な話はきりだせないことを実感している。

 両親とも平均寿命まで生きたのだが、75歳を過ぎるとそんな話はしにくくなって、結局最期の会話をすることもなく逝ってしまった。

 私は、不動産業のかたわら行政書士の業務もやっているのだが、遺言の必要性を強く感じている。

 私はもうすぐ60歳になろうとしている。

 死をまったく関係のないものとしては考えられないが、まだどこか遠い世界のことに思えるような、そんな年代だ。


 私は、遺言書を作成している。

 随分早いように思われるだろうが、50歳を目前に勤めていた会社を辞めて独立したときから、遺言書を作っている。

 それは、財産があったからではなく、むしろ私の借金に対しての処理についてのことだった。

 不動産会社に勤めていたので、自宅のほかに賃貸マンションも一戸購入していた。

 それに営業職だったせいで、小さな借金もいくつかかかえていた。

 その借金についての明細と、それに見合う見合う生命保険に入っていたからその保険の内容。

 主には、私に万が一があった場合の返済方法等についてだった。

 それと、妻と家族と何人かのお世話になった方々への感謝の気持を書き記している。

 


 遺言というと、一番に考えるのは財産の分配方法についてだろうが、私がお勧めしたい遺言は、残る者への感謝の気持を添えることだ。

 私は、お客様をお客様とも思わないわがままな不動産屋だ。

 頑固に自分の意見を押し通し、家族や周りの人に対して強調することがない。

 心の片隅ではいつも申し訳ないと反省しているのだが、ついつい争いごとをしてしまう性格だ。

 こんな自分とつきあっていただいた家族や恩人に、何も残す物がないから、せめて感謝の気持を伝えようと思って書いたのが最初の遺言だ。


 私が独立開業して10年が過ぎた。

 10年も不動産業をやっていると、借金も資産も随分変化があった。。

 小学生だった子供たちも一応一人立ちしてくれた。

 借金が増えるたびに保険も増えている。若干だが資産も増やしている。

 だから、遺言書は何度も書き換えている。

 遺言の内容については家族にも話をしていないが、遺言の存在は話をしてある。

 また、遺言にかいてある借金の返済方法と資産についての分配については、日ごろの会話の中で概略は話をしている。

 遺言に対する私の考えを押しつけるつもりはないが、同じ年代の方々に一考していただければ幸いだ。

 今日を機会に、「遺言・相続」のカテゴリーを充実させていこうと思います。
 申し遅れましたが、話の中にありましたように、私は行政書士事務所も併設しておりますので、遺言の相談がございましたらご相談ください。(^o^)

 前にも書きましたが、私は無料で知識を教えるのは嫌いですが、遺言業務はまだ研修中ですので、今でしたら相談無料の特典付きですよ。\(^o^)/

所在不明高齢者問題と個人情報保護法

 所在不明の杉並区113歳の女性については、年金の給付はなかったということだったので、年金受給が目的での事件ではないと思っていた。

 年をとった親が行方不明になっているのに平然としている態度には信じられない思いがあったが、他人にはわからない複雑な親子関係があったのだろうと漠然と思っていた。

 しかしその後の報道で、この113歳の女性には、元都職員の夫の遺族扶助料が支給されていたことがわかった。

 遺族扶助料というのは恩給にあたるものだということだ。

 この遺族扶助料が目的だったとしたら、所在不明の理由に納得がいく。

 足立区の111歳の男性のミイラ化した遺体発見という事件が発覚してからというもの、全国で次々と所在不明の高齢者の存在が見つかっている。

 「関係機関は、家族からの申請がない限り本人を確認する手段がない」

 「記念品等を届けに行った際に、本人に会わせてもらおうとしても、家族がそれを拒否すれば強制的に確認する手段はない」と言う。

 さらに加えて、調査ができない理由として「個人情報」の問題がネックになっているという言を何度も聞いた。

 この「個人情報」というのがくせものだ。

 役所を始めとして、巷で「個人情報だから、お答えできない」「個人情報だから、詳しく聞くことはしない」と言って問題の本質に触れないという風潮がある。

 「個人情報の保護法(個人情報の保護に関する法律)」の制定にあたっては、マスコミでも大きく取り上げられた。

 私も、不動産業という自分の仕事上での個人情報の取り扱いについてどのような注意が必要なのか知っておこうと思い、同法の成立後すぐに同法に関する手引き書を購入した。

 この法律の制定でどんなにややこしい制限がでるのだろうと心配だった。

 しかし、本を開いてすぐに、「自分にはあまり関係のない法律だ」と理解した。

 「個人情報保護法」及び「同施行令」では、5000を超える(5001件以上)の個人情報を個人情報データベース等として所持し事業に用いている事業者を個人情報取扱事業者として、個人情報取扱業者が個人情報を漏らした場合や、主務大臣への報告等の適切な処置を行なわなかった場合に刑事罰が科されるというものだ。

 ここで、知っておかなくてはいけないのは「5000を超える個人情報を個人情報データベースとして保持する」「事業者」を規制する法律だということだ。

 「5000件超の個人情報データーを保持する」「事業者」というと、結構大きな事業者ということになる。

 つまり、「個人情報保護法」は私のような零細会社とは無縁の法律とも言えるわけだ。

 日常会話としての「個人情報」という語感だけで、個人のことには一切立ち入れないわけではないのだ。

 「個人情報」という言葉だけが一人歩きして、いろんな所で必要なデータをだしてもらえずに困っているという問題が発生している。

 関係省庁も「個人情報保護法」の法律的意味を正確に運用するために労を惜しんではいけない。

 蛇足ながら、ちょっとだけ言わせてもらうが、法律は必ず目的があって作られている。

 法律の条文の一番最初の第一章には(目的)もしくは(主旨)が書かれている。

 そして、次に定義が書かれていることが多い。

 法律を知るには、面倒だけど条文に目を通すことだ。

 なにも勉強をすすめているのではない。

 自分の身を守るために、自分にかかわる法律にはちょっと興味をもって老いた方がいいと思うのだ。

 法律家になるわけではないから、条文をながめるくらいでいいと思うが、読んでおくと自分が助かる。

 話を戻すと、「個人情報」の壁があって調査ができないというのは、まったくのまやかしだ。

 1度や2度じゃなく、50年の長きにわたる話である。

 近所の人もなんかおかしいと思っているわけだ。

 本人に会えない理由として、家族の人が「本人は今体調が悪いから会えない」と言われたというものが多い。

 こんなのは、理由にならない。

 本当に体調が悪いのなら、医者にはかかっているのか調べる必要があるだろう。

 本当に体調が悪いのに医者にみせていないのなら、医者にみせる指導をするべきだ。

 個人情報保護法が障害になって調査ができないなどという、まやかしのようないい訳はしないことだ。

 本気で会おうと思えば、法律を味方につけることだ。

 私の身の回りを見る限り、80歳をすぎると多少認知症が入る人が多い。

 認知症がひどくなった場合、法律的には成年後見人という制度がある。

 重度の認知症になって判断能力を欠く状態にある人が行なった行為は無効とされる。

 本人に、まったく判断能力がなくなった場合、裁判所に後見開始の審判の申し立てをして後見人を決めてもらう必要がある。

 そして、その後見人は本人に代わる代理権や取消権をもつし、財産の管理をすることになる訳だ。

加えて、療養看護義務も持つと定められている。

 関係省庁や市町村は、年金が適正に本人のために使われているかどうかを調査する義務と権利をもっていると理解してもいいのではないか。

 法律は運用のやり方次第で敵にも味方にもなる。

 面倒なことにまきこまれないためのいい訳にしないで、常識的におかしい物はおかしとして毅然とした運営をしてもらいたいものだ。

 余談だが、幼児虐待の児童相談所にも同様に、常識的にあきらかに異常だと思ったら強権を発動するべきではないだろうか。

 本気で解決しようと思ったら、法律は味方してくれる。

2010年8月 4日 (水)

朝日新聞「患者を生きる」臓器提供

 今日の朝日新聞、生活欄のコラムで臓器提供のことが大きく取り上げられていた。

 臓器移植法は1997年に可決されている。

 他国に比べ、脳死臓器移植の臓器提供に関する成約が厳しいため、国内での移植はその数が伸びず、今回の法改正にいたったわけだ。

 今回の改正での大きな改正点は二つあって、一つには、本人が生前に臓器提供しないという意思表示をしていなければ、家族の同意によって脳死臓器提供が可能になること。

 もう一つは、15歳未満の子供からの臓器提供ができるようになることだ。

 改正前は脳死による臓器提供は15歳以上に限られていた。

 さらに精々に本人か臓器提供に同意するという意思表示を書面によって表明していることが必要だった。

 それで、テレビで子供の海外での臓器移植のニュースがしばしば報じられていた。

 

 私の子供たちは臓器提供の意思表示カードをもっているようだ。

 しかし私は、今子供が脳死状態になったとしても、家族として臓器提供に同意をしたくはない。

 心臓が動き、身体のぬくもりが感じられる状態で、すべての治療を中断し臓器を取り出すことに同意はできないと思う。

 改正法でも、家族の意志は最大限に尊重されている。

 家族全員の総意としての同意が移植の条件になっている。

 
 植物状態の人が奇跡的に開腹したというニュースも見聞きしている。

 それに、医師も人間であり、生きている人間に対してでさえ一定の割合で誤診があるのが現状だ。

 移植を推進する医師が、移植で助かる患者を重要視するあまり、脳死状態に陥りかけている患者の回復に全力をつくしてくれるのか不安がある。

 脳死寸前の状態から回復するのは皆無に等しいのかもしれないが、皆無とはいえないのではないかと思う。

 しかし、臓器を取り出してしまえば回復する可能性は皆無となる。

 不幸にも私の子供が脳死状態になって、臓器提供のカードを携帯していて、移植の関係機関に家族の同意を求められたとしたも、臓器提供は断りたい

 そんなとき、臓器提供すれば助かる命があるのだという周囲からの心理的圧迫に立ち迎わなくてはならないわけだ。

 無言の心理的な圧力に押しつぶされて、嫌だと言えない流れを作ってはいけないと思う。

 人の最期にかかわる考え方は、それぞれ違っていることを理解しなくてはならない。

 本心とはうらはらに臓器提供に同意するような風潮にならないことを切に願う。

 

所在不明の高齢者事件

 先日、東京都足立区で、東京都内男性最高齢の111歳とされていた男性が、ミイラ化した遺体で見つかるという事件があった。

 亡くなって30年以上経過していたことや、故人がミイラ化していたこと、さらに年金受給の問題もからんで話題性が高く、事件発覚以来連日大きく取り上げられている。

 これを契機に、東京都内で所在のわからない高齢者が次々と見つかっている。

杉並区では、東京の女性の最高齢者になっていた113歳の方も所在不明だということがわかった。

 今までにも、死亡届を出さないで保険金を受け続けていたという事件は何度も見聞きしている。

実際、111歳男性の場合も、年金は給付されていた。

死亡届を出さなかった原因が年金のせいだったのかもしれない。

そうだとしたら、その方がわかりやすい。

113歳女性の場合、年金は給付されておらず、住民票上は同居しているはずの娘さんに聞いても、お母さんがどこにいるのかはわからないと答えていた。

警察の調査で他にも子供さんがいて、そちらに聞いてもお母さんがどうしているは知らないとの答えていた。

東京以外でも所在不明の高齢者が次々と見つかっている。

テレビの解説者は、近所づきあいが希薄になったせいだと分析し、「東京砂漠」などという単語を使う。

役所の人は、戸籍法上は当事者からの届出がないと死亡したことは掌握できないし、それを確認する方法はないと言う。

しかし、確認する方法がまったくないというのはどうだろう。

 30年間の間に、長寿のお祝い金や記念品を届けたり、表彰をしたりする場面が何度もあっている。

そんなときには自宅を訪れているわけだ。

本人に会わせてもらおうとしたが、その都度理由をつけて会えなかったらしい。

家族からそう言われると、あえて家に立ち入ることはできなかったそうだ。

 

 どこかで聞いた話と似ている。

 最近起きた幼児見殺し事件の児童相談所の弁と似てはいないか。

「訪問したけど、応答がなかった」

「 会わせてほしいといったが、断られた」

担当の職員さんや役所を責めるつもりはない。

ただ、年金給付が伴う場合は、本人が死亡後の受給は違法なのだから、ある程度強制的に生存を確認する権限を持つべきだろう。


杉並区の113歳の女性の家族の行動については、 3人いる子供さんのいずれもが行方不明になった母親について大きな関心を持っていない。

こんな家族は多くはないだろう。

こちらの場合、原因を無理に現代社会の歪みに求めて、解決策を論じるのは意味がないように思う。

家族とも関わりを持ちたくない人が、近所の人と関わりをもたずに暮らしていても、それは当然のこと。

事件がおきると、その原因をしゃにがむに究明しようとするようだが、それは無意味だと思う。

常識の外で生きている人の思考を、常識の枠の中の価値観で推し量ることは無意味なことだ。

解説者や評論家は、自らの職業を成り立たせるために無理に理屈をこじつけているだけのように思えて仕方がない。

2010年8月 3日 (火)

報道ステーション「100歳の神の医師」を見て思う

 中国に生きる101歳の日本人医師

 昨日の報道特集で、中国・山東省で60年間診療を続けている101歳の日本人医師山崎宏さんの話が報じられていた。

 山崎さんは日中戦争が始まった1,973年に歩兵として中国に渡ったが、戦争の残酷さを目の当たりにして脱走した。

 脱走後は、日本軍に見つからないように逃げまわっていた。

 逃走中に山崎さんが出会った中国人が、敵国人である山崎さんに食べ物を与えてくれた。

 なぜだか出会った中国人が、みんな山崎さんに施しをしたくれとという。


 そして戦争が終わり、山崎さんは中国人に恩返ししたいと医師になることを決心し、医者になるために必死で勉強をして、医者になった。

 その後いろいろと苦労はあったが、山崎さんは今も現役の医師として中国人の患者のために働いている。

 医者としての技術の信頼も得、お金のない人からは治療費もとらなず、自分は家具も家電も持たず、小さなアパートで質素な生活をしている。

 現地では、「世を救う100際の神の医師」という呼称で呼ばれている。
 
 この特集を見て、私はただただ感動した。

 またしても、涙が出た。

 明日のブログではこのことを書こうと思った。

 それで、さきほどからブログを書きはじめたのだが、山崎さんの名前も覚えていなかったこともあり、インターネットで昨日の報道内容を確認してみようと思って唖然とした。
 
 「報道ステーション 101歳日本人医師」でgoogie検索してみると、50000件以上の検索結果が出た。

トップ表示はテレビ朝日のホームページだった。

私は、ここで昨日の放送の内容を確認した。

さらに検索で上がった他のホームページのいくつかを覗いてみた。

すると、昨日の特集を批判する内容のものが結構多かった。

検索結果の2番目に登場する、「澎湖島のニガウリ日誌」というブログには考えさせられるものがあった。
http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/9e678019cb32c429f8b139ca400cfbaf

私は番組をそのまま受け入れて、制作者の意図とおりに感動し涙した。

しかし「澎湖島のニガウリ日誌」を読んでみて、こんな考え方もあるんだと考えさせられた。

 冷静に振り返ってみると、私も確かに「違和感」を感じる部分はあった。

山崎さんが脱走したあと、日本軍と中国人の双方に見つからないように逃げ回っていたが、空腹に耐えきれず通りがかった中国人に手を差し出したら食料を恵んでくれた。

その後も、出会う中国人がみんな食べ物を分け与えてくれたという話だった。

戦時中で自分たちの食料も満足に得られない状況なのに、そんなことがあるのかなと一瞬思った。

しかし、テレビの画面に出ている山崎さんが「自分も不思議だったけど、出会う中国の人がみんな快く食料を与えてくれた。」「なんでだかわからない」「中国人の心の広さに感謝した」と喋っているのを見ていて、そんなこともあるのだろうな、と思ってし放送をそのまま見ていた。

見ていてもう一つ疑問に思ったところは、山崎さんは中学校しか出ていないのに、30歳を過ぎてから勉強を始め医師になったということ。

中国語の勉強から始める必要があったわけで、医学という専門的な言葉の勉強もしなければいけなかっただろうに、よくぞ医師試験に合格したものだと思った。

ひょっとしたら、戦後の混乱期で試験がやさしかったのかなとも思った。

しかし、そんな疑問も番組を見ているうちに、なんとなく受け入れてしまっていた。


私は、常日頃からテレビを始めとするマスコミの報道を鵜呑みにしてはいけないと思っているし、話をしている。

それなのに、昨日の報道特集の内容をそのまま受け入れていた。

今日は、たまたまインターネットを見てみたのだが、インターネットの世界にはさまざまな意見が出ている。

 テレビ報道を真っ向から否定する意見も多い。

  匿名のものが多く、それこそ玉石混合だろうが、これもまた無視できないメディアだと再確認させられた。

 そして改めてテレビの怖さを思い知らされた。



 「正しいかもしれない」、」でも作り事かもしれない」

 全てを゛そういう目で見る必要があることを再度思い知らされた出来事だった。

2010年8月 2日 (月)

幼児死体遺棄事件、2次被害、児童相談所

 大阪で幼児2人が遺体で見つかるという事件があった。

 事件現場のゴミで溢れているベランダが何度も画面に映し出される。

 やせこけた幼い2人は、ごみが散乱する部屋の中で寄り添うように倒れていたという。

 2人とも裸で横たわっていという。締め切った部屋は蒸し風呂みたいだったのだろう。

 子供たちが寄り添っていたという話を聞いて、涙がとまらない。

 3歳の姉は1歳の弟をなぐさめていたのだろうか。

 1歳の弟は、3歳の姉しかたよるすべがなくて寄り添っていたのだろうか。

 報道では無責任な母親を鬼畜のように報道する。

 たしかに母親が一番悪い。

 信じがたい行動だし、許しがたい犯罪だ。

 こんな事件があっていつも問題になるのが児童相談所の責任問題だ。

 毎回のことのように、通報があったのにもかかわらず子供の命を救えなったことを反省している、後悔しているというお詫びの会見がある。

 今回の事件でも、近隣の住民から再三児童虐待があっているのではないかという通報があっている。

 通報を受けた児童相談所は、何度か訪問して必要なインターホンをおしたが応答がなく、連絡をしてくださいというメモを置いて帰って来ただけ。

 子供を虐待するような人間が、連絡を下さいというメモをみて連絡してくるはずがない。

 児童相談所が責められるのは当然のことなのかもしれないが、彼らだけを責めるのも酷な気がする。

 かれらは市の職員なのだ。

 児童福祉士司の資格をもっているわけではない。

 たまたま何年かを児童相談所に配属されているだけだ。

 私も市役所に友人がいるが、福祉課や税務課の仕事はなかなか大変だという。

 ただし、3~4年もがまんしていれば担当替えになるわけで、その間大きなもめごとがないことを祈っているというのが実情だろう。

 その心情はわかるし、児童相談所の職員を一概に責める気持にもなれない。

 児童虐待をするような人間は通常の性格ではない。

 暴力的な発言や行動をするような人間が多いだろう。

 大きな声でどなられたり、威圧するような行動で対応されたら恐怖を覚えることもあるだろう。

 私は、そんな人のところに行きたくはない。

 普通の人間だったら、だれでもそうだろうと思う。

 だから、担当者だけの責任とするのでなくチームとして動くような態勢をとるとか、警察や他の関係機関の協力を得る制度を作って、児童相談所に対するバックアップ態勢を強化しなければ゛今後も同様の事件はなくならないだろう。

 

 また、今回の事件で近隣の人たちの意見や感想がいろいろ報道されていた。

 虐待を感じていた人もたくさんいたわけで、尋常じゃないか様子を見て通報した人もいたわけだ。

 この人たちも、今回の事件では心が痛むだろう。

 結局、自分では助けられなかったことの後悔。

 児童相談所がなんとかしてくれていたらとか、警察はなんとかできなかったのかと言われているが、自分はなにもできなかったのか。

 そんな自責の念にかられている人もいるだろう。

 事件のあったマンションの入り口には、たくさんの花やお菓子が備えられていた。

 


 それと、こんな事件が起こったときの被疑者の関係者も2次被害にも同情してしまう。

 テレビでは何人かの関係者の言葉が報道されるが、おそらく被疑者、被害者に関係する多くの人のところに報道各社が押しかけているのだろう。

 親であれ兄弟であれ、事件とはまったく無関係な別の個人なのだ。

 そんな人たちの家に押しかけ、インターホンを鳴らし、強引にマイクをつきつけて、無理やり何かを喋らせているすがたが想像できる。

 テレビ制作的には、なんでもいいから劇的な場面にしたてあげればいいのだろう。

 しかし、親や兄弟に責任を求めるのは間違いだろう。

 事件にまきこまれる親や兄弟に同情する。

 もう一人の被害者は、マンションのオーナーだ。

 自殺や殺人のあった部屋は当面は借り手がいない。

 入居者の方も気持が悪いし、怖いし、退去する人も出てくる。

 今回の事件のマンションはまだ新しいようだった。

 私の仕事がら、ローンを沢山かかえているのではないか、まだ支払い計画は余裕があるのだろうか、何人も退去者が出たら支払いに支障がでるのではないか、などと余計な心配をしてしまう。

 経験上、自殺や死亡事故のあったマンションや住宅は借り手もつかないし、売却する際にも非常に売りにくい。

 不動産業者としては、自殺等があった物件についてはその事実を告知することになっている。

 告知しないで貸したり売ったりすると、後で損害賠償の要求をされたりするので告知するのが普通になっている。

 だから、この部屋から得るべき家賃は当面は入って来ないだろうし、もし入居者を入れようとしたら大幅な家賃ダウンをしなければならないだろう。

 家主の経済的な打撃は少なくない。

 といって、保証してくれるところはなにもない。

 現地では報道各社が押し寄せていることだろう。

 家主さんの心中を察すると、お気の毒で仕方がない。

 
 

2010年8月 1日 (日)

布川事件と冤罪

 布川事件の再審で無罪が言い渡される見通しになった。

 43年前の事件だ。

 無実の罪で無期懲役の判決を受けていた桜井さんj杉山さんは、ともに63歳。

 20際からの40年を罪人として過ごしてきたわけだ。

 無罪を勝ち取った喜びはいかばかりかと思うと同時に、犯罪者として扱われた43年間を思うと人事ながらはらわたが煮えくりかえる思いだ。

 昔、私は、冤罪を訴える再審請求事件を懐疑的に思うところがあった。

 やってもいないことを自白するはずがないと思っていた。


 しかし、私の友人の友人がある事件でまったく身に覚えのないことを自白するにいたった体験を聞いてから、冤罪はあるのだと理解した。

 この友人の友人は起訴前に無実がはれて釈放されたが、1ヶ月におよぶ拘留期間に会社は解雇され、本人も復職を求める気力もなく、釈放後は人目を避けるように住所を変えて暮らすことになった。

 彼が自白にいたった経験談は、信じがたい話だった。

 そもそも変な事件だった。

 この事件は新聞で知ることになった。

 信じられないような強姦事件だった。

 友人のアパートに遊びに行って、そこに友人と友人の彼女がいた。

 遊びに寄った彼をもてなすために、男性の友人の方が近くの自販機に飲物を買いにいった。

 その間に友人の彼女を強姦したという報道だった。

 あり得ない話だった。

 自分の友人は近くに買物に行っただけ。

 すぐに返ってくるかもしれないのに、その友人の彼女を強姦したというのだ。

 
 新聞報道の犯人の名前は私の友人の友人と同姓同名だった。

 「あいつがそんなことをするようなやつじゃないから、同姓同名の別人だろう」という話になっていた。


 数カ月後、犯人とされた男から聞いた話はこうだった。

 突然警察が来て逮捕された。

 逮捕の理由は、強姦。

 強姦されたという女性は、その男の友人の彼女。

 そして犯行の内容は前述のとおりの内容だった。

 逮捕された男は、まったく覚えのないことで、わけがわからないまま警察に連行された。

 その後は、とにかく、「白状しろ、白状しろ」と朝から晩まで取調室で強要される。

 最初のうちは、まったく身に覚えのないことなので、やってないと答えていた。

 答えていたというより、そう答える以外になかったわけだ。

 しかし、取調べは連日のようにくりかえされた。

 その間誰にも会わせてもらえないし、連絡もとらせてはもらえない。

 テレビで見ていたままの、何にもない取調べ室に缶詰になって、ただただ白状しろの繰り返し。

 机を叩いて大声でどなったり、襟首をつかまれて壁に押しつけられたりというのもテレビでみたのと同じだったそうだ。

 何日間も、他の誰とも会わずに独房と取調べ室だけの毎日になった。

 「白状するまでは誰にも会わせない、誰とも連絡がとれないんだぞ」と言われる。

 そんな状態が1週間以上も続くと、猛烈な不安が襲ってくるそうだ。

 「とにかく白状しろ」「白状したら家族に会わせてやる」

 「おまえがここで死んでしまっても、だれにも知られないままにもできるのだ」

 とも言われたそうだ。

 その男は、本当に自分は誰にも会えずにこのままここを出られず、ここで死んでしまうのかもしれないという恐怖にかられたそうだ。

 それで、「自分がやりました」と白状したそうだ。

 そうして、これでやっと誰かに会わせてもらえるのだと思っていたら、突然「釈放だ」となったそうだ。

 その理由は、事件が被害者の女とその彼氏による狂言だったということがわかったからだった。

 そもそもあり得ないような不自然な状況の事件だった。

 警察が被害者の被害調べの中で、狂言だということが判明したわけだ。

 しかし、話を聞いて怖かったのは、その時の警官がこの無実の被疑者に言った言葉だった。

 「お前も、えらいなやつらにひっかかってしまったな」

 「運が悪かったと思ってあきらめるしかない」

 「でも、警察の中であったことをどこに話をしても、だれもどうすることもできないのだから、誰にも話すな」

 と言われたそうだ。

 

 はれて無罪放免となったわけだが、拘留中に会社は解雇されていた。

 無実だったのだが、新聞報道は訂正報道をしてくれるわけでもなく、人は示談で釈放されたのだろうとしか見てくれない。

 彼は住所も変え、人目をさけるようにして暮らしていた。



 怖いのは、一度新聞やテレビで報道されることだ。

 この事件を知ってから、私は冤罪はあるということを知った。

 冤罪は、不可抗力で作られることもあるが、意図的に作り出されることもあることを知った。

 

 それまでは、私は再審請求事件を疑いの目でみていたのだが、この事件以来裁判のほうを疑うようになった。

 そんな私だが、松本サリン事件の時は河野さん疑った。

 河野さんが犯人に間違いないと思っていた。

 これが報道の怖さだ。

 報道がすべて正しいわけではないと思っていながら、マスコミの報道を信じてしまったわけだ。

 冤罪は、犯罪者としてとらわれて貴重な自分の人生の時間を奪われる理不尽さと同時に、無罪を勝ち取っても完全に犯罪者の汚名を払拭できない悲しさがある。


 警察、司法のあり方をただすことも大事だが、被疑者の人生を考えることなく報道するマスコミのあり方を考えることの方がもっと大切なことではないのだろうか。

 マスコミに、冤罪をでっちあげた警察や検察を非難する資格があるのだろうか。

 今回の布川事件でも、マスコミが自らの報道について省みる記事を目にしたことはない。

 

 

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