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2010年9月

2010年9月30日 (木)

東国原さん不出馬と井上陽水「傘がない」

 東国原さんが、ようやく不出馬を正式表明した。

 すでに、新聞・週刊誌で既成事実のように報道されていたが、取材に対しては「県議会の本会議中に正式に発表します」と言って明言して来なかった。

 新聞や週刊誌ではさまざまな関係者の弁というものが報道されていたわけだが、まったく根も葉もない無責任な記事だったのだろうか。

 一期で辞めてしまっては、これまで東国原さんが「宮崎県のために」と言っていたことと整合性はとれるのだろうか。

 「宮崎をどげんかせんといかん」と言って立たれたわけだが、一期四年だけで「どげんかなる」と思ってのことだったのだろうか。

 宮崎県民の一人として、東国原さんの功績は認めるが、まだ「どげんかせんといかん」ことはたくさんある。

 元三重県知事の北川正恭さんは、「首長の多選は禁止するべきだが、1期でやめるのはもっとダメ」だと言っていた。

 実にその通りだと思う。

 何かをやりたくて首長になったわけなのであって、それは1期4年でやれるものではない。

 最低2期8年は必要だと思う。

 東国原さんの不出馬会見を見ていても、彼の言葉からは彼の真意は見えて来ない。

 昨年の衆院選の際に、「自民党さんは私がを次期総裁候補として、選挙を『お戦いに』なに『『お覚悟は』『おありなられますか』」とマイクの前で発言して、世論の反発をかったが、その際に言語明朗意味不明な発言がしばらく続いたが、あのときと同じあやふやさを感じる。

 それに辞めるタイミングが悪すぎる。

 2期目に出馬する気がなかったのなら、もっと早く表明するべきだった。

 次期知事選の告示は12月9日と迫っている。

 よもや東国原さんが1期で辞めるなんてことは誰も考えてなかったわけで、今後の県政について考える余裕もなく知事選を始めなくてはならない。

 これまでに、都知事選出馬や衆院選出馬と知事引退の報道が何度もとりざたされたが、彼はその都度否定してきた。

 かれは口蹄疫の問題が大きな引き金になって、最近になって決意したというようなことを言っているが、少なくともこの半月は「私の意志は県議会の本会議中に表明します」と言い続けていた。

 この半月あまりの時間の浪費はなんだったのだろう。

 またしても、頭の中で井上陽水の「傘がない」の歌が流れる。

 世間がどんなに大きな事件になっていても、自分にとって一番大きな問題は(彼女に会いに行くための)「傘がない」。

 だれしもそんなもの。

 宮崎県のために県知事になったのも、「自分が大きく世の中に出るための『傘』」じゃなかったのか。

 人生の次の舞台に上るために、一番身を濡らさない『傘』を探しているところではないかと思えてしまう今日この頃だ。

2010年9月29日 (水)

テレビの功罪

 今朝のワイドショーで、町行く人に、尖閣諸島の位置を地図上で指し示してもらうというコーナーがあった。

 対馬あたりを指し示す人、沖縄近辺を指す人、鹿児島と沖縄の間を指し示す人。

 間違うと「ブー」というブザーが流れるという趣向だった。

 見ていたら連続4人が「ブー」であった。

 テンポ良く「ブー」「ブー」と間違いブザーがなって、こんな大騒ぎになっているのに無関心な人が多いものだと、少々呆れて見ていた。

 すると、アナウンサーがフリップを出して、「道行く人20人に聞いてみたら正解は14人でした」と解説していた。

 これがテレビの怖さだ。

 今回のアンケート結果は、最期には「20人中14人が正解」ということだったが、テレビの画面では立て続けに4つも間違った回答を見せつけていて、知らない人の方が多いかのような印象もたされた。

 今回の結果は結局正解が7割だったわけだが、7割も正解者がいたと見たらいいのか、3割も間違った人がいたと見るべきなのか。

 私は、8割くらいが正解して、2割くらいの人が明確には指し示せないと予想してたから、、私の予想した数字とは大きな差はでなかった。

 この番組の制作意図は、「3割もの人が場所を知らない=危機意識、問題意識が低い」と思わせたいように感じた。

 テレビのニュース番組では、よく街頭インタビューが放映される。

 一般国民の意見をそのまま放映しているように思わせるわけだが、私は、テレビ局が意図する回答のみを流しているのではないかと常日頃から感じている。

 テレビは「普通」では面白くないのだ。

 良きにつけ悪しきにつけ、「異常」な状況がテレビにとってはおいしいことなのだ。

 一昨日の「テレビタックル」で、今年の猛暑で野菜の値段が高騰しているという話題になり、テレビ局が農家で取材する場面があった。

 テレビ局が「今年は猛暑のせいで野菜の値段が上がったそうですね」と切り出したときの農家の方の回答が実にテレビ報道の本質をついたものだった。

 「テレビは野菜が高騰したときしか取材に来ない」

 「野菜をトラクターで踏みつぶすときにも取材に来る」

 「普通のときには農家のことなんか気にしていない」

 と言っていた。

 「その通り!」と私は、心の中で喝采を送った。

 そんな信用にならないテレビだけど、私は1日に5~6時間テレビに時間をとられているテレビおじさんなのだなあ。

 

2010年9月28日 (火)

全国自死遺族連絡会

 室内で自殺され賃貸住宅の借り手がないということで、遺族が家主や不動産会社から過大な損害賠償を請求されるケースが後を絶たないという。(読売新聞)

 それについて、不当な請求から遺族を保護しようと、全国自死遺族連絡会(仙台市・田中幸子代表)などが、近く、内閣府や民主党に法案化を養成する。

 連絡会によると、一般に自殺があった賃貸住宅は「心理的瑕疵(かし)物件」と呼ばれ、借り手がつかなくなったり、家賃が大幅に安くなったりするため、損害賠償の対象になる。しかし、最近は遺族の混乱やショックにつけ込み、家主らが改修費などを過大に請求するケースが少なくないという。

 例えば、2008年に神奈川県内のアパートで一人暮らしの30歳代の会社員が自殺したケースでは、遺族が家主から部屋全体の改装費用200万円と5年分の家賃の補償金約500万円を請求された。納得できずに弁護士に相談し、200万円を支払うことで和解した。

 宮城県内では、アパートで自殺した娘の火葬中に不動産会社が押しかけ、おはらい料や家賃補償として計約600万円を要求され、実際に支払った例もある。アパート全体の建て替え費として1億2000万円を請求されたケースもあった。

 いつも思うことだが、民事的な事柄で利害が対立する問題では、一方の意見だけを聞いて、相手側を一方的に悪者にしてしまうことがある。

 要するに、今の世の中ではマスコミが味方についた方が勝ちだ。

 ここ数年、悪の権化みたいに取り扱われている「追い出し屋」と言われる業種がある。

 「追い出し屋」という単語は「追い出される側」が名付けた言葉で、「追い出し屋」は理由もなく追い出しているわけではない。

 「追い出し屋」といわれる会社のほとんどは「家賃保証会社」だ。

 「家賃保証会社」というのは、入居者の滞納家賃を入居者に代わって家主に支払うことを業としている。

 当社も「家賃保証会社」を利用している。

 当社が利用している保証会社は、入居時に家賃の80%を支払うだけでその後の滞納家賃の保証をしてくれる。

 どこの不動産会社も家賃の滞納には頭と、心を痛めている。

 福岡の賃貸管理最大手の三好不動産の社長の書いた本によると、家賃の滞納率は約6%だそうだ。

 この本は随分前に出版されたものだから、今はもう少し滞納率が上がっていると思われる。

 家賃の滞納率が6%の場合、家賃保証で家賃管理している不動産会社は、管理料6%で管理ををした場合、管理料は立替金でちょうど消えてしまう。

 滞納者へはまず電話で連絡して入金をお願いする。

 しかし、なかなか思うように入金してもらえない。

 何度か電話しても入金してもらえない場合は、文書で通知することになる。

 結局は訪問して入金をお願いして、それでもなかなか家賃を払ってくれない入居者もいる。

 私は、家賃の集金が非常に苦手だ。

 人に督促するというのは楽しい仕事ではない。

 家賃が5万円だとしたら、6%の管理料だったら管理料はたかだか3000円だ。

 それをいただくために、何度も電話したり訪問したりして、相手に嫌がられているのはわかるが、集金する方も同じくらい傷ついているのだ。

 「家賃保証会社」は、そんな不動産会社に取っては救世主、女神様、天使みたいな存在なのだ。

 都会には荒っぽい取り立てをする会社もあるのかもしれないが、私たちが利用している「保証会社」は実に穏便に集金をしている。

 しかし、再三の督促にもかかわらず家賃を入れない入居者がいるわけで、そんな入居者については退去を促しているようだ。

 前にも書いたことだが、リストラにあって仕事が無くなった等の理由で家賃を払えなくなった人に対して、家を追い出すことは非常な人非人みたいに言われるが、入居者が一方的な弱者だとは言えないのだ。

 家主は常に強者かというと、そうではない。

 家主の立場に視点を変えてみると、家主の方が弱者というケースも少なくない。

 潤沢な金融資産、資産を背景に、余裕のあるアパート経営をしている人もいるが、精一杯の借金をしてアパートを建てて経営している人もたくさんいるわけだ。

 そんな家主が、家賃滞納で銀行ローンの支払いを滞った場合、銀行は待ってはくれない。

 だから、2~3カ月の滞納があり、そのごの家賃支払いの目処のたたない入居者には出てもらって、次の入居者を募集したいというのも同然だろう。

 遅れながらでも、少しずつでも支払っていくという姿勢があれば強制退去などは行なわない。
 家賃が遅れているのに連絡もくれない、こちらから連絡をとっても返答がない。

 そんな場合に退去を求めるのは当然ではないのだろうか。

 職をなくした人を保護するために、家賃無しで期限不定で入居を続けさせなくてはいけないという法律ができるとしたら、入居者の滞納家賃については国が保証するとか、せめて滞納家賃のせいで銀行ローンの支払いが困難になった場合には、銀行ローンの支払いを猶予するということにしないと賃借人と、賃貸人の均衡が保てないのではないだろうか。

 それた話が長くなってしまったが、賃貸住宅内での自殺の問題は、この家賃滞納と同じことだと思う。

 自分の身内が自殺した人にとっては、自殺という悲しい事実には同情する。

 しかし実際、自殺した部屋に新たな入居者が現れる可能性は非常に少ない。

 不動産業者は、賃貸物件を仲介するに当たっては重要事項説明で物件の詳細の内容を説明する義務がある。

 この重要事項説明で、自殺があった賃貸住宅は「心理的瑕疵(かし)物件」として入居者に事前に説明しなくてはならないのだ。

 事前にそういった事実を説明して、それを承知で借りる人はまずいない。

 そればかりでなく、気の弱い入居者の何人かが退去してしまうこともある。

 それに加えて部屋の全面改装も必要になるだろう。

 繰り返しになるが、銀行ローンをしこたま抱えた家主にとっては死活問題なのだ。

 だからといって、身内が自殺して悲嘆にくれている家族に、不当な請求をすることは許される話ではない。

 ただ、銀行ローンに追われて自分が自殺に追い込まれてしまいそうな家主が正当な損害賠償をするというのは理解してもらいたい。

 不当な請求から遺族を保護しようと、「全国自死遺族連絡会」などが、内閣府や民主党に法案化を要請するというが、片方に困窮する家主がいるのだということも分かっていただきたい。

 「全国自死遺族会」にお願いすると同時に、法案化に携わる政治家と官僚の方々にも、くれぐれも偏狭的な法律になってしまわないようにお願いしたい。

「不当な請求」から「遺族の保護」をするという主旨を重々お忘れなく対処していただきたい。
 つい最近も、消費者金融業者が多重債務の全ての原因だとして、「改正貸し金業法」を設立させた。
 「消費者金融」が「悪」と決めつけたため、消費者金融の存続が難しくなると同時に利用者の首もしめる結果となった。

 新たな借入や、借り換えができなくなった利用者から苦情が出たり、そんな利用者が「ヤミ金」と言われる悪徳金融業者に流れてしまうような弊害を生んでいる。

 ある日突然、事象の片面だけを見て、片方を規制してしまって、反対側の人を困窮に追い込むという愚策に陥らないようにお願いしたい。

2010年9月27日 (月)

尖閣諸島問題で傘がない

 尖閣諸島問題はまだまだ収まりそうにもない。

 「沖縄地検の判断」で船長を釈放したが、中国は日本の陳謝と賠償責任を追求している。

 政治主導、政治主導と叫んでいた菅さんを始めとした各閣僚の言動を見ていると、政権を担当している政治家の政治・外交能力の無さを露呈してしまった。

 前原外務大臣は、「尖閣列島に外交問題は存在しない」と言うだけ。

 真偽のほどはわからないが、各ワイドショーとワイドショー的ニュース番組では、尖閣諸島が日本の領土である根拠となる資料をいくつも提示している。

 しかし政府、関係閣僚は「外交問題はない」のいっぽんやり。

 「外交問題は存在しない」。だから、相手と話をすることが「外交問題がある」と認めることになるという理論なのかもしれない。

 しかし、「問題は存在しないから話す必要はない」とつっぱっていても、相手はいくつもいくつも報復とも言える外交カードを切ってくる。

 相手が自分のものだと言い張っているのだから、それが間違っているというのならば、間違っているということを正々堂々と論破すればいい。

 正々堂々だけではいけないのが外交なのだろうか。

 今回の事件で腹が立つのは、管制圏の失策をひなんする一団についてだ。

 当然、各野党は一斉に政権の批判合戦を始めている。

 いつものことではあるが、批判はあくまでも批判のみだ。

 どうすればよかったのかという主張はあまり見かけない。

 野党各派が批判だけに見えるのはしかたがない部分もある。

 私たちに見えないところで、今回の事件の対処案を提案していたとしてもマスコミに取り上げられなければ私たちのところには届いて来ないからだ。

 しかし、ワイドショー及びワイドショー的ニュース番組に出演しているコメンテーター、政治評論家の面々に、私は怒りを感じる。

 今になって、今回の事件の対応の悪さを指摘し、「こうすれば良かった」「こうするべきだった」などともっともらしいことを言っている人ばかりだが、彼らから以前に今言っているような意見を聞いたことはない。(1日に四時間位はワイドショー及びワイドショー的ニュース番組を見ている私が言うのだから間違いないのだ)

 そんな良い意見があったのならば、なぜもっと前に発言しないのか。

 結果論からならなんでも言える。

 少なくても彼らは、テレビに出演していていつでも発言できる立場にあったはずだ。

 結果からは失敗を断定し、さも自分だったら善処できたというような面をしているが、それだったら命を賭して問題が起こる前に責任を持って発言したらいい。

 もう一つ今回の問題で腹が立つのは、テレビでの民主党議員と野党議員との討論だ。

 野党議員は民主党の失態を責めるだけ。

 「こうすればよかった」という意見は聞かない。

 一方の民主党議員は、自党の立場を保護するだけ。

 そして最終的には、今回の事態を招いたのはこれまで問題を棚上げにしてきた前政権の自民党のせいだと言う。

 「なんじゃ!それは」である。

 それを承知で政権交代を勝ち取ったのではなかったのか。

 双方とも、自党の利益のことのみを考えた発言でしかない。

 国家に重大な危機が迫っているというのに、国家存亡のことよりも自分の保身にしか目がいっていない人たちばかりだ。

 こんなことを思っているとき、いつも頭の中で「井上陽水の『傘がない』」が流れる。

 私たち一般庶民は「傘がない」ことが重大事件でも仕方がないが、国の舵取りである国会議員さんや官僚の方々が「傘がない」的なとらえ方では困るのだけどなあと思う今日この頃なのだ。

2010年9月25日 (土)

中国人船長釈放

 尖閣沖で衝突事件の中国人船長釈放のニュースが大きな議論を巻き起こしている。

 まったく突然という感じで、那覇地検から処分保留のまま釈放するという発表があった。

 これについては、弱腰外交だという意見が多いようだ。

 一方では、今後の日中関係を見据えた苦渋の選択でいたし方がなかったという意見もある。

 また、釈放するにあたっては、その決断が遅かったという意見もある。

 結果的に何が正しくて、どうすることが一番正解だったのかは私にはわからない。

 わからない私ではあるが、今回の釈放にあたって那覇地検の判断だけで釈放を決めたということは嘘だということはわかる。

 記者会見に臨んだ那覇地検鈴木次席検事の表情は、嘘をつくのに慣れていないように感じられ、なんとも晴々としない顔つきに感じられた。

 最高検察庁も、「官邸などの影響を受けたわけではなく、検察独自の判断だ」としている。

 柳田法務大臣は、「検察当局が被疑者を釈放することを決定した後、報告を受けた」「検察が法と証拠に基づいて適切に判断したものと承知している」と言っている。

 仙石官房長官も、検察の判断への政治介入はなかったと強調している。

 私たちが国政をまかせた政治家の方々が、対中外交を考えたとき、これが最良の方法だという結論を出した結果のことなのだろう。

 今回の中国人船長釈放については、政府を非難する声が大きい。

 マスコミは「中国のごり押し外交に押し切られた」という論調だ。

 私も、突然の釈放はおかしいと思っている。

 だけど正直に言って、どうすることが一番正しいのかはわからない。

 しかし、管首相を始めとする閣僚たちの言葉の軽さに、改めて怒りを覚える。

 「我が国の法律に基づいて、厳正に対応していく」

 「国内法にのっとって粛々とやっている」
 
 と、一貫して毅然とした態度を表明していたのに、結末は「検察の一存で決定がなされた」と責任をいっさいとらないというのだ。

 こうすることが日本の国益なのだという明確な説明はできないもなのだろうか。
 
 それが政治の難しさなのだろうか。

 私は、彼らの言葉が全く責任がないものであること、そして言ったことを翻すときの彼らのずるがしこい顔がどうしても好きになれない。

 嘘をつくときは、もっと徹底して嘘をつき、嘘をついていると感じさせないほどの演技をしてらもいたいものだ。

 無理難題をごり押しする中国の態度よりも、それに右往左往している頼りない私たちの代表にもっといらだちを感じる今日この頃なのだ。

2010年9月24日 (金)

ちょっと楽しいこと

 最近、ちょっとした楽しみがある。

 どうってことのないことなのだが、なぜか私にとっては楽しいのだ。



 数日前に、私の事務所の前に不用品プレゼントコーナーを作った。

 不用品プレゼントコーナーとはなにかというと、

自分にとって不要になった品物を、欲しい人に無料で差し上げる棚のことだ。



 最近ちょっとしたブームの片付け術やら、整理術の本を読むと

片付けるためには、まずいらないものを処分しなさいというのが

流行りのようだ。


 私らの年齢の者は、なかなか物をすてられない。

 いつか使うかもしれないと思って、ひたすらひたすら物をためこんでしまう。


 そして物があふれ、必要なものを探すと見つからない。

 それで何か片付けの特効薬はないものかと、

「片付け術」「整理術」なる本を読んでみるのだが、

最近の片づけの主流は「片付け術」とは、すなわち「捨てる技術」になっている。


 いつか使えると思って取ってある品物がたくさんがあるが、

1年間一度も使わなかった物は、ほぼ永遠に使われることはないと言っている。

 実に、その通りだとは思うのだが、まだ使えるものを捨てるのは忍びないというのが私たち世代の心情なのだ。


 私は文房具が趣味なので、ボールペンなんかの新製品が出るとつい買ってしまう。

 しかし、私にとっての文房具は趣味の部分もあるものだから、書き味なんかが気に入らないときは、使わずにしまい込んでしまう。

 ましや、ノベルティー景品として無料で貰うボールペンやシャープペンシルはそのまま机の奥にしまい込んでしまうことになる。

 だからといって捨てる勇気はない。



 先日、机を片付けていてたら、そんな品物がたくさんあることに気がついた。

 本に書いてあったように、思い切って捨てようと思うのだが、それがなかなかできないのだ。


 それで思いついたのが「不用品プレゼントコーナ」だ。

 私の会社は歩道のあるバス通りに面していて、結構人通りがある。

 学校の通学路にもなっている。

 だから、ボールペンやシャープペンシルだったら小学生に持って行ってもらえるのではないかと思い、事務所の前に小さな机を置いて「ほしい物があったら自由におもちください」という張り紙をして置いてみた。

 すると、気がつかない間に全部無くなっている。


 うちの事務員さんにいらないかと聞いても「いりません」と言われた物なのだけど、やっぱりもらってくれる人がいた。


 これに気をよくして、その後使わないまましまい込んでいた物をちょこちょこ出しているが、売れ行きは好調だ。


 不用品といっても、あまりにも古くて汚いものは出さない。

 古くて汚いものだったら、さすがの私だって捨てることができる。

 捨てるのには心が痛む物を出している。



 例えは悪いかもしれないが、魚釣りが好きな人が釣れることを期待して釣り糸を垂らしている心境がこんな感じかもしれないなと思う。

 「これ誰かが必要として持って行ってくれるかな?」と思いつつ、「プレゼントコーナー」に並べてみる。

 そして、ふと気がつくとそれが無くなっている。


 「ああ、あれを必要としている人がいたのだ」

 「無駄に捨てずに誰かの役に立ててもらえているのだ」

 ちょっと楽しい気分になれるのは、そんな風に思えるからかもしれない。

2010年9月23日 (木)

村木厚子さんに思うこと

大阪地検の証拠改ざん事件は、組織ぐるみ犯罪の疑念も持たれさらに大きな問題へと広がりそうな気配だ。

 この事件の成り行きはこれからもじっくり見つめることとして、まずは村木さんの無罪がき確定したことを心からお喜び申しあげる。

 それにしても、5ヶ月以上およぶ拘留、逮捕から1年半を超える裁判にも、村木さんが心を折ることがなかったのは、家族全員の強い信頼があったからだということだった。

 当局が当局のために垂れ流す情報をそのまま鵜呑みにして冤罪造りの片棒を担いだ報道の嵐に、それのみを何度も聞かされる大衆もまた世論という形で冤罪造りの共犯者に仕立て上げられる。

 それは時として家族の信頼も危うくしかねない。

 村木さんの場合、家族の信頼が微動だにゆらぐことがなかったのだ。

 併せて同僚たちの信頼も固かったようだ。

   それが大きな支えとなったわけだ。

 私は、自分が同じ境遇に置かれたときに村木さんと同様の信頼をもらえる自信がない。家族においても、友人たちにおいてもだ。


 村木さんの今回の結果は、彼女が全力で人生を生きてきた証であり、私の不安は人生をいい加減に生きてきた反省から感じるものだという悲しい気づきをした今日の出来事でした。

 

2010年9月22日 (水)

大阪地検、証拠改ざん③

 当然のことだが、大阪地検特捜部主任検事による証拠品のデータ改ざん事件が昨日から今日にかけてのニュース、ワイドショーでトップで大きく取り上げられていた。

 なんということをしてくれたのだろう。

 行政も立法も国民の信頼を失ってしまって、司法までもが信頼できなくなってしまったのでは私たちはなににすがればいいのだろう。

 私の経験上、公務員の中でも警察、検察(実際には、私は検察にはかかわったことがないのだが)は特別な権限を与えられている。

 国民の生活の安全を守ってくれると同時に、国民を取り締まる権限を持っているわけだ。

 あるとき私たちは彼らに拘束され、自由を奪われる可能性を持っている。

 なんども言うが、間違って逮捕されてしまうと、その日から自由は完全に奪われてしまうのだ。

 逮捕されると当日面会はできない。

 拘留請求されると、検察官が栽培所に被疑者の接見禁止請求をだされ、裁判官は接見禁止をおろす。
 
 そして通常22日間は接見が禁止される。

 罰金刑の場合、22日間だれとも面会できず釈放になることが多いという。

 無実の罪で逮捕された者にとってはまったく理不尽きわまりない話なのだ。

 昔、私の知人は狂言による被害届で逮捕され、拘留という異常環境の中で取り調べを受けて、警察の言われるままに自供した。
 
 幸いにも(幸いとは絶対に言えないのだが)被害者の供述に矛盾があって狂言だということが判明して、ひっそりと釈放された。

 その彼は強姦犯人として新聞で報道され、仕事も辞め、隠れるように暮らさなくてはならなかった。

 「それでもボクはやってない」という痴漢冤罪裁判の映画があったが、私たちはいつでもそんな危険に陥る可能性があるのだ。

 村木さんの拘留期間は5カ月以上だった。

 鈴木宗男さんの拘留期間は述べ1年5カ月余り。

 堀江貴文さんは100日位で保釈になった。

 刑事訴訟法では、拘留延長が認められても、拘留期間は22日が限度のようにあるのだが、なんだかんだと理由をつけて、永遠に拘留できるというのには納得がいかない。

 もし、自分が無実の罪で拘留されたと考えたら恐ろしい。

 自供がとれないまま起訴になることはほとんどないわけで、自分が自供をしなければ裁判も始まらないのだ。

 裁判が始まっても、保釈されるとは限らない。

 万一、なにかの間違いで逮捕されることがあったら、交通事故にあったと思うほかはないのだ。

 むしろ交通事故の方がはるかにいい。

 痛い思いはするかもしれないが、まわりからは同情を受け、事故に対しては保証金ももらえる。

 最悪亡くなっても、保険金で家族の生活はなんとか維持できる。

 誤認逮捕された場合は、社会的生命は失ってしまい、無実であってもまわりからは冷たい目で見られる。

 無罪放免となったとしても、仕事を失い、社会的な信用も失い、完全なもとの生活に戻れないだろう。

 さらに、無実を勝ち得たとしても、国に賠償請求はできるが、その保証金は受けた被害に比べたらわずかな金額でしかないのだ。

 私たちは、交通事故と同様に、冤罪に巻き込まれないことを願うしかないと思い知った今日の出来事でした。

2010年9月21日 (火)

大阪地検、証拠改ざん②

 大阪地検の証拠改ざん事件についてはすでに書いたが、考えれば考えるほど許しがたい事件だ。

 政治家の不徳も嘆かわしいが、今回の証拠改ざん問題はすぐにでも我々国民に大きな影響を与えかねない問題だ。

 明日にでも無実の罪で逮捕され、自白を強要され、証拠もでっちあげられ、罪人におとしめられる恐怖を感じる。

 何度も言うが、自分がそれに似た経験をしている。

 自分が罪に問われたわけではないが、身近にそれを経験した人を持っているし、自分自身も、警察が作成した自分の意に沿わない被害届けに署名捺印をさせられた経験を持っている。

 警察、検察側の意にそった自白するまでは拘留を解かないのも証拠の捏造とも言える。

 この自白のみが証拠であれば、自白と証拠の矛盾から裁判の場で無実を認めてもらえる可能性が皆無ではない。

 しかし、証拠の品まで捏造されてしまうと無実の証明は不可能になる。

 今回の検事の罪は、法律的にはどういう罪状になるのだろうか。

 懲戒免職になり法曹資格を剥奪する程度だろうか。

 村木さんは公務員という仕事がらなんとか社会的な生命の回復ができたが、これが一般の会社員だったり自営業であれば、社会的には抹殺され、その後の人生は悲惨なものになっていただろう。

 それを考えると、その罪は傷害罪や殺人未遂罪にも匹敵するものだろう。

 今回の事件は、自分の行く末が不安になるニュースが多い中でも自分に直接火の粉がふりかかる不安を覚える事件だ。

 こんなことがはっきり言える時代に感謝しつつ、思わず同じ話題を立て続けに書いた今日の出来事でした。

大阪地検、偽証明書データ改ざん

 障害者割引郵便制度にからむ偽証明書発行事件で、証拠品として押収したフロッピーディスクに保存されていた文書のデータを、大阪地検特捜部の検事が改ざんした疑いがあるという。

 偽証明書の作成日時が検察側の主張に合うように書き換えられていた可能性があるというのだ。

 このフロッピーディスクは証拠としては提出されなかったということだが、それが事実であれば由々しき問題で、恐怖心さえ覚えてしまう。

 村木さんに限らず、今回のような事件で起訴されるということは、一般社会人にとっては死刑に匹敵するほどの重大な問題だ。

 それまで積み上げてきた社会的信用をすべて失い、社会的な生命を断たれてしまう。

 たとえ無罪判決を受けても、起訴されたことによるダメージを完全にぬぐい去ることはできないだろう。

 だからこそ、起訴に当たっては充分な調査を重ねて慎重であってほしいのだが、いったん犯人だと想定されてしまうと、被疑者になってしまった当事者にはどうすることもできないのだ。

 私は自分の経験から、無理やり自白を強いられる怖さはすでに書いたが、犯人に仕立て上げるために検察が証拠を捏造したというのが事実であれば、日本の司法の信頼は崩壊してしまう。

 小沢一郎さんや鈴木宗男さんの事件では、私は少なくとも、お金の流れについては不明朗なものを感じていたのだが、検察が証拠の改ざんに手を染めたとあっては、検察側の主張を全面的に信用することができなくなってしまう。

 検察の正義は、犯罪を明らかにすることだけが目的ではなく、真実を明らかにすることがその目的だろう。

 今回の証拠改ざんは、改ざんした検事一個人の問題ではなくて、このような検事を生んだ検察組織の問題として徹底した事実究明をしてもらいたい。

 恐怖心から、思わず大上段にまともに書いてしまった今日の出来事でした。

ゴミの分別

 私は、ゴミの分別をこまめにやっている。

 「混ぜればゴミ、分ければ資源」というコピーに魅せられてのことだ。

 私は、人間が生きていくことが、すなわち環境破壊なのだと感じている。

 毎日大量のゴミを作り出しことに罪悪感を覚える。

 そんな私には、「分ければ資源」という言葉は自分のもっている罪悪感を払拭してくれる免罪符になる。

 私が出す「資源ゴミ」は、「一般ゴミ」として出すゴミの数倍の量になる。


 私の町では、去年までは空き缶と空きビンそしてペットボトルのみが「資源ゴミ」だった。

 リサイクルマークがついているプラスチック類も「燃えるゴミ」として収集していた。

 それが今年からはプラスチック類(発泡スチロールも含む)も「資源ゴミ」として収集されるようになった。

 それと併せて「燃えるゴミ」も「燃えないゴミ」の収集は有料化された。

 分別して捨てる、「ビン」「缶」「ペットボトル」「プラスチック」は無料だ。

 当市では、今までは全部のゴミが無料だった。

 ペットボトルは「資源ゴミ」として指定されていたが、「燃えるゴミ」として出してもかまわなかった。

 全部のゴミが無料だから、ペットボトルは「資源ゴミ」として分別されることは少なく、「燃えるゴミ」として出される量の方が圧倒的に多かった。

 しかし、ゴミ有料化に伴いペットボトルの大半が「資源ゴミ」として分別されるようになり、さらにプラスチックも「資源ゴミ」の取り合いがされるようになって、「資源ゴミ」の量は数倍に増えている。

 その影響で、今まで隔週だったペットボトルの回収が毎週回収されるようになった。

 私が管理しているマンションのゴミ集積所を見てみると、ゴミ有料化でゴミの量は減ったのだが、無料で収集することになったペットボトルとプラスチック容器の量は数倍に増えている。

 今までは、これが全部燃えるゴミとして捨てられていたのだから、本当にリサイクルされるのだったら結構なことなのだろう。


 しかし、単一材であるペットボトルだけだと気にならないのだが、プラスチック類を見ていてると、これが本当にリサイクルされるのだろうかと疑問に思えてくる。

 ビニール、ポリエチレン、硬化プラスチック、発泡スチロールと、その種類は膨大だ。

 それに食品の包装しなどは、きれいに洗ってだしている気配はないし、こんなモノが資源として再利用されるのだろうかと疑問に思う。


 そう思い始めると、「ビン缶」の資源ゴミについても疑問がわいてくる。

 当市の既定では、「ビン」も「缶」も同じ透明袋に入れて出すことになっている。

 本当にリサイクルするのだったら、「アルミ缶」「スチール缶」「透明ビン」「色付きビン」として出さないといけないような気がするのだが、ごちゃ混ぜでいいことになっている。



 武田邦彦氏は、ベストセラーとなっ『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』で、リサイクルは全然行なわれていないと言っている。

 この本の内容全部を真に受けることはできないが、当市で行なわれているゴミ分別を見る限りでも、私たちがチマチマと分別して自己満足している「資源ゴミ」のほとんどはまやかしのように見えてしまう。


 前に言ったことだが、あるテレビ局が長期間の取材を行い、「資源ゴミ」の処分を行なうべき業者が、こっそり別の県にゴミとして搬出している現場を撮って報道していた。

 その後ずっとテレビを見ているが、同様な報道を見ることはできていない。

 果たして「資源ゴミ」の何割が資源として再利用されているのだろうか。

 これは私の個人的興味だが、時間があったら、当市の「資源ゴミ」の行方を私が追跡調査してみたい。


 しかしこれは、日々の生活に追われる私にとって、可能性のない意味のない話なのだが。

 武田邦彦氏の「リサイクルの嘘論」は極端すぎるが、リサイクルについてはじっと検証する必要のある問題だと思う、昨日の出来事だ。

2010年9月20日 (月)

B-1グランプリ

 今朝のワイドショーで全部の局が「B-1グランプリ」を大きくとりあげていた。

 「B-1グランプリ」というのはB級のご当地グルメを一同に集めて味の人気を競う競技会だ。

 2006年に第一回大会を青森県八戸で開催して以来、全国にご当地グルメブームをまきおこした。

 過去の大会で上位入賞したB 級グルメは、あっという間に全国区となって町の活性化・町起こしに大いに貢献している。

 「富士宮やきそば」「横手やきそば」「八戸せんべい汁」「静岡おでん」「厚木シロコロホルモン」「津山ホルモンうどん」いずれも上位入賞して市町村外、県外からお客さんを呼び寄せ、その経済効果は数十億円になるところもある。

 今年の受賞で私の興味をそそったのは、2位になった岡山県の「ひるぜん焼きそば」だ。

 「ひるぜん」というのは岡山県真庭市のはずれにある蒜山(ひるぜん)高原エリアで人口5000人くらいのところらしい。

 町おこしのためにミニテーマパークみたいなものも作っていたようだけどジェットコースターも観覧車も人が乗っていなかった。

 外からお客を呼びたくていろいろやっているのに人が全然来ないようだ。

 それで、「ひるぜん焼きそば」で起死回生を図っての今回の参加だったようだ。

 町の命運を担って時間をかけて、全力をあげて必死の準備をしてきた様子が取材されていた。

 その結果、見事に2位になったというわけだ。



 テレビがこれだけとりあげるから、グランプリ出店の経済効果は絶大なのは当然のこと。

 だけどその効果は一時的なものという局面もある。

 話題につられて食べにきてくれた人が、また来てくれるようにならないと止まったままの観覧車があるテーマパークと同じことになる。


 ともあれ町民有志が一所懸命になって企画参加した各参加グループの方々の今後の繁栄を祈りたい。


 またこの報道で、地方都市の疲弊はどこも悲惨な状況だということもわかった。

 どの地方都市でもシャッターをおろしている商店街ばかりだ。

 私の町も商店街はシャッター通商店街となっている。

 何もしないところに未来はないと思い知った今日の出来事でした。

 

2010年9月19日 (日)

サンデーモーニング関口さん

 今日のサンデーモーニングで、関口宏さんが「心配していたけどちゃんと秋がやって来ましたね」ってなことを言っていた。

 私は、関口さんのこのおしゃべりが好きだ。

 受けを狙って過激な発言をするコメンテータの多い中で、実に自然体で冷静に話をされる。

 相手の主張が自分の考えと違っていても、相手の話をしっかり聞いて、それでいてしっかりと自分の考えを持っている。

 決して自分の考えを押しつけたりはしない。

 そんな関口さんの影響か、この番組では人の発言をさえぎって喋りだす人はいない。

 ワイドショーでもトーク番組でも、政治家の討論会でも、人が喋っていてもそれをさえぎって話し始める。

 話し始めると延々と人に喋る時間を与えることなく喋り続ける。

 司会者も大衆に受けのいい反体制をきどった発言をする。

 そんな番組ばっかり見ている中で、関口さんの考え方、話し方はなんだかほっとして心地よい。

2010年9月18日 (土)

「人・脈・記」

 昨日の朝日新聞のコラム「人・脈・記」で面白い話があった。

 このコラムはめったに読まないのだが、「ニューハーフ故郷へ帰る」という見出しと綺麗?ケバイ?女性の写真に目が止まって、記事に目を向けると、私の好きな桑田佳祐さんの名前があったので、つい記事全部を読んでしまった。

 今日の「人」ベティ・春山さんは、大阪の「おかまバー」でホステスをしていた。

 1981年、彼女?が25才のときに、桑田事務所の有力者が来店した縁で桑田佳祐さんの作詩作曲でレコードデビューをすることになった。

 作者の桑田さんを前にして、彼女?は上がってしまってうまく歌えず数時間が過ぎた。

 嫌な雰囲気を払って桑田さんが言った。「ねえ、ベティはどこの国のハーフなの?」

 西洋人のような顔だちを見て、桑田さんは勘違いしたらしい。

 ベティが言い返す。
 
「ばかねえ、男と女のハーフじゃないの」

 スタジオは笑いに包まれた。

 これはいいと、ベティを「ニューハーフ」と称して売り出すことにした。

 以後、男だったが女としてタレントやホステスをしている人たちをひろくニューハーフと呼ぶようになったそうだ。

 残念ながらこのときのベティ・春山のデビュー曲「I LOVE YOU はひとりごと」は、ユーチューブを探してみたけど見当たらない。

  代わりに、原由子の「I LOVE YOU はひとりごと」があった。

2010年9月17日 (金)

余計なお世話

 このところ朝夕が涼しい。

 テレビでは肌寒いと大げさに騒ぐ。

 つい先日までは、残暑残暑と大騒ぎして、この残暑は9月一杯は続くなんて言っていたのに、やっと涼しくなってよかったなんて思っているのに、「今朝は涼しいというよりも肌寒い。長袖を着ていても寒く感じる。」なんて言っている。

 暑いの寒いのなんてやつは、いちいち言われなくてもわかること。

 やっと涼しくなって良かったと思っている人に、涼しいんじゃなくて寒いんだよなどと押しつけがましいことを言わなくてもいい。

 日常の挨拶で、「いつまでも暑いですね」とか、「ようやく涼しくなりましたね」なんて会話をかわすが、テレビのそれはそんな感じではない。

 朝は肌寒くなったけど、昼からは暑くなるんだぞ。

 過ごしやすいなどと思ったら甘い。まだまだ残暑は続くのだ。

 と、感覚的なことまで押しつけがましい。

 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるわけで、彼岸前のこの季節は、暑さが残っていてもあたり前なのだ。

 確かに地球は温暖化傾向にあるのかもしれないが、なんでもかんでも異常気象ということにして騒ぎ立てるのはよしてほしい。

 どこか一つでも、人の心が和らぐような報道をするマスコミがあってもいいのに。

 今日の改造内閣発足についても、民主党の内部がもめるようにもめるように報道する。

 とにかく総理に選ばれた菅さんが「命を賭して」「国政にあたる」ために考え抜いた末の人事なんだろうから、政策実行に全力で頑張ってくれよなと温かく厳しく見つめるところがひとつくらいあってもいいのになあとおもう今日の出来事でした。
 

男らしい田中絵美子議員

 大騒ぎした総理大臣選びが終わった。

 選挙演説や公開討論を聞いていても、菅さん・小沢さんのどちらも、夢を語るだけで実効性のある具体案をもっていないように感じた。

 今の日本の窮状は、誰をしても一気に解決できる問題ではないと思う。

 今回の選挙戦の中で、菅さんも小沢さんも「自分の命をかけて」という言葉を使っていた。

 結果は菅さんを総理大臣に選んだが、言葉通り「命をかけて」日本の舵取りをしてもらいたい。


 それなのに、新首相は早速、今日から党内の舵取りに右往左往しているように見えた。

 自分の支援グループと、小沢さんのグループの顔色をうかがい、それに世論の動向も気にしつつ、一番波風の立たない人事に苦慮しているようだった。

 瀕死の状態に陥った今の日本を回復させるにはこうしなくてはいけないという信念をもっているのではなかったのか。

 菅さんも小沢さんも、日本の将来について自分の信じる道があったから選挙に立ったはずだ。

 選挙戦で国民に描いて見せた夢を、選挙が終わると同時に消さないでほしい。

 一身に日本国を背負う覚悟で総理大臣を目指して総理大臣になったのだから、自分が信じる方向にがむしゃらに進ませてもらいたい。


 だれにも正解はわからない。

 ただ、自身の政治生命のことは一切捨てて、信じる道をぶれずに進んでもらいたい。


 阿久根市の竹原市長はやりすぎだと思うけど、正しいと信じる道だったら、彼の行き過ぎを少しは見習うところもあっていいのではないかと思ったりする。



 今回の代表選で感じたのは、自己の保身を最優先する政治家の多かったことだ。

 選挙後の自分の立場を考えて、どちらの候補を支持するかを明言できない人がたくさんいた。


 私は、どちらが総理大臣にふさわしいかということとは別に、最初からどちらを支援するかを明確にしていた人たちを議員として認めたい。

 国の最高機関の一つである国会議員になっておきながら、はっきりとした自分の考えを言えない議員が多いことは情け無い限りだ。



 そんな中で、「小沢ガールズ」の代表田中絵美子氏は一貫して小沢さんの政策を支持し、懸命に小沢さんを応援した。

 小沢さんの支持を訴える中で、「二度と(田中絵美子氏に)選挙で投票しない」という罵声を浴びた一方で、「命懸けで小沢さんを支持する覚悟を買った」と賛同してくれるサポーターもいたという。

 私は田中絵美子氏の言動にはむしろ不快感を持っていたのだが、片方で浴びる批判をものともせず、自分の選んだ道を「ぶれず」に歩く姿には感ずるものがあった。

 多くの政治家先生方に持っていただきたいのは、ぶれない自分の信念だ。

 言葉通り、「命を賭して」今の日本の窮状を脱する方法を考え抜いてもらいたい。

2010年9月16日 (木)

阿久根市 竹原市長 リコール

 阿久根市の竹原市長のリコールを求める署名簿が市選管に提出された。

 リコールには、有権者1万9936人の3分の1(56646)人以上の賛成が必要とされているのだが、それを大幅に上回る1万364人分の署名が集まっている。

 竹原市長は2年前の夏、「住みよい阿久根市」にと市政改革の必要性を訴えて、市民の圧倒的な支持を受けて当選した。

 当選後、市議会から2度の不信任決議を受けて失職したが、昨年の出直し選挙で再度当選した。


 今回リコールした人の中には、その2度の選挙で竹原氏に投票した人の中が多数いるようだ。

 ある主婦は、「2年前の夏に感じた市政改革の熱意がうせたとは思いたくない。市長には非を認めて巻きかえしてほしいとも思う。でも、その可能性にかけるのも疲れました」と夫婦で署名をしたという。


 また、市議時代から竹原氏を支えてきて自分の会社を選挙事務所として提供したほどの支援者が、今回のリコール署名を集めて廻っている。

 その方がいわく、「議論がない議会はダメだと主張して当選しながら、自分の提案に反対する議論は認めず専決処分を繰り返すというのは、ご都合主義だ」

 「市長を支援する気持はうせた。市民を味方につける努力をせずに、自分の主張を押し通して阿久根市を二分するだけ。私も彼に夢を見させられた一人だった」という声もあった。


 ここに至っては、竹原市長も記者会見に臨まざるを得ないというところだろう。


 しかし、記者会見にいたっても「市民が市政について判断する機会を得たことは大変望ましい。私の不徳を原因とする部分があったかもしれない」と述べているが、素直な反省は感じられない言葉である。


 
今回の問題は彼なりの正義感を押し通した結果なのだろうが、ひいき目に見ても大多数の賛同を得られるはずのない行動だった。

 自分はいい提案をしているのに議会が認めないから議会を開かず、全てを専決処分をくり返し、自分に従わない職員を懲戒免職にした。

 こんな恐怖政治は許せるはずがないが、さらに驚くのは懲戒解雇を無効とする裁判所の最低まで無視するにおよんでは、狂気の沙汰としか見えなかった。


 
最悪だったのは、自身のブログで「高度医療のおかげで機能障害をもったのを生き残らせている」と発言したことだ。(今日、竹原市長のブログを確認してみたら、この発言は削除されているようだった)

 このとき、「表現が障害者を差別しているかのような誤解の原因となった。そのことで心配をおかけしたことを申し訳ないと思っている。」と話しているが、報道陣からの「謝罪か」の問いには、障害者を差別したものではなく、謝罪する理由はない」と答えている。

 私は、当時、このブログを読んだのだが、「機能障害をもったのを」という言い方に、許しがたい怒りを覚えた。 

 私は、この竹原氏のブログを見るまでは、やり方は極端すぎて認められないが、竹原氏の根本的な考え方についてはエールを送っていた。

 しかし、「高度医療が」「機能障害をもったのを」「生き残らせている」という発言を聞くにいたっては、権力の強さに溺れてしまって、精神的に異常をきたしたのだとしか思えなくなった。



 国政を振り返ってみると、この数年で毎年のように総理大臣がかわっても一向に改革ができない。

 巨大化しすぎて閉塞状況に陥っている現状を打破するためには、だれにも有無を言わさず大鉈を振るう、狂人的な指導者の到来を期待することもあるのだが、一人に権限を与えてしまう怖さをあらためて感じた、今日の出来事だった。

2010年9月15日 (水)

一人称代名詞

 私(わたくし)(わたし)、僕、ボク、俺、オレ、小生、わし、余、吾輩、我が輩、拙者・・・。

 

 日本語には無数の一人称名詞がある。

 

 私は、「私は」と書くことが多いが、私が使う「私」は、「わたし」であって「わたくし」ではない。

 

 日頃、家族や友人と話すときは「オレ」と言っているのだが、「オレ」も「俺」も、文字にすると、悪ぶっているようでもあり、なんだかふさわしくない。

 

 「ボク」や「僕」は、私は日頃余り使わないのだが、テレビなんかを見ていると政治家や一流会社の社長さん、芸能人も「ぼく」と言う人が多い。

 

 大人が会話の中で使う「ぼく」はなんとも品がいい。

 

 会話の中だと、「わたし」も「わたくし」も少し固い感じがして、「ぼく」のほうがやわらかくて格好がいい。

 

 それで、私も意識して人と喋るときは「ぼく」を使うこともあるのだが、プライベートでは「おれ」を使うことが多く、仕事では「わたし」を使う。

 

 日本語は主語抜きでも成り立つ言語なのに、どうして使わなくてもいい一人名詞だけでもこんなにたくさんあるのだろう。

 

 方言を加えるとその数は膨大なものだろう。

 

 ともあれ、私はブログを書くようになって、一人称名詞にしっくりくるものがないことに気がついた。

 

 「わし」は週刊誌やスポーツ紙に登場する清原さんくらいしか使わない言葉だろう。

 

 実際には清原さんは上品に「ぼく」と言ってるのに、なぜか週刊誌やスポーツ紙での清原さんのコメントは「わし」になっているのだ。

 

 テレビ番組で清原さんが「ぼくは『わし』なんて言ったこと一度もないですよ。そもそも今どき『わし』なんて言う人いないでしょう。」と笑いながら話していた。

 

 「吾輩」はネコが独占使用している感のある言葉だが、日経新聞のコラム「食あれば楽あり」で小泉武夫さんが「我が輩」と自称している。

 

 小泉武夫さんは見た目も風格があり、洒脱な文章の流れの中で「我が輩」と称されることに違和感はない。

 

 他に、なかなか「我が輩」の似合う人はいない。

 

 「小生」はいかがなものかと迷うところもあったが、謙遜さがわざとらしい。

 

 「余」はお殿様みたいだし、「拙者」はちょんまげでもつけたくなるし、結局は「私」と称することになるのだが、主語をつけなくてすむところは主語無しでいいのだと思い直した、とりとめのない今日の出来事でした。
 

2010年9月14日 (火)

民主党代表選について⑩

 菅さんが引き続き民主党の代表になった。

 選挙期間、「政治生命をかけて」「自分の生命を賭して」という言葉を何度も聞いた。

 言葉が信頼できない今日この頃の政治だが、「国民のために」「国のために」「命を賭して」政権運営をしてほしい。

 これは菅さんだけでなく、全国会議員さんにお願いしたいこと。

 私は何もできないから、多くを言う資格もないが、「命をかけて」取り組んでもらいたい。

 と思っている。

尊厳死の宣言書

 私は、まだ死を現実問題として実感するほどの年齢でもないのだが、遺言を書いている。

 遺言というとまず思うのは、財産の分け方についてだろう。

 私も、遺言には相続方法について書いてある。

 併せて、借金状況についても詳しく書いている。

 借金といっても、私の職業柄、その大半は収益を得ている不動産購入のためのもので、支払いに困難をきたすものではない。

 また、不動産の購入にあたっては、その都度その内容を妻には話をしている。

 当面の生活に困らないようにはしているのだが、突然私が死んでしまったら、妻や子供たちは借金をどのように返済していったらいいのか途方にくれることだろう。

 そのために、財産の相続方法と同時に借金の返済方法も書いているわけだ。

 そして、当然かもしれないが家族、お世話になった方への感謝の気持も書いてある。

 私は、遺言は元気なうちに書くことが大事だという思いを強くもっているのだが、このことについては今後の課題として書いていこうと思っている。



 今日の話題だが、私は遺言書とは別に「尊厳死の宣言書」なるものを書いている。

 「尊厳死の宣言書」については、「日本尊厳死協会」のホームページにあったものをそのまま使用させていただいている。

 「尊厳死の宣言書」については5年前にその存在を知って、その日にその内容をそのまま自筆で書いて、手帳にはさんで常に持ち歩いている。

 そしてこのことは家族にも伝えている。

 私は、遺言書を元気なうちに書くべきだと思うのだが、それ以上にこの「尊厳死の宣言書」こそ元気なうちに書いておくべきだと思っている。


 そのことを通説に感じたのは、3年前に父を亡くした時のことだった。

 80歳を過ぎても元気だった父だったが、体調を壊し入院して1カ月足らずの期間で亡くなった。

 まだ父が亡くなるなんて誰も思っていなかったのだが、入院して10日くらいでみるみる病状が悪化してしまった。

 それでも父が「死ぬ」などとは思っていなかったのだが、私は医者から病室の外に呼ばれ「まだ今すぐということではないが、この先必要になったら延命措置をとるか、それとも延命措置はとらないかを決めておいて欲しい」と言われた。

 私自身は「尊厳死の宣言書」をすでに携帯していた。

 医者は私の同級生だったので、日頃も率直に自分の意見を言っていた。


 それで、私は自分が携帯している「尊厳死の宣言書」を見せ、「自分は自分が死に直面した場合に延命措置はとってほしくないと思っているが、父の意志は分からない」と答えた。

 医者からは、「今すぐ返答はできないだろうが、家族で話し合って明日までには方針を決めておいてもらいたい」と言われた。

 家族(弟、妹)に相談したが、弟も妹も、私の判断にまかせると言う。

 まかせると言われても、まかされる私の責任は重い。

 私は、自分自身では延命措置は不要と思っていることを二人に説明し、父の延命措置は不要と思うがそれでいいかと聞いたところ、答えは私の意見に従うと言う。

 これまた、従うと言う。

 従うと言うのではなくて、同意見だと言って欲しい。



 次の日に医者から看護師の詰め所に呼ばれ、再度の意志の確認をされた。

 そこには医者だけではなく5、6人の看護師が同席していた。
 
 医者と看護師に囲まれる形で答えなければならないわけだ。

 深刻な話しなだけに、その全員が固唾をのんで私の答えを待っている。

 私は「延命措置不要」と結論を出していたのだが、大勢の看護師さんたちの中でその言葉を発するのには相当なためらいを感じた。

 正直なところ、「延命措置不要」と言うと冷たい子供だと思われるのではないかと思って、答えるのを躊躇した。

 医者が同級生でなかったら、ためらいはもっと大きかったように思う。



 このとき改めて「尊厳死の宣言書」の大切さを感じた。

 「尊厳死の宣言書」は自分自身のために書いたのだが、延命措置が必要な状況になったときの家族のためにも「宣言書」を持つべきだと思う。

 「宣言書」があれば、延命措置をどうするかの決定を迫られた家族の心の痛みをずいぶん和らげてくれるだろう。
 
 ぜひ元気なうちに「尊厳死の宣言書」を書いて携帯することをお勧めしたい。




 私が携帯している「尊厳死の宣言書」は下記の通りです。

 これは「一般社団法人日本尊厳死協会」のホームページにあったものをそのまま書き写したものです。

 もし持たれる場合は、ワープロ等で書くのではなく自筆で書くことが必須条件です。

                     
尊厳死の宣言書(全文)
(リビング・ウイル・Living Will)

 私は、私の傷病が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言致します。
 この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
 従って、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。 
  
① 私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死期が迫って
いると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は
一切おことわりいたします。

②但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。
そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとして
も、一向にかまいません。

③私が数ケ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切
の生命維持装置を取りやめて下さい。

以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。
                               平成  年  月  日

   フリガナ                                          、
   氏  名                  (印)   年  月  日  生
   住  所
                                          、

 

 尊厳死と安楽死とは違います

 安楽死は、助かる見込みがないのに、耐え難い苦痛から逃れることもできない患者の自発的要請にこたえて、医師が積極的な医療行為で患者を早く死なせることです。

 尊厳死は、傷病により「不治かつ末期」になったときに、自分の意思で、死にゆく過程を引き延ばすだけに過ぎない延命措置をやめてもらい、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えることです。

 高齢化社会に入り、「生と死」について、語り合う機会が多くなりました。

 元気なうちに、いざという時に備えて、自分の「死に方」について考えてみませんか?

 というのが尊厳死協会の考え方です。

 ちなみに、私は「尊厳死協会」には加入していません。

2010年9月13日 (月)

村木さん無罪判決と冤罪と憲法

 郵政不正事件の村木さんが無罪になったことを先日書いた。

 自分の経験からも、冤罪は起こり得ると思っている。

 そしてその危険は人ごとではなく、いつ自分の身のまわりに降りかかってきてもおかしくないことなのだということも実感として感じている。

 一昨日、供述調書(と思う)に署名させられた自分自身の経験を書いたが、この時は被害届けの供述だったにもかかわらず、自分の意に反して署名捺印を強要されたという感覚が残っている。

 警察側の意に沿った被害届がすでに創作されていて、それに署名捺印を求められたわけだ。

 私としては訂正してほしい文言が少なからずあったのだが、それを許してはもらえなかった。

 それどころか、署名捺印しないということは、事件に加担しているように思われるのではないかという不安を覚えた。

 被害者でさえ自由を束縛されるように感じさせるのだから、被疑者の取り扱いがどれほど過酷なものになるか想像に難くない。



 私たちは、誰もが、何かの陰謀や間違いで被疑者として逮捕される危険をもっている。

 逮捕されて拘留されると、警察の希望する答えを認めるまでは、一切誰にも会えないし、連絡もとれない状況に置かれる。

 アメリカ映画のように、「弁護士を呼んでくれ」「弁護士が来ないと何にも喋らない」などというのは、日本では通用しなだ。

 「何もしていないんだから、行けばすぐにわかる」そして、「すぐに帰れる」と思っていては間違いだ。

 逮捕拘留されると、罪を認めるまでは帰れなくなってしまう。

 何もしていないから罪を認めないと拘留期間は長くなる。

 罪を認めれば保釈してくれるようだし、裁判になれば簡単に無実は証明されると思って自白調書に署名してしまうと、重要な証拠とされてしまい、裁判でこれを覆すのは非常に難しいことだ。

 このことは、平穏に暮らしている一般庶民の私たちが、絶対に知っておいた方がいいことだと思う。



 私は憲法をしっかり勉強したことがないので、憲法解釈について詳しくないのだが、憲法の条文に目を通したことはある。

 日本国憲法では、第34条「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、抑留又は拘禁されない。」とある。

 この「直ちに弁護人に依頼する権利を与えなければ、抑留又は拘禁されない」という文言があるのに、なぜ逮捕されて何日間も弁護士に依頼することもできずに拘留されるのだろうか。

 つい先日、鈴木宗男さんに最高裁で実刑判決が確定したが、鈴木さんの未決拘留期間が437日にもなっている。

 刑が確定するまでは無罪のはずなのだが、なんと無罪の期間中に437日という長期間にわたって拘留されている。

 否認をするといつまでも保釈が認められず、罪を認めるとすぐに保釈される。

 村木さんの場合でも、警察は「大した罪ではないから早く認めて保釈を受けたらどうか」と持ちかけたという。

 「大した罪」というのは殺人や傷害だというわけだ。

 しかし村木さんは、「偽の証明書を発行した罪を認めるくらいなら、恋に狂って相手の男を刺した方がまし」だと言って否認を続けたそうだ。

 私は村木さんのように強い意志を持ち続ける自信はない。

 それにしても、憲法第34条の条文の意味はどう解釈するべきなのだろうか。



 さらに、日本国憲法第38条では、①「何人も自己に不利益な供述を強要されない」
②「強制、拷問もしくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることはできない」③「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」とある。

 これはどういう意味なのだろう。

 私は、職業柄、民法は専門の教科書や参考書で勉強をしたことがあるのだが、憲法の勉強をしたことはない。

 しかし、憲法はたった103条しかないので、簡単にだが何度か目を通している。

 それで先の条文(第34条と第38条)が記憶にあって、今回六法を引っ張りだして読みなおしてみたという次第。

 法律の素人である私は、34条では「弁護士を依頼する権利を与えられなくては拘留や拘禁はされない」と単純に解釈している。

 38条では「自己に不利益な供述を強要されない」とある。

 さらには「不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることはできない」とある。

 「不当に長い拘留」とは何日くらいになるのだろう。

 だから、その「不当な拘留」になる前になんとしてでも自白を強要するのだろうか。

 村木さんや鈴木さんの拘留は「不当な拘留」ではなかったのだろうか。

 もっとわからないのは、「唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされたり刑罰を科せられない」とあるのに、自白だけを証拠として有罪とする裁判が行なわれていることだ。

 法を守るべき裁判所が憲法に違反する行為をするわけがないわけで、それはどういう憲法解釈の元に行なわれている行為なのだろうか。

 今回の村木さんの無罪判決で、ふと思いついて憲法を読みなおしてみて、いっそう頭が混乱してきた、よだきんぼ(宮崎弁でなまけもの)おじさんの今日一日でした。

2010年9月12日 (日)

食欲の秋

 暑い夏がようやく終わりそうだ。

 夏が過ぎると、秋。

 秋は、食欲の秋。馬肥ゆる秋だ。

 ついでに私も肥えてしまうことになる。

 私は、身長172㎝、体重78㎏、腹囲1m4㎝。

 人に肥満と言われたことはないが、立派な肥満体なのだ。

 日頃スーツを着ていることが多く、スーツが七難を隠してくれている。

 こちら宮崎では、夏はスーツを着用しないのが普通だ。

 それで、夏はスーツを脱ぐ。

 スーツを脱いで薄着になると、肥満がわかってしまう。

 だから、夏が近づくとダイエットを意識する。

 という三段論法が成り立つわけだ?



 そして、毎年のことだが、6月ごろからダイエットをしようと思いつつ、結局何もしないまま夏が終わってしまう。

 今年の夏もそうだった。

 ワイシャツ姿の自分をながめると、ぽっこりお腹がちょこんとベルトの上にのっかっている。


 秋になり、スーツを着るようになると、ダイエットの意識が薄くなる。

 そして、食欲の秋へと突入していく。

 そのまま冬を迎え、腹囲をさらに拡張して来年の夏を迎えることになる。

 ダイエットと挫折の繰り返しで、バームクーヘン状態になったお腹を見ていたら、珍しくこの季節にダイエットを始めようと思ってしまった。

 で、三日前からダイエットを始めた。

 私は、まだ救いようのあるデブで、食後のお菓子をやめればすぐに2㎏くらい体重がおちる。
 長らく身についた習慣で、朝食は食べない。

 昼も食べなかったり、食べてもラーメン、うどん、そばといった簡単なもの。

 その分夜はどか食いをする。

 晩飯を腹一杯つめこんで、それが終わるとすぐに食後のお菓子を食べる。

 スナック菓子2袋、3袋なんてざらで、この時期だとアイスクリームを2個3個平気で食べる。

 お菓子は別腹に納まってしまうのだ。

 だから、朝は毎朝食べ過ぎの後遺症で気分が悪いくらいだ。

 食べ過ぎの後遺症は昼過ぎまで残る。

 それで、朝昼抜きになることが多いわけだ。

 こんな食生活では身体をこわすし、それが一番の肥満のもとだと言われるけど、この年まで大きな病気はしたことがない。

 肥満ではあるが、どんなに食べても82㎏を超えたことはない。

 平均的な体重としては78㎏前後を推移している。

 そんな私が、例年とは違って夏の終わりにダイエットを意識したのだ。

 今日を乗り越えれば「三日」坊主にはならない。

 私はダイエットに特化したブログを始める気はないが、一項目として取り上げるのも一興かなと思った今日この日。

2010年9月11日 (土)

郵便不正、村木さん無罪

 郵便割引制度をめぐる偽の証明書発行事件で、偽造有印公文書作成・同行使罪に問われた村木厚子被告(労働省の元雇用均等・児童家庭局長)に無罪が言い渡された。

 まったくの冤罪事件でも被告という呼称がつくのは、無罪である当の本人にとっては不本意な呼ばれ方だろう。


 逮捕から454日。

 164日にものぼる拘留期間。

 この事件に限らず、逮捕されてしまうと罪を認めるまでは解放されない。


 以前、布川事件再審決定のときにも書いたのだが、私の知り合いがでっちあげの被害届によって逮捕拘留されたことがある。

 彼は、外界から遮断された異常な空間で執拗に続けられる取り調べで発狂しそうになって、警察側が作成した自白調書に署名した。

 私には、さらにもう一つ身近な人が全くのでっち上げの通報から逮捕・拘留されたのを見ている。


 私は、この事件がまったく事実無根であることを知っていたので、知り合いの新聞社に行き報道を差し控えるように頼んでみた。
 
 そのときの新聞社の答えは、警察が記者クラブで正式発表した事件については報道しないわけにはいかないということだった。

 言外に、警察発表の事件をとりあつかわなければ記者クラブから追い出されるのだというようなニュアンスを感じた。


 もう一つ、私の直接の経験がある。

 30年ちょっと前のことになるが、私が家業の靴屋を手伝っていたときのことだ。

 ある日突然2人の刑事が店に入ってきて、「この男を知っているか」と写真を見せられた。

 逮捕後に警察が撮った正面からと横からの写真のようだった。

 何度か靴を買ってもらったお客さんだったので、私はそう答えた。

 刑事「そのときカードで買物をしただろう?」

 私「はい」

 刑事「こいつは、電化製品やいろんなものをカードで買って換金するカード詐偽をやっていたのだ」
 「靴も高いものを何足も買っているだろう」
 「こいつは最初からカードの金を払う気がなくて買物をしていたのだ」

 私「そうですか。カードで買物をしてもらってましたが、私はそんなことはまったく知りませんでした」

 と答えながら、私は不安になっていた。

 この犯人と言われる人は、私が入っているテナントビルの上階の賃貸マンションの住人で、1、2度昼食をごちそうになったことがあった。

 私は、刑事が私が承知の上でカードで買物をさせたのでないかと疑っているのではないかと心配になった。

 そんな私の気持を察したように、刑事は「心配せんでいい。知らなかったあなたには責任はない」「この男はもう逮捕した」「電化製品やら、いろんなものをカードで買って換金していた」「もともと支払うつもりがないのにカードを使って、カード会社に迷惑をかけている」と言った。

 そして、供述調書(だと思う)を取り出した。

 その内容は、犯人とされる男は代金を支払うつもりもなくたくさんの買物をして、関係会社に多大な被害を与えた。これは許しがたいことであるので厳しく処罰してほしいというような内容だった。

 おどろいたのは、この内容の証言は私の言葉によるものということなのだ。

 刑事は調書を私に読み聞かせ、私に署名捺印をしろというのだ。

 私は、この人にはよく声もかけてもらったし、靴も何足か買ってもらっている。

 それに、何度か食事もご馳走になっている。

 個人的には、まったく悪感情を感じていなかった。

 だから、世の中に害悪をまきちらす極悪人として書かれている調書にサインはしたくなかった。

 サインをしたくないのは、この人が私がこんな証言をしたと聞かされたら激怒するだろうと思ったからでもある。

 靴も買ってやり、何度か食事も御馳走したというのに、恩を仇で返すのかと、しかえしにくるのではないかという不安を感じた。

 それで署名はしたくなかった。

 サインをシブル私に、刑事は早くサインをしろと言う。

 しかしどう見てもその内容は悪意に満ちている。

 こんな内容の調書にサインはしたくない。

 私は、「ここまでひどい人だとは思えないのだけど」とサインを拒んだ。

 すると刑事は「かばうのか!」と恫喝するように大きな声を出した。

 私は、その言葉の強さに恐怖も感じた。

 そして、このままでは知っていてカードで買物をさせたと思われてしまうかもしれないという不安も覚えた。


 サインに応じない私に、もう一人の温厚そうな刑事が「後でお礼参りみたいなことをされることを心配してるんじゃないのか?」「警察が責任をもって、そんなことは絶対にさせないから安心して署名すればいいんだよ」とやさしく言葉をかけてきた。


 それでも迷いがあって、すぐにはサインしなかったのだが、何度かそんなやりとりがあって、結局私はその書類に署名、捺印をした。

 この体験の数年後に、前記したデマの被害届で逮捕された知人の事件の顛末を聞き、冤罪はあるのだなと実感したものだ。

 


 潔白が証明されて村木さんは心から喜んでいた。

 満面の喜びにあふれる村木さんの顔が何度も映し出されていた。


 村木さんは国家公務員だから、すぐに職場復帰ができるだろう。

 しかし、職場から切り離された、1年3カ月という時間は余りにも長すぎる。

 肩書はすぐにでも回復できるだろうが、それま手がけていた仕事につくまでには時間がかかることだろう。

 「私ぐらいの年になると何がやりたいといえる立場ではありません。必要としてくれる職場があればそこで頑張りたいです」

 という村木さんの言葉の重みを感じてほしい。

 今回、余りにもずさんな捜査手法を指摘されているにもかかわらず、検察側は控訴すべきかどうかを検討しているという。

 「これ以上私の時間を奪わないで下さい」と淡々と語る村木さんの言葉の重さを検察は重いいたるべきだ。



 また、今回の事件で、マスコミはいっせいに特捜を攻撃しているが、逮捕前後の自分たちの報道姿勢を思いなおしてほしい。



 「逮捕前後の乱暴な取材はつらかった」

 「マイクとカメラをもったたくさんの方に追いかけられるのはこわかった」

 「夜中まで自宅に押しかけてくるとか、もう少しルールがあってもいいと思った」

 「捜査情報がリアル情報が流れた。それを書くなとは言わないが、それ以外に何を書いてくれたか、考えてほしい」

 「検察からたくさん情報が流れた。それを書くなとは言わないが、それ以外に何を書いてくれたのか、考えてほしい」

 記者会見での村木さんの言葉を、マスコミは深く自分の身に刻むべきだ。



 冤罪事件は、だれも無縁とは言い切れないこ。

 わたしたちも明日、身に覚えのない冤罪で逮捕されるかもしれないのだ。



 心配性の私は、自分が冤罪で逮捕されたらどうしようと思うと不安でたまらなくなる、今日この日です。

2010年9月10日 (金)

民主党代表選⑨

 民主党の代表選がいよいよ押し迫ってきた。

 昨日のニュースで、街頭演説会で演説をする小沢さんの声は嗄れてしまっていて選挙戦の激しさを実感させた。

 テレビのニュースでは演説のほんのさわりしか報道されないのだろうが、演説下手という定評のあった小沢さんの演説が上手いのに新鮮さ感じてしまった。

 ワイドショーでも代表選は大きく取り上げられているのだけど、押尾学の裁判の方がちょっと目立っているような気がする。

 押尾学の事件も人が一人死んでいるから重大な事件だとは思うが、被害者・被疑者ならびに関係者にとっては最重要な事件かもしれないけど、申し訳ない私を始めとする一般国民にとっては、民主党の代表選の方が重大事件なはずだ。

 なぜなら今回選ばれる民主党の代表は日本の総理大臣になるわけだから、どちらがなるかによって、そしてその政権運営が私たちの生活に大きな影響を与えることになるからだ。

 それなのにテレビ局が押尾学の事件を大きく取り上げるのは、この事件の方が一般庶民の関心が高いということなのかもしれない。

 私はテレビ好きで、その中でもとくにワイドショーが好きで、ワイドショーのはしごをして見ているのだけど、このことろ小沢さんに好意的なテレビ報道が多いように感じる。

 世論調査では圧倒的に管さんが有利で、本来ならばこの世論調査の数字をもっと菅さんに傾くように煽っていくのがテレビのやり方だと思っていた。

 そして、一般大衆はこぞって菅さん支持に傾き、菅さん大勝という方向に進むのだろうと言うのが私の予想だった。

 それなのに、このところのテレビは小沢さんに好意的なのだ。

 小泉さんの時の反省で、報道で一方的にどちらか応援してしまう流れを作らないようにしているのだろうか。

 それとも、菅さんの人気は小泉さんの時と違って国民全員が熱狂的に菅さんを応援するというような騒動にはならないので、対立させた方が面白いとテレビ局は判断したのだろうか。

 本当の理由はわからないが、テレビ報道で見る限り小沢さんが語る政策論が、ここのところ短期で交替した総理大臣に比べると、その実現性は別問題として、多少内容が詰まっているように思えてしまう。

 選挙も終盤戦に入って、小沢さんのスキャンダルもとりざたされたり、政策論外での攻撃もなされているようだし、選挙後本当にしこりなくやっていけるのかが心配だ。

 どちらが勝つにしても、大差がついてしまうとその後の民主党の運営に支障が出てしまうのではないか。

 最悪は、小沢さんが大敗をしてしまった場合、マスコミが一斉に小沢攻撃をして小沢さんを抹殺してしまうのではないかということだ。

 私は小沢さんは好きではないが、官僚支配の今の政治を本気で変える力のあるのは小沢さんではないかと思っている。

 できるならどちらが勝つにしても僅差になることを祈っている。。

 こんなことを喋っていると、井上陽水の「傘がない」の「だけども 問題は 今日の雨 傘がない」が頭をぐるぐるまわってしまう今日の私でした。

2010年9月 9日 (木)

エコカー補助金終了

 エコカー補助金の受付が、昨日終了した。

 終了間際になって申込みが殺到して予定より随分早く終了になったそうだ。

私は車を買い換えるつもりがなかったので、補助金のシステムについて何にも知らなかった。

 最高で25万円もの補助金がもらえるということで、エコカー減税と合せると35万円から40万円安くなるというのだから、買換えが殺到したというのも納得だ。

 私は、余り車には興味がなくて、というか興味はあるのかもしれないが趣味で車を買い換えるほどの経済的な余力がなくて、エコカー減税もエコカー補助金も無縁の存在だった。

  テレビCMで、エコカー減税やエコカー補助金という言葉は一日に何十回となく聞いていたのだが、「あっしにはまったく関係のないことで」内容を知ろうともしなかったわけだ。
 

  パソコンくらいなら買換えができる経済力はあるから、10月22日でウィンドウズXPをインストールしているパソコンが販売中止になるという新聞記事を見て、XPをインストールしたパソコンの新しいものを買っておこうかなと思ったりはしたわけだが、こちらの方は余り大衆の注目を引きにくいようでワイドショーでは取り上げられてなかった。
 

  エコカーについては各局ともにワイドショーでもニュースでも大きく取り上げられいたから、ちょっと興味をもって調べてみてその存在に気付いたわけだ。
 
  今朝のワイドショーに自動車解体業の社長さんが登場していたが、廃車処分する車が爆発的に増えてその処分だ大変だと言っていた。
 
  言っていたというより、テレビ局の思惑通りに喋らされていただけなのだが、テレビの画面にはまだ使えそうな車を大きなプレス機で一気に鉄の塊にしてしまう映像が流されていた。
 
  自動車解体業の社長さんの話だと、廃車を頼まれた車はすぐにつぶさずに一定期間は保管しておいて、車の修理をするための部品として再利用していて、部品をとりつくした後に処分しているそうだ。
 
  しかし、今年は廃車になる車が増えすぎたために部品も取らずに処分していかないと間に合わないそうで、もったいない話だと言っていた。
 

 私は車を趣味とはしていないので、動く車を買い換えるという意味がわからない。

 それでも、たまにはCMなんかを見ていて買い換えたいなと思う車がないことはないのだが、まだ何の異常もなく使える車を廃車にして買い換えるという気持にはならない。


 今回のことで、エコカー補助金・減税に興味をもったので調べたのだが、エコとはエコロジー(生態学→環境)という意味と、エコノミー(経済学)という意味を併せ持つ造語だそうだ。

 その意味からすると、今あるものを長く使い続けるのが一番のエコではないかと思う。


 結局はエコの名を借りた景気対策なわけで、それはみんなが知っていることなのだけど、「それを言っちゃおしまい」で、エコという錦の御旗の元に税金の無駄遣いをするなと言っている一般国民と言われる私たちも、税金の無駄遣いに加担しているわけだ。


 このことはまた別の機会に言いたいのだけど、総論賛成各論反対で、税金の無駄遣いには大反対だけど、自分がとくする税金の無駄遣いはどんどんしてくれというのが我々一般庶民なのだ。
 私は仕事の関係で車を3台持っているのだが、一番年式の新しい車が7年目で、他の2台は11年、12年も乗っている。



 車に限っては私は大いにエコに貢献していると思うエコカー問題でした。

2010年9月 8日 (水)

文庫本ノート

 コクヨが出している「文庫本ノート」というノートがある。

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 本の表紙のようなデザインのカバーがかかっている。

 定価283円(税込み)と価格も手頃だ。

 高級感のある表紙で、紙質も良いのでこの価格はお買い得だと思う。



 このノートを見つける前は、無印良品の文庫本ノートを使っていた。

 こちらは147円(税込み)。

Photo_2


 私の好みでは、圧倒的にコクヨの文庫本ノートに軍配を上げる。

 どちらのノートもインターネットで見つけて購入した。

 というのも、私は、手帳のメモ欄やノートは罫線がないものが好きだ。

 メモ欄は思いつきで、なんでも書き込む。

 重要なことは大きな字で目立つように書くし、図を書いたり、線を引いたりもする。

 そのためには、罫線が無い方がいい。

 罫線があると、どうしても罫線にとらわれてしまう。

 そんなこだわりがあって、罫線のないA6サイズのノートを探していて見つけたのが無印良品の「文庫本ノート」だった。


 A4、B5版のノートは従来からの定番品で罫線無しのものが出ているのだが、A6のものは作られてなくて、
インターネットで探しまくって見つけたものだった。

 安いし、気に入って使っていたのだが、2年前にコクヨが「文庫本ノート」を発売するという新製品情報が目にとまり、さっそく購入したのだが、これが無印良品のものよりはるかに良いものだった。

 無印良品のノートは50枚なのだが、本当の本といっしょでパカッとは開かない。

 ノートを開くためにはページのつなぎ目というか、紙の綴じ代の部分をしごいて折り目をつけないといけない。

 一方のコクヨの文庫本ノートは、ノートとして作られているので、どのページでもパカッと180度開いてくれる。

 それに、コクヨの文庫本ノートは70枚で無印良品のノートより厚いのだが、ページの継ぎ目の段差が邪魔にならない。(うまく説明できないなあ)

 コクヨの文庫本ノートは、2008年9月に9種類で発売されたのだが、人気が安定しいるようで、その後6種類の新製品発売されているようだ。



 それにしても、当市(延岡市)で唯一の総合文房具店「デサキ」さんは、いまだに取扱をしていない。

 置くと売れると思うのだがなあ。

2010年9月 7日 (火)

民主党代表選⑧

 昨日の「テレビタックル」で、ビートたけしが面白いことを言っていた。

 今回の菅さんと小沢さんの闘いは、どちらが勝とうが負けようが面白いことになったと喜んでいる。

 「こいつらは、誰も日本の行く末なんか心配していないんだ」

 「テレビ局的に話が面白くなれば良いと思っているだけ」

 というようなことを言っていた。

 実に、その通り。


 私も「テレビの功罪」なんてカテゴリーを作って、「テレビはけしからん」などと痩せ蛙の遠吠えをしているのだが、テレビを東スポや三流週刊誌と同じだと思えばどうってことないわけだ。


 テレビが、大学の教授だったり弁護士だったり経済評論家だったり国会議員だったり、一般庶民をたぶらかすに充分な肩書の人に喋らせるからもっともらしく聞こえるのだが、彼らは大学教授や弁護士という肩書をもつテレビタレントなのだ。

 テレビ局に使ってもらうためには、テレビ局の意をくんで、いわゆる流行りの言葉で言うところの空気を読んで、視聴者をよろこばせる話ができなければならない。

 単に視聴者をよろこばせるだけではなくて、たまには視聴者から反感をかうような発言をする人も必要なわけだ。

 そうすると、私のような単純な正義感をふりかざすアホな視聴者はそれを見て、「そりゃー違うだろ!」なんて叫びながら、自分の方がこいつらより頭がいいんだぞなどと思ったりして、テレビと一体化してしまうことになる。

 うまく操作されているのが私のような、ちょっと賢いと勘違いして生きている大衆なのだ。



 今回の民主党の代表選だって、何度も何度も世論調査をやって、天秤が菅さんの方に傾いていると思うと、さらに菅さん側に重りを乗っける。


 私も、ここに書いていることは、すべてを自分で考えていると錯覚しているが、層ではない。

 昨日の報道ステーションで朝日新聞の論説委員の人が、「この世論調査の数字は意外です。私は、出馬表明後の小沢さんの発言をしっかり聞いていれば、もっと小沢さんの支持率が上がってもいいと思っていたんですけどね。」などと言うのを聞くと、「そうだ、小沢さんは顔が悪くて損をしているけど、政策については小沢さんにまかせたほうがいいのかもしれない」などと思ってしまった。

 しかし、今朝の朝日新聞の「天声人語」の「小沢さんの出馬は、権力ゲームでジリ貧になるあせりから勝負に出たような・・・。このあたりの陰影に人は鈍くはない」なんてのを見ると、それ(陰影)を感じない自分は鈍いのではないかと思わされて、小沢さんの陰影を強制的に感じさせられそうになる。

 かくのごとくに、信じられないと思っているマスメディアに思考操作されているのを再認識した今日この頃なのだ

2010年9月 6日 (月)

民主党代表戦について⑦

 民主党代表選がヒートアップしている。

 マスコミは毎日のように世論調査をし、その数字を発表している。

 今日の昼のニュースを見ていたら、「代表選に対する世論調査で『驚きの』結果が出ました」と言うものだから、「あれれ、この局で世論調査は小沢さんが逆転したのかな」と思いつつ結果を聞いたら「小沢さん17%、菅さん65%」ということ。

 『驚き』ではなくて、当初からずーっと同じ数字ではないか。

 他の局、他の新聞と同じ数字ではないか。

 「どこが『驚き』なんじゃ!」


 テレビのワイドショーも、バラエティーも、クイズ番組、トーク番組、全てがこの調子だ。

 導入部分や、CMに入る前に、「驚きの新事実が判明」だとか、「驚きの光景が・・」だとか、視聴者の興味をそそることを言っていて、期待をして見させておいて、実際の内容はたいしたことはないというやり方だ。


 最近ではニュー番組でも同じ手法を使う。

 テレビのニュース番組のワイドショー化に改めて腹立たしさを感じた。

 それにしても、小沢さんは人気が悪い。

 私も、どちらかといえば好きではない。

 好きではないが、小沢さんは顔で損をしているなと同情する。

 見た目が、どうみても悪代官だ。

 顔と小沢さんの人柄とは無関係なのかもしれないが、顔から受ける第一印象は悪代官なのだ。
 優しい人には見えない。

 だけど、見た目は小沢さんのせいではなくて、親から与えられたものだからどうしようもない。

 もし小沢さんが木村拓也みたいな顔だったらどうだっただろう。

 例えば小泉進次郎氏だが、衆議院に初当選して半年もしないうちに自民党の顔になってしまった。

 なんの実績もなく、資質についてなにもわからない若者の街頭応援演説に観衆が殺到する。

 国会議員1年生なのに質疑の場に登場し、それがテレビで大きく取り上げられる。

 顔もいいけど、しゃべりもうまい。

 人の心をつかむ術を知っている。

 こんなことを言うと田嶋陽子さんの信奉者から非難を受けるかもしれないが、美人は子供の頃からまわりにちやほやされる。

 周囲からの注目を浴びながら過ごす中で、さらに、どうしたらまわりの人にもっと好かれるかの術を会得していく。

 見た目がいいから人が寄ってくる。

 人が寄ってくると、その人たちにもっといい印象を与えようと行動する。

 と、全てが好循環なのだ。

 一方のブス(ごめんなさい)は、常日頃からいじめられたり、無視されたりして被害者意識をもっている。

 周りに敵愾心をもって生きているところがある。

 周りの人に好かれないと思っているから、「どうせ私は好かれないのよ」と世間をすねて、態度までブスになってしまう。

 「ブス」という言葉を使って女性の方には申し訳ないが、これは女性だけではなくて男性を含めての話なのだ。

 小沢さんは、見た目的にはこの「ブス」の部類に入るのだと思う。

 かくいう私も見た目的には小沢さんの側の範疇にはいるのだが、「俺のことを分からないやつに分かってもらわなくてもいい」などと思っている。

 私は知恵も力もたいした人間ではないが、小沢さんは知恵と力をもっている。

 子供の頃から、かわいくて人気者で人を集めたというより、その知恵と力で人を従えて来たのではないだろうか。

 「かわいい子だね」と言われて育ったのと、「賢くてしっかりした子だね」と言われて育った差だろう。

 今や、世はテレビの時代。

 テレビを制するものが世界を制するといった感がある。

 そんな時代だから小沢さんに同情してしまうのだ。

 一方の菅さんは、やさしい顔をしている。

 心がやさしいかどうかは分からない。

 少なくてもこのところの菅さんの言動は優しい人柄ではないように感じてしまう。

 代表戦が始まって以来、菅さんの小沢さんへ対するネガティブキャンペーン的発言がとまらない。

 人の悪口ばかりを言っているように見えてしまう。

 選挙は闘いなのだろうが、悪口ばかりを言っているのは感心しない。

 少なくとも人柄の良い人には思えなくなった。

 逆に、喋らなかった小沢さんが政策について積極的に発言をしている。

 小沢さんの政策の実現性には疑問があるところだが、政策に対しての自論を熱く演説する姿が新鮮に映る。

 一方の菅さんは、「一に雇用、二に雇用、三にも雇用」「雇用による景気回復」なんて言っていて具体性がないのに比べると、少し頼もしく見えてきた。

 菅さんは、具体的な政策を言わずに、ちくちくと小沢さんを批判する発言をしているだけ。

 この3カ月を見る限り、菅さんにはこの深刻な経済問題を解決するような政権担当能力があるようには思えない。

 経済・外交ともに知識不足な感じを受ける。

 このまま菅さんが総理大臣を続けても大きな改革はできそうもない。

 私は、自民党との連立政権時代の、厚生大臣としての菅さんの姿を覚えている。

 厚生省の官僚をどなりつけて、無いといっている資料を出させた。

 あのときの菅さんの印象は鮮烈に残っている。

 だから菅さんが好きだったし、菅さんへの期待は大きかった。

 しかし今回の代表戦で小沢さんの悪口しかいえない菅さんを見ていて、菅さんの政権運営能力に疑問を感じるようになった。

 総理大臣をコロコロ変えることは、国民にも諸外国にも信頼を落とすことになるのかもしれないが、すでに信頼は無くしているのだ。
 
 「自分ならできる」「自分なら官僚のいいなりにならずに、埋蔵金をひねり出せる」と言っている小沢さんに総理大臣をやらせてみてはどうだろう。

 本当にそうなれば良し、そうならないときは真剣に増税を含めた財政債権を考えるべきだろう。

 劇薬的な扱いではあるが、小沢総理の実現を期待したくなってきている今日この頃だ。

2010年9月 5日 (日)

発売延期商品「三洋 ゴパン」価格は?

 売れすぎて発売休止・延期商品シリーズ第三弾は、三洋が発売する「ライスブレッドクッカー『ゴパン』だ。

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 ライスブレッドクッカーなんて仰々しいが、要は「米パン製造器」。直訳だ。

 7月13日に発売の発表をしたところ、話題沸騰、販売店から当初の予定の数量を遥かに超える取扱要望が殺到して、その数量が確保できるまで発売を延期することになった。

 その後、当初の10月8日発売予定日を11月11日にして発売開始と発表している。

 この「ごぱん」については、テレビおじさんの私としては、いろんな番組で紹介されているのを何度も見ている。

 なんせ、洗った米をセットすれば、米をミルで引いて米粉にして、生地をこねて発酵させて焼き上げるという仕事を完全自動でやってくれるというわけだから凄い。

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 作り方をもう少しだけ詳しく説明すると、まず洗った米と、水、塩、砂糖、ショートニングをパンケースに入れ、最期に小麦グルテンとドライイーストを本体上部の自動投入ケースにセットし、スタートボタンを押す。
 
 すると、約4時間後には米パン1斤ができあがるというものなのだ。

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 新し物好きの私の心がうずく商品だ。

 価格は5万円前後の予定で、ちょっと価格がはる。

 うちの奥さんに相談したら、即座に「いらん!」「どうせすぐに使わなくなるんだから買ってはダメ!」と言われるに決まっている。

 「日本の米余り農業の解決策の一つで、お国のためだ」と言っても、うちの奥さんには通らないだろう。

 それにしても心はずむ電化製品だ。

 ゴパンに対する熱情が冷めるまでは、寝つけない日々が続きそうな今日この頃なのだ。

2010年9月 4日 (土)

カップヌードルごはん

 売れすぎて販売休止の商品の続編。 「カップヌードルごはん」のこと。

Photo_6  「カップヌードルごはん」については、週刊誌の記事を見るまでは知らなかった。

 1日8時間くらいテレビを見てしまっているテレビおじさんを自称する私だが、「カップヌードルごはん」のCMにはお目にかかっていなかった。

 それもそのはず、8月16日から近畿地区で先行販売を開始したところ、人気沸騰、予想をはるかにこえた売れ行きで、発売からわずか4日で販売休止とあいなったという。


 こちらでCMが流れる前に販売休止になったということだ。



 この「カップヌードルごはん」はカップヌードルの味をごはんで再現した商品で、電子レンジでスープとともにたくことで、「カップヌードル」の味が、ごはんのすみずみまでしみわたって、カップヌードルを思わせる炊き込みご飯風な食べ物のようだ。

 「カップヌードルごはんシーフード」も同時発売されている。

 待ちきれなかったら、カップヌードルを食べたスープにご飯をいれてかき混ぜれば同じことではないかとも思えるのだが、食べた人の感想を聞くと、それとは全くの別物になっているようだ。

 「過去の製品とは一線を画した会心の出来の商品」だそうだ。

 9月下旬には再発売の予定だ。


 こちら九州の片田舎でも9月の下旬の発売になるのかどうかは分からないが、インスタントラーメン党のわたしとしては、その発売が待ち遠しい今日この頃なのだ。

 「カップヌードルごはん」についてはhttp://www.cupnoodlegohan.jp/
       
    

サントリー「オールフリー」

 昨日話題にした、売れすぎ商品サントリー「オールフリー」についての蛇足

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このオールフリーは武蔵野工場(東京都府中市)のみで生産され、8月までに

当初30万ケース(1ケースは大瓶20本換算)を生産する計画だったが、

10日時点ですでに40万ケース分の受注があったそうだ。

生産が間に合わないため、8月中のオールフリーの出荷は見送ることにし、9月上旬を目標に販売を再開することにして、増産体制をとっているようだ。

 オールフリーは「アルコール0%」「カロリーゼロ」「糖質ゼロ」の3要素の全てをゼロとしているのが特徴。

 日本のノンアルコールビールブームのきっかけを作ったのはキリンで、昨年売りに出した「キリン・フリー」も発売当初は品不足を起こすほどの人気だった。

 そんなヒット商品を他メーカーが放っておくわけはなく、他のビール会社も次々に新製品を開発してきたというわけだ。

 今年3月にはアサヒビールが、アルコールゼロ、カロリーゼロの「ダブルゼロ」を発売し、それに続いてサントリーが「オールフリー」を発売した。

 先駆者の「キリン・フリー」はアルコールゼロではあるもののカロリーが若干あったもので、続くアサヒはカロリーもゼロにしてネーミングも「フリー」にダブルを追加した「ダブルフリー」とし、続くサントリーはアルコールゼロ、カローリゼロに加えて糖質までゼロとして「オールフリー」という商品名にした。

 もう節操もなにもあったものではない。

 後だしジャンケンで、出遅れの不利を取り払って余りある結果をみた。

 以前に、書き味さらさらのボールペンのことを書いたが、ジェットストリームがヒットすると続けとばかりに類似の商品が発売される。

 ボールペンは先駆者のジェットストリームが王座を死守しているようで、それは私の使用感でもそう感じるのだが、アルコールをたしなまない私には、ノンアルコールビールの覇者についての論評はできない。

 それにしても、繰り返しになるが節操がない気がするが、すぐに先発商品の性能を上回るような類似品を開発・投入できる各メーカーの技術力には感心している。

 

2010年9月 3日 (金)

売れすぎて販売休止・販売延期

 物が売れないという時代に、「売れすぎて販売休止」や「販売延期」という商品がある。


 最近話題になっているのが、サントリーのノンアルコールビール風飲料「オールフリー」、、日清食品の「カップヌードルごはん」が売れすぎて販売休止になった。

 また、三洋電機のお米を材料にするパン焼き器『ゴパン』は、取り扱い依頼が殺到して発売日が一カ月以上延びた。

 商品の良さもあるのだろうが、テレビ報道の影響が大きいのだろう。


 テレビCMではなくて、ワイドショーやトーク番組内で取り上げられたものが口コミでひろがり、消費者が殺到して大騒ぎになる。

 それをまたニュースやワイドショーで騒ぎ立てるから、あっという間に品薄になってしまう。

 これは新たなマーケティングの手法じゅないのかと、私は疑っていている。



 それと、私には「売れすぎて販売休止」というのがよく分からない。

 生産ラインを増やすためには、設備投資が必要で、それには多大な費用と時間が必要で、生産を休止したからといってすぐには過剰な需要をまかうことはできないだろう。

 販売店間の不公平感を是正するための措置なのだろうが、商業的に考えたら、現在のまま生産と供給を継続して、品薄状態を継続していったほうが、商品価値を高めることにもなるし、消費者からあきられることもないのになあと思う。

 以前に、「フランスパン工房」という、フランスパンを圧縮スライスしてポテトチップスみたいにしたスナック菓子が、やっぱり売れすぎて店頭からなくなってしまった。

 私は、テレビCMが流れだしてすぐに買いに行ったのだけど、なかなか買えなくて、数週間後にやっと買えて、食べてみると、さすが品薄になるだけのことがあって美味しいなと思って、私の購入スナック菓子の常連になったのだけど、そのうちに常時たなに溢れるようになって、さらにはシュガーバター味だのベーコンペッパー味だのキャラメル味だのと次々に新しい商品が出てきて、新鮮さも有り難みもない普通のスナック菓子に格下げになってしまった。

 やっぱりスナック菓子の定番としてはカルビーのポテトチップスの方が安定して美味しいわけで、「ポテチ」がご飯だとすれば「フランスパン工房」はおやつだと私は思っている????



 とういうことで、横道にそれた話が本線を走っているが、ものが売れなくて困っているこの時期に、売れすぎて販売休止や販売延期をやむなくされているメーカーさんは気が気ではないだろう。

 少しでも早く販売再開ができることを祈っている。

 というのも、新し物好きの私としては、「オールフリー」も飲んでみたいし、「カップヌードルごはん」も食べてみたいのだ。

Photo  オールフリーの販売再開は九月七日を世手しているということだ。

Photo_4  カップヌードルごはんは九月下旬に販売再開ができるということだ。

 しばしの辛抱だが、手に入るのはそれからまたしばらくかかることになるのかもしれない。

口蹄疫でなくてよかった

 昨日の地元紙夕刊デイリーに、えびの市で口蹄疫のような症状がある牛1頭を確認し、検体を動物衛生研究所の検査施設(東京)に送ったというニュースが大きく取り上げられていた。

 農場から、生後5か月の牛がよだれを流し、口内が少しただれているとの連絡があり、獣医師は可能性は低いと判断したが、念のためいっしょに飼育している4頭を含む5等分の検体を動物衛生研究所に送ったというニュースだった。

 全県の安全宣言をしたばかりのことで、もしこれが口蹄疫だったらそれこそ宮崎県の畜産には致命傷。

 これでやっと立ち直れると思っていたのに、やっぱり出てしまったのか、などと心配していた。

 ウイルス検査の結果、すべてが陰性だったとのことで心からほっとした。

 今回の件では、まず口蹄疫かもしないと思われる牛の飼育農家が早々に通報し、県もそれにすぐに対応した。

 さらに、えびの市は万一の事態を想定し、枚客のための重機と土地も確保していたという。

 「口蹄疫の疑いのある牛が見つかった」という報道は、昨夕から夜にかけて何度も取り上げられていた。

 宮崎県民の感情からすると、口蹄疫ではなかったということと、今回の口蹄疫に対する迅速な対応も、くり返し報道してもらいたいものだ。

 「人の不幸は蜜の味」。人心の不安を煽るばかりが能じゃない。

 今の世の中、不安は満ち満ちていて、楽しい話題に食いつく人も多いと思うのだが。

 とにかく、なんともなくて、ほんとうに良かった。

2010年9月 2日 (木)

民主党代表選について⑥

 民主党の代表選が始まった。

 昨日、立候補した管さんと小沢さんは共同記者会見に臨んだ。

 それぞれの経済、財政の政策についての論評は評論家やコメンテーターの方々がさまざまな意見をおっしゃっているから私の出る幕はない。

 共同記者会見を見ていて、前日の二人の記者会見の時とは違う雰囲気を感じた。

 前日の記者会見では、選挙後はお互いに遺恨を残さないと言っていたが、やはり選挙は闘い、遺恨は残るだろうなと感じさせられた。

 もちろんテレビの演出があって、ニュースやワイドジョーでは全編を放映しているわけではないので、その分を差し引いてみなければならないが、選挙は奇麗事ではすまないものなのだ。

 少なからず遺恨は残るだろう。


 特に、菅さんはネガティブキャンペーン的な発言が多かった。

 自分が最初に選挙に出馬したことのことにからめて、ロッキード事件を持ち出し、「もう政治のことにお金がまつわるような古い政治から脱却しなければならない」と言い放った。

 さらに「いずれの候補者が首相としてふさわしいのかという選択を国民にしていただく」と続けた。

 政策を闘わすより先に、小沢さんのダーティーな部分をちくちくと責めたてていた。

 管さんは優位にたてるのはこの一点しかないと思っているのだろうかと、思ってしまった。

 菅さんの方があせりを感じているのだろうと思わざるを得ない。


 ともあれ、密室談合で進むよりは選挙で決定することの方が良かったと思う。


 そして、選挙後はそれぞれの発言に責任をもって、「禍根を残さず」「協力して」「課題の解決にあたって」いただきたい。

 与野党ともに、政治家の方々の権力抗争はやめにして、危機的状況の日本の行く末を「命をかけて」「政治生命を賭して」協議してもらいたい。

 国民は、今の日本が危機的な状態であることは充分分かっている。

 それをあなたがたに、なんとか解決してもらいたいと切に願っている。

2010年9月 1日 (水)

敷金について

  今日、貸店舗の家主さんから、敷金の取扱について相談があった。

 10数年前に入居した方が退去するという。

 不動産業者を介さずに賃貸借契約をしてなくて私に相談をしてきたわけだ。

 相談というのは、敷金は返さなくてはいけないのかということだった。

 返さなくてはいけないのかって、返さなくてはいけないに決まっている。

 敷金は税務上も預かり金で処理しているはず。

 預かっているお金なんだから、返すのはあたり前なのだけど、結構こういった相談は多い。


 「敷金はどういう取扱になるのか」と聞かれたので、「特別に何もなければ敷金は返さなければならない」と答えたのだが、「10年以上貸していたので、もとの状態に戻すのには金がかかるから、敷金は返さなくていいのではないか」と言う。

 「まわりの人に聞いたら、敷金は帰って来ないものだと言っている」というわけだ。

 私に、敷金を返さなくて良いというお墨付きをもらいたいだけの話なのだ。


 この方の場合はどうだかわからないが、通常は、敷金は預かり金なのだが、使ってしまっている。

 だから、返すとなるとなんか損をしたような気になる家主が多いのだ。


 前にも書いたかもしれないが、賃貸借契約は入居のときにはお互い友好関係なのだが、退去の時には敵対するという感じになることが多い。

 家主はなんだかんだ因縁をつけて敷金を返さない。

 借り主は全額返してもらいたいと主張する。

 家主は10年以上貸していて、元に戻すには修理費用がかかるから敷金は戻せないと言う。

 借り主は10年以上家賃を払ってきて、払った家賃合計は1000万円を超している。10年も絶てば建物が傷むのは当然のことで、敷金は全額戻してほしいと言う。

 このようにそれぞれが自分の権利を主張して、もめることが多い。



 私たちはそれを知っているから、賃貸契約を結ぶ前に、退去時の取り決めについて詳しく説明し、契約を締結する。

 それでも、退去時にはもめることが少なくない。


 さて、どちらの言い分が正しいのでしょうか。

 私は、ほとんどの場合、家主の言い分に無理があると思っている。

 不動産賃貸業はちょうどレンタカー業と同じ、物件のレンタル業として考えるとわかりやすい。

 レンタカー業者は、車を貸して料金をいただく。

 汚いままの車を借りるお客さんはいない。

 当然車は、中も外もきれいに掃除して借りてもらいます。
 そう、借りていただくわけだ。

 そして、車は乗ったら消耗するし、汚れもする。

 タイヤが減ったからタイヤの消耗料もらいますとか、雨降りに泥道を走って汚したから掃除代をとるなんてことはない。

 レンタカー業者は、車の損耗費用や清掃費用をみこしてレンタカー料金を設定しているわけだ。

 ただし、車を借りた人が過失で車をぶつけて傷をつけたり、タバコの火でシートを焦がしたりした場合については、その修理費用は借りた人に請求することになる。


 貸家業もまったくこれと同じことだ。

 人が家を使えば損耗する部分もでるし、汚れもする。

 さらに5年10年という期間の経過の中で、自然劣化する部分も多々出てくる。

 それを新品の状態に戻して返せというのは、家主の勘違いでしかない。

 そもそも日本においては、大昔から概ねバブル期までは、土地も家賃も右肩上がりに上昇し、物件不足から家主が強い状態が続いて来た。

 「貸してやる」という考えの家主があたり前の世界で、借りる方は「貸してもらう」という姿勢になりがちだった。

 バブル崩壊後土地神話は消え、それに伴って家賃も下落傾向にある。

 いまや、賃貸業は「借りていただく」という考えで経営しないと、空き室をかかえて四苦八苦という状況に陥ってしまう時代になっている。

 賃貸業でも若い新興勢力の台頭がはめざましいものがある。

 経営に行き詰まった賃貸物件を安く買って、きれいにリフォーム・リノベーションをして、借りる人の立場になった運営で満室経営を続けているところもある。

 いままでのように、家主が自分は資産家で家を貸してやっているのだという姿勢では賃貸業はやっていけなくなる。

 そんな変化に気がつかず、借り手のニーズに合わない経営をしているアパート・マンションは空き室だらけになってしまい、結局若い新興勢力の家主に安く買いたたかれることにもなりかねない。



 家主さんにくれぐれも分かっていただきたいのは、は貸家業という商売をしているのであって、賃貸人は大きな買物をしてくれた大事なお客様だということを重々理解することだ。


 前にも言ったことかもしれないが、月々5万円の家賃で5年間借りていただいたお客様は、300万円もの支払いをしてくださっているわけだ。
 そんな高額な買物をしたお客様だと思えば、退去に際してなおざりな取扱はできるはずがない。



 一方の借り主さん達にもお願いしたいことがある。

 最近は「家賃を払っているから客だ」という、権利主張の強い借り主の方が少なくない。

 しかし、不動産の賃貸借というのは通常の買物とは違って、貸主・借主の相互関係が長期間続くわけだ。

 家賃を支払うお客には違いないが、家賃という対価の見返りに住環境を利用できて利便性を手に入れられているという気持をもっていただきたい。

 「貸してやる」「借りてやる」の関係ではなくて、「借りていただく」「貸していただく」という関係になってほしいものだと、常々思っている。

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