胸すっきり。「認知症」に違和感。
私のブログにときどき登場する朝日新聞土曜版「be」
その「be」に日野原重明先生の「99歳・私の証 あるがまま行く」というコラムがある。
そこに書いてあったのだが、日野原先生も「認知症」という病名に抵抗を感じているそうだ。
このコラムを読んで、私の長年の胸のつかえが下りた。
「認知症」は、以前は「痴呆症」と言っていた。
「痴呆」という呼称が、患者をバカにする差別用語ではないかということで厚生労働省が「認知症」という名前に改めたそうだ。
バカにして「痴呆症」という病名を使っていたとは思えないのだが、ちょっとした批判の声も気にする役人仕事でそうなったのだろう。
しかし、「認知症」という病名は、私の頭を混乱させ続けてきた。
日野原先生は、「認知力がなくなった患者を「認知症」と呼ぶのは自己矛盾に思える」「正確に表現するなら『不認知症』だ」とおっしゃっている。
この言葉で長年の私の胸のつかえがおりたのだ。
認知できなくなった人を認知症と呼ぶのは日本語的に違和感がある。
だけど、その違和感はどこにあるのか私には表現できなかった。
正確には「不認知症」と呼ぶべき、という日野原先生の言葉で、私の胸はすっきりした。
言葉の意味は変化をするもので、間違った使われ方をしているうちに、間違った使われ方が正しい使われ方になることがある。
最近での流行りの言葉で気になるのが、「ヤバイ」
不都合だったり、危機に瀕したときに使われる言葉だったのだが、一部の若者が「美味しい」というときや、「素敵」というときなんかに「ヤバイ」と使っていた。
それは「スゴイ!」というような意味合いの使い方だったのだが、テレビが面白おかしく取り上げて、若者の流行の言葉なんて祭り上げたもので、いい年こいたおじさんタレントまでが若者の流行に乗り遅れまいと「ヤバイ」を連発するまでになった。
無理やり流行らせようとした「チョベリグ」(超ベーリーグッド)や「チョベリバ」(超ベーリーバッド)的な一時の流行りの言葉と違って、「ヤバイ」は定着してしまいそうな予感を、私は感じている。
言葉は生き物で、変わっていくのが必然的な流れで、だから「古文」という課目があって「古語辞典」を引きながら悪戦苦闘しなければならないわけだ。
自然な流れで言葉の意味が変わってくるのはいたし方がないことなのだが、お上の一声で言葉を変えるのには若干意義を申し立てたい。
前述の「認知症」がその一例だが、差別用語として使用禁止用語に指定されている言葉がある。
使用禁止用語だからその用例をここで具体的に書くことは遠慮すべきで書けないのだが、テレビなんかを見ていて、番組の最後に「不適切な発言があったことをおわびします」などとお詫びのコメントがはいることがある。
その番組を見ていても、なにが不適切だったか気がつかなくて、それが気になって仕方がないことが多々ある。
そのほとんどが、私にとって差別的に感じられない名称であることが多い。
しかし、差別される側の人が不快に感じるのであれば、それはおわびするべきだ。
だけど、発言する人がまったく差別の気持がない言葉で、差別されていると言われる側の人も差別されていると感じていないかもしれない言葉に、ことさらに神経質になって使用を制限することは、差別されていると言われる立場の人への差別ではないだろうか。
このところ、仕事が異常に忙しくなっていて(うれしい悲鳴を上げているのだが)言葉の整理ができないままのブログアップになってしまった。
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