多忙の予感
今日は終日仕事をしていた。
平日に終日仕事をしているのは当たり前って言えば当たり前なんだろうけど、当たり前を当たり前にしていなのが私。
てなことで、1日中仕事をしていてネットにつなぐヒマもなかった。
今から、月1回の定例の飲み会。
一応、今日のシルシを残して、今から出かけるとしよう。
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今日は終日仕事をしていた。
平日に終日仕事をしているのは当たり前って言えば当たり前なんだろうけど、当たり前を当たり前にしていなのが私。
てなことで、1日中仕事をしていてネットにつなぐヒマもなかった。
今から、月1回の定例の飲み会。
一応、今日のシルシを残して、今から出かけるとしよう。
「メン・イン・ブラック3」を観てきた。
テレビCMを観ていたら面白そうで、ジャンルはコメディーというふれこみだった。
コメディーはアクション物と並ぶ私の大好物。
最近店長が変わったせいか、当地(宮崎県の北端の街、延岡市)唯一のシネマ館では話題の映画がかかるようになっている。
「メン・イン・ブラック」が上映中なのを知って、観に行こうとしていたら、家内も娘も観たいと言う。
それならってことで、今日、水曜日のレディースデイに観に行くことにしたという次第。
なにせ、レディースデイは女性は1,000円なのだ。
それに明日は、帰って来ていた娘が大阪に旅立ってしまう。
しばらくは延岡には帰って来ないだろう。
十何年ぶりかに娘と映画館に行くことになった。
映画は、私の苦手とする空想映画だった。
私は、子どもの頃からアニメとSF、空想映画が苦手。
子どもの頃も、テレビのアニメが好きではなかった。
ただ、人気のアニメを見ておかないと、学校で話題に乗れないから見ることはしていた。
現実感がないのがダメなのだ。
映画の内容は、今から見る人のためにあえて触れないが、この映画がコメディーにあたるということは私には理解できない。
時空空間的な話は私には受け入れ難くて、観ていて頭が混乱するばかりだったが、最後のシーンだけで100分間耐えて観ただけの甲斐のある映画だった。
延岡市民のみなさん、よかったら映画館に足を運んでみましょう。
レディースデイの今日だって、夕方7時の開演時間で観客は10人くらい。
延岡市から映画館がなくならないようにご協力お願いします。
DVDを家で楽しむのもいいけれど、映画館で観る映画は本当にいいものですよ。
すでに何度も書いた「ギャラクシーノート」
私にとって4台目のスマートフォンになる。
直前に使っていたのはギャラクシーⅡ。
なんでもできる魔法の玉手箱みたいな、私にとってなくてはならない小道具である。
インターネットにつなぐことが多くて、もう少し大きいものは出ないのかなと探していたところに発売されたのが「ギャラクシーノート」だった。
発売と同時に買い替えた。
今までのギャラクシーⅡと操作方法も通信速度も同じ程度だが、この画面の大きさには満足している。
大きすぎると思われる人も多いようだが、私がいつも携帯していた一般的な手帳と同じ大きさだ。
操作方法はギャラクシーⅡとほとんど同じだから、買い替えた日から何の不満もなく使っている。
しかし、このところ、画像の切り取りや貼り付けをスイスイとやる「ギャラクシーノート」のテレビCMを頻繁に見るようになって、「ギャラクシーノート」に対する不満を感じるようになった。
テレビCMでは、インターネットの画像を切り取ってメモに貼り付けたり、画像に文字を書き込んだりしているのだが、添付されているマニュアルのどこをみてもそんな操作方法は書いていない。
ドコモのホームページの電子マニュアルを見ても、無い。
アマゾンで検索しても「ギャラクシーノート」のマニュアル本は2冊しかない。
インターネットで「ギャラクシーノート」関連記事を検索すると、私のブログが上位に検索されていて、私には役に立たない。
そんな私のブログに、「ギャラクシーノート」関連の検索で300以上のアクセスがあってもうしわけなく感じてしまう。
でも私は、ギャラクーノートに満足している。
1台持ちのポケットサイズとしては、絶妙のサイズになっている。
この画面サイズは絶対にお勧めだ。
一昨日(26日)、福島第一原発大4号機の原子炉建屋内部が報道陣に公開された。
テレビでも取り上げられたが、多くのニュースにまぎれて、目立った取り上げ方に放っていなかった。
新潟のトンネル爆発事故、スカイツリー、みのもんたさんの奥様死去の報道の方が大きく取り上げられていた。
原発問題については、視聴者の関心が減ってきていて視聴率が取れないのだろうか。
画面に映し出された4号機建屋は爆撃を受けた後のようだった。
鉄骨はぐにゃぐにゃに曲がり、厚いコンクリートの壁が吹き飛んでいる。
使用済み燃料のプールがむきだしになっている。
東電は、東日本大震災と同じ程度の地震でも耐えられると評価していて、安全だと言って公開したのだろうが、素人目には再び事故が起きるのではないかと不安になる状況だった。
これと同じように破壊された原子炉を4つも抱えているのだ。
溶け落ちた燃料棒の取り出し、使用済み燃料棒の移転については目処がたっていない。
昨日の朝刊に4号建屋の写真が掲載されていたが、この原状を見ると、明確な説明無しに原発再開、存続を進めるというのはわけがわからないなあ。
テレビで久々に五木寛之さんを見た。
五木さんの「青春の門」が大ベストセラーとなったのは私の学生時代だった。
ハンサムな容貌も人気を高めた要因であったように思う。
だがら、五木さんの出版広告には必ず五木さんの大きな顔写真がいっしょだった。
五木さんの小説はいくつか読んだが、ハンサムゆえに私は五木さんを好きにはなれなかった。
ハンサムな顔だちというだけでなく、立ち居振る舞いも発言も二枚目なのだ。
マスコミにもたびたび登場したが、とにかく、テレビで見る五木さんは格好良かった。 話の内容も二枚目だった。 当時、自分の容姿に劣等感を持っていて、加えて嫉妬心の強かった私は、それらの一つ一つが計算ずくのようで、五木さんを好きになれなかったのだ。 その五木さんも、今年、79歳になっていた。 久々に見る五木さんだったが、とても79歳には見えない、相変わらずのハンサムぶりだった。 なにげなくチャンネルをまわした瞬間に聞こえてきた五木さんの言葉に耳を傾けた。 「人間は生きているだけで意味があるんですよ」という言葉だった。 話の前後は聞いていなかったが、「生きるとはどういうことなんでしょうか?」というような質問に答えたもののようだった。 どう生きているかとか、何をしてきたかとか、そんなことよりも、生きていることだけで意味があるというのだ。 この数年、私は、なにもしてこなかった自分の人生にあせりに似た気持ちを抱いていた。 「やればできる」「そのうちやるぞ」と思って、結局何もしないで生きてきた。 7、8年前までは、そう思っていた。 しかしここ数年、今から始めても何もできないなと思うようになっていた。 「光陰矢の如し」「少年老い易く学成り難し」「後悔先にたたず」いろんな格言がかけめぐる。 こんな格言が多いってことは、私みたいな人間の方が多いのだろうと、自分を変ななぐさめ方をしたりしていた。 そんな時に聞いた五木さんの言葉は、私に優しく響いた。 「生きていることだけで意味がある」 どう生きてきたか、何をしてきたかは問わず、今生きていることに価値があるというのだ。 なにもやってこなかったことを悔やんでいた私は、この言葉に救われる気がした。 もっと励まされたくて、図書館で五木さんの本を借りて来ようと思っている。
お笑いコンビ・次長課長の河本準一が、生活保護受給問題のおわび会見を開いた。
その表情は溺れる犬状態だった。
役者だけに、それは周囲の助言と演出によるものかもしれないと多少の疑問を抱いてしまうが、私には反省と後悔する姿に見えた。
売れっ子芸人の河本さんだからこそ、大きな話題になって、マスコミから寄ってたかってこづきまわされている。
5,000万円もの年収がありながら、その母が生活保護を受給するというのは確かにおかしい。
河本さんのおわび会見での釈明では、お母さんが生活保護申請をしたのは、河本さんの年収が100万円程度しかない時代だった。
その後売れはじめて、役所からお母さんの生活支援はできないのかという問い合わせがあり、若干受給額を減らしたこともあるが、受給を打ち切ることはなかったというのだ。
そこには、もらえるものはもらわないと損という発想があったのだと思う。
しかし、私には河本さん一人を責めたてる気持ちにはならない。
私の三日前のブログで書いたことだが、私は、所属する不動産の組合の会議で、補助金受給問題で年甲斐もなく、中学生みたいな正義感ふりまわした。
組合が補助金を受給するために立てていた仮の事業計画に猛反対の意見を述べたのだ。(詳しくは三日前 5月23日のブログを読んでもらいたい)
あのとき組合の役員が言った言葉、「もらえるもんは、もらわんと損」だった。
その言葉を言った役員は、ずるい人ではない。
むしろ、協会の知性と言われているような人だ。
そんな人でさえ、自分の問題になると「もらえるものはもらわないと損」という考え方になってしまう。
しかし、かくいう私も、仕事が見つからない子どもに、雇用促進事業として行なわれている、パソコンの研修を受けることで月額10万円の助成金をもらえる学校に行くことを勧めた。
そして、家庭の年収が400万円を超えていると月額10万円の助成金がもらえなので、子どもが私の会社が保有するアパートに住んでいるようにみせかけることを考えた。
「そんな不正はしたくない」と子どもにいさめられて、その計画は実行しなかった。
ひごろ、中学校の正義感を持っているなんてきれいごとを言っている私だったが、自分のこととなると見えなくなっていた。
そんな私が、「もらえるものはもらわないと損」という考え方で生活保護をもらっている人たちを責めることはできない。
政治家や官僚の無駄遣い、ばらまき行政、独立行政法人、天下りを 税金の無駄遣いと批判するが、自分のためには大いに税金を使ってもらいたいといううのが国民多数の意見なのだ。
無駄な道路を造るなと言うけれど、自分の町には必要な道路がたくさんある。
私は、宇宙の果てがどうなっているのかを考えると頭が混乱するのだが、それと同じくらい人間社会のルールをどうしたらいいのかを考えるときも頭が混乱してくる。
私は、50ccバイクをちょくちょく利用している。
道路が狭くて、ちょっと駐車しておく場所のないお客様のところとか、すぐ近くのスーパーやコンビニに行くときにはバイクを使うことが多い。
混雑する時間帯に市役所に行くときなんかもバイクで行く。
数年前に中古で買った高年式の「ハリアー」の燃費が極悪だもので、ガソリン価格が高騰してからバイクを利用する機会が余計に増えた。
バイクは小回りがきくし駐車場の心配をしなくていいのがいい。
しかし、50ccのバイクの法定速度は30㎞。
そして、3車線以上の道路での交差点では二段階右折をしなければならない。
二段階右折というのは、交差点で右折する際に一端直進して反対側まで進み、そこでバイクを右折方向に方向転換して、信号が青になるのを待って、信号が変わったら進むというやりかただ。
実際に30㎞で走ることは、なかなか至難の技で、バイクの専用レーンのない狭い道を30㎞で走っていると車の流れを妨げるし、車の運転手をいらいらさせることになる。
それで、車の流れを邪魔しないように走ることになるが、運悪く白バイなんかに見つかるとすぐに20㎞以上の速度違反になる。
そんな不安を常にかかえて走ることになる。
交差点での二段階右折もなかなか面倒だ。
右折したいのに真っ直ぐに進んで向こう側で停まり、すいすい右折している車を眺めながら右折方向の信号が変わるのを待っているのは、なんとなく屈辱的な気分になる。
それで、法定速度60㎞で二段階右折をしなくてすむ自動二輪車(バイク)に乗ることを考えた。
そんな気持ちがだんだんと高まってきて、インターネットオークションで安い大型スクーター眺める日が続いていた。
オークションを眺めていると、安い大型スクーターがある。
何度か10万円程度の最低価格で入札してみたが、結局落札価格は30万円くらいになってしまう。
落札してもバイクの免許はない。
だから、落札価格の調査の積もりで入札をくり返していたら、ほとんど最低価格のまま落札してしまった。
予定外の落札だったが、落札したからには買うしかない。
オークションの決済の準備をすると同時に、自動車学校の入学手続をとることになった。
で、今日が初の実習だった。
オートマチックだから50ccバイクと対して代わらないだろうと思っていたのだが、まったく別物。
まず車体の大きさと、重量は想像をはるかに超えるものだった。
ささえるだけでも、大変。
50ccは自転車に乗るのとほとんど変わりがないのだが、400ccの大型スクーターは、それとはまったく違う。
直進、停止もままならず、初日の今日からS字コース、スラローム運転、橋渡りと、一通りの初歩的技能実習をさせられた。
しかし、なさけないほど、どれもできない。
原付バイクでベテランの域に達していると自負していた私だったが、甘い考えは見事に打ち砕かれた。
筋肉はきしみ、心臓は縮み上がり、おたおたと情け無い運転をしてしまう。
実年齢よりずいぶん若く見られ、気持ちは若者だった私だが、教官には「手のかかる初老のおじさん」に見えているに違いない。
規定教習時間は13時間。1日2時間の教習をとれば2週間足らずで免許が取れると思っていたが、補修は必至と覚悟した。
ともすると、補修時間10時間以上になってしまうのではないかと、弱気になった教習初日だった。
日経新聞に「これからの田舎暮らし」という連載コラムがある。
テレビでおなじみのエッセイスト玉村豊男さんが、自分の田舎暮らしの経験をもとに、田舎暮らしに憧れる定年目前の男たちへ助言のコラムだ。
田舎暮らしの良さだけを紹介して、田舎暮らしをすすめている本が少なくないが、このコラムでは田舎暮らしの大変さもしっかり伝えているのが良い。
私の好きなコラムのひとつで、毎週楽しみに読ませてもらっている。
先日、「農家になるには」というテーマで、田舎暮らしで農業をやるにあたって、農地をどうやって手に入れるかという話をされていた。
その中で農地を買うにあたっての注意事項にも触れられていた。
私のように田舎町で不動産屋をやっているものにとって、必須の知識である。
わかってはいるが、おさらいのつもりで読ませていただいた。
ちなみに、私の住んでいる延岡市(宮崎県の北端の街)は、人口13万人。
旭化成を中核企業とした工業城下町だが、東に太平洋、西に九州山脈の山々を背負った自然豊かな町でもある。
市の中心部から海岸線にかけては、旭化成の工場の大きな煙突が象徴する工業都市。
旭化成を中心として商店街も賑わいをみせていた。
そんなわが町も、昨今は全国の地方都市同様、旧商店街は衰退し、ロードサイドでは大型商業店舗が活況を呈している。
そんな中、商工業と併せて町を形作ってきたのが農業である。
町の中心部では工場群とともに田園が広がっているし、ちょっと中心部をはずれると農村の風景も見られる。
そんな町で不動産屋をやっていると、農地を宅地化して分譲することも多々ある。
玉村さんのコラムには、「農地は農家にしか買えない」とあったが、それは正しいとも言えるが正確には正しくはない。
昭和45年に制定された都市計画法で、都市計画区域と都市計画区域外の線引きがなされた。
さらに、都市計画区域内においては、市街化区域と市街化調整区域が定められた。
都市計画法により、都市計画区域外の農地及び市街化調整区域の農地については農家でしか買えない。
しかし、市街化区域の農地については農地を農地以外のものに転用するという届け出を出すことによって、農家でなくても農地の購入は可能だ。
さらに、市街化調整区域の土地についても県知事の許可があれば購入は可能となる。
玉村さんがおっしゃるのは、主に都市計画区域外の農地について言及されておられるようだ。
この場合は、玉村さんがコラムにておっしゃっている通りの手続きをふむまなければ農地の取得はできない。
すなわち、農地を取得しようと思う地域の役場の農政課や農協に、新規に就農したいので農地を取得したいということで買える農地を紹介してもらう。
そして、農業委員会に営農計画を提出する。
農業委員会がそれを認め、土地の購入手続きが終われば、晴れて農家として農地の取得ができることになる。
一般的に、5反(1,500坪)の田んぼを取得することが条件になる。
ただし、5反全部を購入しなくても、借りるということでも条件を満たすことになる。
また、昨今は規制緩和により、県や地域により面積の緩和措置がとられている。
※当地(宮崎県の北端の街、延岡市)でも、面積緩和措置がとられることになって説明会を受講したことを思い出したことを、このブログを書きながら思い出したが、そのときの資料が見つからない。
ただ、農業委員会に農家として認可を受けるのは至難の技である。
過去に私がお付き合いしていた後輩の不動産屋さんが、農業従事者として農業委員会に認可を受けるべく、米を作ったり畑を耕したりと努力を重ねていたが、結局認可をうけることはできなかった。
実際問題として、田舎暮らしをして農業をやりたいのであれば、比較的容易に農地を貸してくれる人は見つかるだろうから、趣味でやる程度の農業であれば農地を借りて、自分が食べるだけの米や野菜を作ればいい。
玉村さんが言っていたけど、農業は思っている以上にはるかに重労働なのだから、あわてて農地を買い込むこともない。
蛇足だが、農業委員会の斡旋で農地を農地として売買する場合には、売主は800万円の税金控除が受けられる。
この800万円控除は、あくまでも農業委員会の斡旋によるものでなければならず、不動産業者が仲介すると控除は受けられない。
だから、農地を農地として取引することについて詳しい不動産業者は少ない。
だけど、私は詳しいよという、ちょっと自己自慢をしてみた今日のブログなのだ。
あなたが、家族と本当に近しい人だけで故人を送る「家族葬」を希望するのだったら、「延岡葬祭会館」をお勧めする。
家族だけでの家族葬
●白木高級祭壇(写真花、盛物付) | 105,000円 |
●平寝棺(布団、仏衣、位牌、骨壷セット付) | 52,500円 |
●ドライアイス(10kg) | 8,400円 |
●会館使用料(通夜宿泊、精進明け会場料) | 52,500円 |
●寝台車(病院より自宅、会館まで) | 21,000円 |
●火葬場使用料(市内在住者) | 15,000円 |
●遺影写真(白黒額入、リボン付) | 21,000円 |
●霊柩車(国産バン型) | 39,900円 |
合計 | 315,300円 |
※価格表示は総額表示(税込価格)となっております。 |
私の知人がやっている会社だからお勧めするわけではない。
良心的だと思うから勧めする。
大きな葬祭会社ではなく、延岡市だけでやっている葬祭場だ。
私の知人である社長と奥さん、長男、次男、そして長女の家族全員と、社員数名で経営している。
私も、父と母の葬儀をお願いした。
大きな葬儀社と違って、宣伝広告の派手さはないが、儲け主義にはしらず親身に葬儀のお手伝いをしてくれる、いい葬儀社だと思う。
なぜ、ここをブログで紹介しようと思ったのかというと、私は先日、ある葬儀社に家族葬を依頼する場に遭遇した。
テレビや新聞で、「家族葬」を積極的にとりおこなっているような広告をしている葬儀社だった。
しかし、遺族の思っていた「家族葬」とはまったく違うものだった。
カタログを取り出し、通常通りの段取りで葬儀の打合せを進めていく。
「祭壇はいくらのものにしますか?」「お通夜や葬儀に参列された方へのお礼状は何人分用意しますか?」「お棺は?骨壺は?」と、カタログを取り出し通常の葬儀の打合せとなんら変わりはない。
相談役としてその場に居合わせた私は、思わず「家族葬と通常の葬儀とは何が違うのか?」と口をはさんでしまった。
担当者の答えは、「結局同じことです」というものだった。
結局100人分のお礼状と会葬お礼の品を用意し、費用は100万円近いものになった。
「家族だけで見送る小さな家族葬」のキャッフレーズはどこにいったのだろう。
カタログを出されて、まず祭壇をどうするかという質問に、遺族がとまどっているのがわかる。
遺族は、「家族葬」の表示例の価格がセット料金になっていると思っていた。
相談者として同席してた私は、「一番安いのでいいのではないか」と助言した。
しかし、人の心理として一番安いものは選べないようで、下から2番目か3番目のものにした。
曰く「このくらいのものにはしてあげたい」
その言葉で、私は以後の一切の助言はやめた。
遺族の心情を尊重すべきだと思ったからだ。
結局、葬儀費用は100万円程度になった。
私には、当初遺族が考えていた「家族葬」とは少し違ったものになったように思えた。
それで、今日紹介する延岡葬祭に「家族葬」について尋ねてみることになったというわけだ。
その答えは、「延岡葬祭」では、家族だけを中心とした「家族葬」を希望するのであれば、お通夜と葬儀で315,000円でできるというものだった。
お通夜に使う会場には、寝具も用意しているし、お風呂も使える。
これにはお通夜の時の飲食代は含まれていないから、そんな費用をプラスしても30万円代で収まると言う。
私は、知人の経営者を信じているが、思いもかけない家族の死に直面してどうしていいかわからない遺族は、つい葬儀社のペースで想定以上の費用になってしまうことがあるかもしれない。
そんなときは、相談してもらえれば、本当に希望する予算で収まるよう私の方から進言することもいとわない。
私のブログを見たと言えば、さらになにかをおまけしてくれるはずです。
私が、大のファンだった貴乃花の部屋から、初の関取が誕生した。
私が子どもの頃は、お相撲さんは野球選手と並ぶ一番のヒーローのだった。
栃錦と若乃花が競い合う栃若時代で、私は土俵の鬼と呼ばれていた初代の若乃花の大ファンだった。
年の離れた弟が初代の貴乃花で、小さな身体で大きな力士を相手に大関を張る貴乃花を応援していた。
この貴乃花、水泳のバタフライでオリンピック候補選手にまでなったのだが、水泳では飯は食えないといって相撲界に入った。
本名の「花田」として国内外の水泳大会でその名をはせていた。
当時、当地(宮崎県の北端の街、延岡市)の私と同じ中学校出身の高田選手とオリンピック出場を競っていたのだが、地元の高田選手を応援すべきか、大好きだった若乃花の弟の花田選手を応援するか、悩んだものである。
そして、その花田選手の子どもが貴乃花親方。
若貴時代で史上最高の相撲人気を築いたのはまだ記憶に新しい。
私は、若の花、貴乃花ともに応援したのだが、どちらかと言えば貴乃花の方が好きであった。
貴乃花は大横綱となった。
その功績から1代年寄りを認められて貴乃花部屋を興して8年。
現役時代の人気をそのままに、人気のある親方としてマスコミに登場する機会は多かった。
古い伝統に縛られている相撲界に新しい協会運営を提案したり、親方と弟子とのありかたも新しいものを取り入れたりして、話題にことこくことはなかったが一人の関取も育ってていなかった。
貴乃花ファンとしては、「名横綱すなわち名親方ならず」かと少々寂しい思いをしていた。
待望の関取誕生のニュースは嬉しくてたまらない。
のだが、やっとのことで関取 貴ノ岩が誕生した。
週刊誌等であらぬ噂をたてられた貴乃花部屋だが、「師匠の弟子であることを誇りに思っています」という弁を聞いて、噂は噂でしかないことを確信した。
貴乃花親方の、「十両で満足していてはいけない。さらに上を目指して、今まで以上に厳しい稽古をしなくてはいけない」という言葉通り、親方に負けないような力士を目指して精進してもらいたい。
また、やってしまった。
中学生の正義感。
先ほど、不動産の組合で流通委員会の会議があった。
その業事業計画の中で、補助金を利用しての事業計画の話が合った。
補助金を受けるためには、とりあえず事業計画案を提出しないといけないということで、仮の事業計画案を作っていた。
そこで意見を求められての私の意見。
「補助金目当てで事業をつくりだすのはおかしい。」
やりたいことがあって、それをやるのに補助金が使えるから使うというのならいい。
しかし、「補助金があるからそれをつかわないと損だという考え方には反対」
と主張した。
すると、「使えるものは使わないと損じゃん」と来た。
これで、プッツン。
「国会議員や官僚の無駄遣いはいかんというが、自分たちのたちには金を配ってくれ。自分のためにつかう金ならいくら使ってもいいという選挙民ばかりだから、政治家は選挙民のためにばらまく。それが1,000兆円という借金を作ってきたんじゃないか」という自論を叫びまくってしまった。
ここ数十年、高度成長経済の中で、いくら借金しても返せるという理屈で「ばらまき」を続けてきた。
経済が拡大し続けて膨れ上がって閉塞状態に陥った現在、どの国も背負った借金をどうするかで四苦八苦している。
ここから抜け出すためには、使わなくて済むものは辛抱するしかないと総論的には全員がそう思っている。
しかし、各論となると、自分たちにはこれが必要で、そのためには国の予算をつかってくれとなる。
痛みを分かち合おうという政治屋さんたちは、自分たちが傷むことは避け国民にばかり痛みを押しつける。
それに群がっている選挙民は、自分たちのためには予算を勝ち取って来いといっているのだから、国民にも政治屋さんたちを責める権利はない。
ギリシャやフランスの選挙結果が、それを如実に物語っている。
国がつぶれかかって、借金を他の国に肩代わりしてもらってなんとか命を救われたギリシャ国民は、緊縮政策の痛みに耐えることを拒否し、財政拡大を要求している。
フランスもまた同様だ。
これが人間の本質。人間救いがたし。
と、ついつい興奮が尾を引いたままのブログになった。
新入スタッフさんに、こんな話をぼやいてみたら、「正しいと思うけど、言い方が良くないですね。優しく話をしないと相手が受け入れないですよ」と言われてしまった。
その通り!
わかっちゃいるけどやめられない。
新しいスタッフが入って1ヶ月余り。
小柄で華奢でかわいい女性なのだが、なかなか芯がしっかりしているようだ。
にこにこしながら、結構手厳しいことを言う。
本人は意識していないのかもしれないが、見かけによらず気の小さい私のガラスのハートに細かな振動を感じることがある。
かわいらしい顔で、にこにこして言ってくるので、不愉快には感じない。
むしろ、しっかりしなくてはと気合が入る。
ということで、10数年来温めっぱなしで腐りかけていた企画の実現にとりかかりつつある。
想定外の採用効果。
老け込みかけていた私だったが、もうすこし頑張ってみようかと思っている。
まずいのは、この新スタッフ、入社前から私のブログの読者であること。
このつぶやきも当然に彼女の目につく。
それを承知で書いているのだが・・・この場を借りて今後ともよろしくお願いします(〃▽〃)
自立式電波塔としては世界一の高さとなる東京スカイツリーが、今日開業した。
ワイドショーニューは、昨日の金環日食に引き続き、今日はスカイツリー一色。
7月10日まで完全予約制となっている展望台は、満杯状態だ。
7月半ばからは夏休みシーズン。
なにせ、スカイツリー側は初年度の400万人の入場者を見込んでいるという。
あの一つの建物に一日10万人以上の入場者がおしかけるというのだ。
10万人といったら、当地(宮崎県の北端の街、延岡市)の人口といっしょくらいだ。(延岡市の人口は13万人だが)
延岡市最大のお祭り「お大師祭り」の人出の数倍の人が、スカイツリーに入ってしまうのだと思うと、その混雑ぶりはいかばかりか。
すっかり、田舎暮らしが身についたおじさんには、その人込みは耐えられないような気もする。
スカイツリー側は、併設する商業施設「東京ソラマチ」と合せての、開業1年間の来場目標を3,200万人としている。
あの狭いエリアに東京ディズニーリゾートと同等の集客を目指している。
3,200万人となると、その数は田舎者おじさんには想像できない。
スカイツリーには入場者を定着するためにいろいろな仕掛けをしているという。
その仕掛けで一番感心したのは、雨天時に眺望が想像できる仕掛けだ。
スカイツリーの展望台は、最大70m先まで見渡せる眺望が最大の売りだが、雨天時などには景色が雲に隠れる。
そこで集客対策に、第1展望台(350m)に、高さ6m、幅10mの大型スクリーンを設置、ツリー周辺を空から見下ろす映像など3種を流す、という仕掛けだ。(以上、日経新聞12.05.22)
高さゆえの欠点をカバーする仕掛けには感心するしかない。
田舎者おじさんではあるが、ミーハー(死語かな?)おじさんでもある、よだきんぼ(宮崎弁でなまけもの)おじさんとしては、上ってみたい東京スカイツリーである。
何百年かに一度の幸運にめぐり逢ったと思っていた金環日食だったが、残念奈良ら当地(宮崎県の北端の街、延岡市)では見られなかった。
天気予報通り、朝から雨。
それでもあきらめきれずに空を見上げていたが、やっぱり太陽は見えなかった。
当然のごとくテレビは金環日食一色。
テレビに映し出される、喜び、感動する人たちを、少々うらめしい気持ちで眺めていた。
残念に思っていたのは私だけではなかっただろう。
いろんな残念な人がいた。
宮崎県の都井岬は太陽の中心が通るということで、町をあげて期待していた。
金環日食をバックに結婚式を挙げたカップルもたくさんいたようだ。
それも、これも、自然のなすわざで致し方がない。
大相撲、最年長で優勝した旭天鵬関のニュースも消し飛んでしまっていた。
日本中が金環日食で埋めつくされた一日だった。
あすは東京スカイツリー一色になってしまうのだろう。
金環日食もスカイツリーも、私にとって大いに興味のある話題だが、それ以外にも気になるニュースがある。
衆目の視線からまぬがれて喜んでいる人たちもたくさんいるだろう。
さきほどの安倍さんの「パッション」発言の続き。
引き続き「そこまで言って委員会」を見ている。
皇室問題の討論のなかで、安倍さんが「タペストリー」という言葉を使って意見を述べた。
皇室、天皇について語るのに「タペストリー」は不似合いに感じた。
ちなみに、無知な私には安倍さんの説明は理解できなかった。
今、そこまで言って委員会を見ている。
そこに安倍晋三元総理が出演している。
この番組では安倍晋三さんは保守政治の代表者として一番評判が高い。
この番組に限らず、保守派の政治評論家は軒並み安倍さんを推す人が多い。
なぜ、これまでに安倍さんの評判が高いのか私にはわからないが、生粋の保守政治家である安倍さんが、「パッション」「パッション」と「パッション」という単語を連発している。
今の政治家には政治に対するパッションが無いというのだ。
パッションって単語は、英語が大の苦手の私にもわかる。
日本語で言えば「情熱」の意だ。
なぜ、安倍さんは「情熱」という言葉を使わないのだろう。
生粋の保守派、どちらかというと国粋主義者的な発言をする安倍さんが、「情熱」という立派な言葉を使わずに、「パッション」という言葉を選択して説明するのは理解できない。
インターネットの天気予報では、明後日は雨。
降水確率80%になっている。
一昨日までの天気予報では、曇り、降水確率40%だった。
昨日の夜の予報では曇り、降水確率20%になっていたので、なんとか見られると期待していたのに、降水確率80%では見えない可能性が高い。
梅雨前線の影響のようだから、大陸からの高気圧の勢力が強くなって前線を南に押し下げてくれれば晴れになる。
最近の天気予報は、次の日の予報ははずれることが少ないが、明後日のこととなると、はずれることも多い。
私が、晴れるように念力を送ることにする。
いっしょに、晴れの念力を祈ろう!
ギャラクシーノートを検索ワードとしてのブログのアクセスが毎日200件以上ある。
付属している操作の手引きには、ギャラクシーノートの詳しい操作方法は書いていない。
ネットでドコモのサポートページを見ても、私が知りたい便利な操作方法は書いていない。
Amazonにも、ギャラクシーノートに関する操作本は、まだ2冊しか出ていない。
ギャラクシーノートの最大の特徴は、5.3インチの大画面と、スタイラルペンで入力ができること。
テレビCMでは、このスタイラルペンで画像を切り抜いたり移動したりできているのだが、いろいろ試してみるがやり方がわからない。
それでネットで検索することになるのだが、詳しい使用方法を紹介しているサイトを見つけることができない。
私と同様に、ネットで操作方法を探しまくっている「ギャラクシーノート難民」が多数いて、その人たちの検索にひっかかった私のブログに来訪されているのだろう。
そんな方たちには私のブログは役に立たなくて、恐縮している。
、いとも簡単に画像編集ができるようなテレビCMを流しているのだから、ドコモにはでもう少し詳しい操作マニュアルを作ってもらいたい。
紙のマニュアルにすると膨大な量になるだろうから、せめてオンラインで見られる詳しいマニュアルを作っていただくことを熱望する。
今朝のワイドショー「朝ズバ!」と「とくダネ!」に東電のお客様係の方が引っ張りだされていた。
お客様係とはいうものの、お一人は常務取締役、もう一人の方も執行役員という偉くて責任のある方。
いつものごとくに、メディアが、「おぼれる犬」状態になった東電の役員さんをひきづりだして、みんなで石をぶつけているという姿だ。
大企業のトップの座に君臨しているだろう役員さんたちも、メディアの前には平身低頭するしかない。
お二人とも異様とも言える低姿勢な物言いだった。
そんな答弁の中で耳障りで仕方がないのが、「ございます」という言葉だ。
「やってございます」だとか、「いってございます」だとか「努力してございます」だとか、おっしゃられる。
耳障りなのは私だけなのだろうか。
そういえば、事故の状況についての記者会見をする広報担当の人も「ございます」という語尾を多用しておられた。
私の貧弱な語彙力のせいなのかもしれないが、私には、この「ございます」は違和感を感じて仕方がない。
私の辞書では、「おります」ということになるのだが・・・
最近、同業者から「住宅ローンが通りにくい」という嘆きを聞くことが多々ある。
よだきんぼ(宮崎弁でなまけもの)おじさんがやっている当社は、仕事の量が少ないせいかローンが通らないという経験も少ない(^-^;
不景気な当地(宮崎県の北端の街、延岡市)だけのことかと思っていたら、これは全国的な傾向でもあるようだ。
一昨日の日経新聞「エコノ探偵団」に住宅ローンのことが取り上げられていた。
その見出しが「住宅ローン借りづらくなった?」
「最近住宅ローンが借りずらくなっているそうだよ」というサラリーマンの会話から始まる記事だった。
その会話の真相を「エコノ探偵団」が調査するというものだ。
実際、このところ銀行が、「借り手の信用調査を従来より慎重にしている」ようだ。
従来の基準を満たしているのに審査に通らないということも出てきている。
この記事に登場するファイナルプランナーのところにも、住宅ローンの審査に通らず「なぜ断られたのか」と相談に来る人が増えている。
不動産業者は、やみくもに住宅ローンの申込みをさせているわけではない。
銀行の基準があって、お客様の年収に対する返済額の割合が基準を満たしている案件についてのみ申込みをしている。
銀行は、お客様の年収だけでなく現在の借り入れ状況や、その返済歴等の信用調査も行なう。
申込みに際して、「審査が通らない場合には、その理由は一切お答えできません」という了解をとられていて、審査内容はわからない。
日経の記事でわかったことが、本人の年収、勤続年数だけでなく勤務先の信用力もチェックされるということだ。
勤務先がしっかりしているお客様は借りやすいというわけだ。
一方、派遣社員のお客様などには厳しくなっているかもしれないという。
不動産業者としては、お客様に買う気になってもらうのに苦労して、やっと買う気になられたお客様のローンが通らないと泣きたくなる。
それに、人生で最大の買い物をする決心をしたのにローン審査が通らなかったお客様の心情を思うと、自分の仕事が駄目になったことよりもつらく感じることもある。
ちなみに、ローン審査項目の主だったものを重要事項から列記すると次のようになる。
1.完済時の年齢
2.買い入れ時の年齢
3.年収に対する返済負担率
4.勤続年数
5.年収の水準
6.担保評価
7.物件価格対する融資比率(頭金の割合)
8.担保評価に対する融資比率
9.他の債務状況や返済履歴
10.健康状態
来る5月21日、当地(宮崎県の北端の街、延岡市)でも金環日食が見られる。
ワイドショーネタとしては22日のスカイツリー開業の話題が先行しているようで、金環日食の話題は今一つだったが、このところ金環日食報道を目にすることが多くなってきた。
東京に本拠地のあるテレビ局的には、スカイツリーのほうが商業的にスカイツリーの方がうまみがあるので、スカイツリー報道に力が入るのだろう。
だけど、22日のスカイツリーも23日のスカイツリーも、1年後のスカイツリーも、スカイツリーだけど、金環日食は21日にしか見られない。
心配性の私は、直前に品切れになっているといけないので、1月に日食眼鏡を購入して、わくわくしてその日を待っている。
絶好の観測ポイントと言われている宮崎県最南端の都井岬では、計3軒の民宿と国民宿舎は1年前からの予約でいっぱいだそうだ。
都井岬のある串間市のリングの均衡率83%。きれいなリングになるが、都井岬はさらにど真ん中を通る。
これを見ると串間まで行きたくなるが、当地延岡での均衡率26%でもこんなにきれいな金環日食になる。
あとは、当日の天気を祈るだけ。
観測するときは、くれぐれも日食観測専用のメガネを使うこと。
サングラスやゴーグルでは目を痛めてしまう。
下敷きや、フィルムの切れ端、ススをつけたガラスなどもダメ。
光の遮断が不十分で、目に有害な波長の光を通すので、まぶしく感じなくても網膜を損傷してしまうことがある。
書店、コンビニ、ホームセンター、スーパー等で、いろいろな日食メガネが売られているので、早めに購入することをお勧めする。
1月26日のブログで書いた、ナカバヤシのスマレコペンのアンドロイド版アプリが4月27日から配布されていた。
iphone版は1月から配布されていて、アンドロイド版は4月末に配布予定になっていた。
切りぬきたい新聞記事なんかを、この「スマレコペン」というサインペンみたいな専用のペンで囲んで写真を撮ると、ペンで囲んだところだけが切り取られて写るというもの。
1月に新製品紹介記事を見たときは、アンドロイド版が出たらすぐに買おうとおもって楽しみにしていた。
しかし、3カ月という月日は長かった。
今は、あの時の気持ちの高まりはない。
あの時だったら何も考えずに買っていただろうけど、やっと発売になったことを知った今日は、あの時の高まりはない。
インターネットで使った人からの評価を見てみると、評価がバラバラだった。
アプリだけを試しにダウンロードしてみたものの、利用者からの評価が真っ二つに分かれている。
行きつけの文房具屋さんに「スマレコペン」の現物があれば試してみようと思って問い合わせてみたが、置いていない。
たかだか600円くらいのものなのだが、使いものにならない可能性が高いように思えて、しばらくは様子を見てみようと思った今日は5月11日金曜日。
維新の会・大阪市議団が市議会に提出予定だった家庭教育支援条例案についての報道のあり方が気になっている。
一昨日の朝のワイドショーで、ちょっとだけ取り上げられていて、私は大いに気になる問題だったが、その後まったく取り上げられていない。
維新の会大阪市議団が市議会に提出予定だった家庭教育支援条例案に次のような条文があった。
「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度の発達障害を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防、防止をはかる」というものだ。
乳幼児期に親の愛情が足りないと発達障害を起こすといっているのだ。
多くの保護者から非難が殺到して、市議団はすぐに法案を撤回した。
これについて、維新の会代表の橋下市長は「ボクが市民の側だったら、(条例案は)うるせー、このやろう。大きなお世話だという風に言うんじゃないか」と批判していたという。
私は一瞬、阿久根市の竹原元市長の障害者差別発言を思い出した。
改革市長として市民の多くの支持を集めた市長だったが、改革を断行するために手順を無視して独善的な政策を断行するようになった。
自分は正しい。だから何をしてもかまわない。
反対するものは切り捨てるという手法に変わっていった。
怖いのは、そのことに当の本人も気づいていないこと。
私は、橋下さんの政治手法に、竹原元阿久根市長に似た怖さを感じることがある。
橋下さんは頭がいい。
それに加えて、マスコミでタレントとしても活躍していて、世論の空気を読むのに長けている。
今回の維新の会市議団の家庭教育支援条例について、私は橋下さんの意向をくみ取った法案ではなかったのではないかと感じている。
世論が一斉に非難するのを見て、自分は一切関知していないという評論をしているのではないかと、少し疑ってしまうのだ。
そして、一番怖いことは、この問題について継続して非難するマスコミの声が無いことだ。
橋下さんの、若干過激とも思える行動を世論は支持をしている。
冷静に見てみると、その言動は建設的な政策というよりは、現政権に対する国民の怒りを煽るための意見という気がするのだが、マスコミはそれを改革の士のごとくに仕立て上げている。
フランスやスペインの選挙を見ても、混迷する現状の不満が現政権に否をつきつけている。
国民は国家の命運を考えることはせず、現状に対する不満をぶつけて欲求不満を解消しているのではないか。
そんな国民の心理を助長することと、現政権の失態を追求するのがマスコミの役目。
維新の会の法案撤回問題を大きく取り扱わないマスコミのありかたを見ていて、私は橋下さんの強引な政治運営に少し怖さを感じている今日このごろである。
昨日の大食いの結果報告。
今朝の体重77.3㎏。
想定通りの数字。
昨日みたいな大食いをしなければ、この体重で安定するはず。
断食記事は、これにてひとまず終了。
自己流断食をやりとげて2日目。
しばらくは食べすぎないようにしようと思っていたのに、なんと今日はカレーライス。
カレーライスは大好物で、いつもは1回に3合炊けば少し余る飯を、カレーのときは4合炊く。
私が一人で2合分のご飯を食べてしまうのだ。
それがわかっているのに、今日の晩御飯はカレーライス。
大盛り1杯でやめるぞと思って食卓を囲んだのだが、カレーのルーが足らなくてルーを追加しに流し場にたったついでに、ご飯もつぎ足す。
結局大盛り2杯分を食べるはめになった。
と思いきや、2杯目はルーをかけすぎて、ご飯が足りない分をまた追加。
結局、大盛りカレー2杯半を食す。
こうなると思い出した食欲が騒ぎだしてしまう。
家内がつまんでいた、葬儀の精進開けの料理にも手をつける。
テンプラ(エビ、白身の魚)と、煮物、そして五目ずしを感触。
火がついた食欲はおさまらない。
2個残っていたマドレーヌも食す。
それでもおさまらずにバナナを2本。
お腹は満腹を30%くらい超過してしまった。
明日の朝の体重はどうなっていることやら。
せめて77㎏台では止まってくれていると思うのだが。
面白くもない断食ネタだが、明日の体重までは記事にすることにしよう。
時間がないもので、
引き続き自己流断食の記。
3日間の断食を無事終了した。
予定は3日から5日までの3日間と決めて始めたので、昨日の朝から食事しても良いことになっていた。
だけど、さしたる空腹感は感じないし、体調も良かったので引き続き絶食をぞっこうしようかなと思った。
すると、どうしたことでしょう。
食べ物のいただきものの多いこと。
普通ならすぐに手を出すところなんだけど、断食の効果ですぐには手を出さなかった。
とはいえ、断食は終わったわけで、ちょっとだけ食べた。
和菓子2個。ビワ2個。マンゴープリン1個。
いつもだったら、和菓子5個、ビワ5個(全部)、マンゴープリン4個はかたいだろう。
夕方、親戚のお通夜の受付をしていて、受付が終わったら軽く食事をしようと思っていた。
ということで夜9時まで食物はとらなかった。
9時、会葬者が一段落。
控室に用意されていたオードブルを勧められる。
断食後の最初の食事としては少し重いかなと思いつつ、手を伸ばす。
結果、巻き寿司7個、レタス巻(宮崎料理で、巻き寿司の具にマヨネーズ和えのエビとレタスつかったもの)を4個、から揚げ3個、エビフライ3本、チキン南蛮3切れ、おにぎり1個。
断食明けには、ちょっと食べ過ぎの感。
今朝の体重76.2㎏。
増加体重は1㎏未満であった。
3日間の自己流断食が終わった。
初日の朝の体重79.3㎏。
今朝の体重75.4㎏。
3日間の断食で約4㎏落ちた。
ウエストサイズは8㎝も小さくなった。
体重とウエストサイズの数字が小さくなったのは、体脂肪が燃焼してやせたというわけではない。
常に食べ過ぎていて、体内に滞留していた食べ物のカスが身体から放出されたことによるものと私は理解している。
断食の効果としては、身体が楽になったように感じるし、顔が若干ではあるが小顔になってシャープになったように見える。
師匠や口の悪い友人に、顔が並外れてでかいと言われている私としては、少しでも小顔になった気がするだけでも断食のありがたい効果といえる。
今朝の寝起きはすこぶる快調で、心地よい空腹感しか感じない。
このままもう3、4日断食を続けられそうだ。
ただ、最初に決めた3日間が終わってしまった達成感の下には、夕食を食べずに過ごすことはできないだろう。
断食が成功した後、しばらくは腹八分から九分の食事を維持できる。
体重を維持するためだけだったら、腹十分まで食べても体重は増えない。
私の体重が増えるのは、満腹になってさらに食べ続けること。
好きなおかずがあったり、美味しい明太子やふりかけ、好物の漬け物があると、満腹を感じた後にさらにもう1杯ご飯をおかわりする。
スナック菓子やケーキにチョコレート、そして菓子パン類に目がないもので、腹十二分か腹13分まで食べた後に、別腹としてそれらをデザートとして食べる。
しかも2、3袋、まるごとなのだ。
今回の断食後は、そんな過度の飽食をつつしもうと思っている。
リバウンドに気をつけて、できたらであるが、ゆるりとダイエットを続けたいと思っている。(今は)
今夜、国内の原発50基がすべて止まる。
野田政権は再稼動を目指しているようだが、関係自治体の了承をとるのに手間取っていて、再稼動のメドはたっていないようだ。
私は原発は無くしていくべきだと思っているが、即座にやめろという意見ではない。
私だけでなく、大多数の人はこのまま全ての原発を廃止するのも、今までどおり原発を稼動させることも現実的ではなく、段階的に減らしていくべきだと考えていると思う。
再稼動を急ぐ政権に「否」をつきつけているのは、安全だと断定してきた原発が危険極まりないものだったとわかった今も、間違っていたことを認める発言をしない政府や関係機関のあり方だろう。
1年以上になるのに、原発事故の処理の行く先も明確に示すことのできない政府に「否」をつきつけているのだ。
原発は危険だから、より危険なものから徐々に廃止していく。
今回のような未曽有の災害が起こったときの対処方法について国民にきちんと説明する。
廃止にともなう代替エネルギーをどこに求めるのかを真剣に考えていることを示す。
こんな国民を安心させる言動はまったくなしに、なし崩しに再稼動を目指す姿勢に国民は「否」と言っているのだ。
その政府の姿勢を正すことなく、党利党略に奔走している国会に国民は「否」と声を上げているのだ。
と、誰でも思っていることを、ことさらに書き綴ることに虚しさと恥ずかしさを感じる今日は5月5日(日)こどもの日。
今回の断食は成功する予感があった。
やる!と心が決まっているのを感じていたからだ。
予感通り、2日間まったく食べていない。
1番の難関は初日。
心が決まっていないと、ここで失敗する。
朝、昼抜きは通常も食べないことが多いので苦もなく通過できる。
問題は初日の夕食
ここで、誘惑に負けていつも通り食べてしまって家族の非難をあびることになる。
若干の挫折感と屈辱感を味わうことになるが気にすることはない。
だれに迷惑をかけるわけでもない。
1日のプチ断食は年中行事化していて、それなりの効果はある。
日ごろ休めることの無い胃袋が、断食によって元気を取り戻すように感じる。
断食で一番つらいのは、この初日と2日目だ。
私がやっていて一番つらく感じるのは2日。
朝から晩まで、腹が減ったなーーと感じている。
1日に何度も「腹減った」とつぶやいている。
夜寝るときに、空腹で寝付きが悪くなることもある。
しかし、これが3日目になるとまったく体調が変わっているのを実感する。
朝目覚めても、猛烈な空腹感はない。
水分は十分とるようにしているので、コップ1杯の水を飲めば空腹感は収まる。
その後も、昨日と違って空腹感を忘れている時間帯が多くなる。
ということで、今日は朝から快調。
断食というと大仰に聞こえる。
絶食と言った方がいいのかもしれない。
断食を勧めている本によると、断食は断食に入る前に減食期間をとることと、断食後の復食が大事だと解説されている。
特に断食後の復食は重要で、断食期間と同じ日数をかけて徐々に食べる量を増やすようにしないと身体に悪いらしい。
私の場合、復食は通常のご飯をすぐに食べる。
ただ、いろんな本に断食後の復食については厳しく注意しているので、量を食べすぎないようにゆっくり噛んで時間をかけて食べるようにはしている。
その食事の美味しいこと。
特に米が美味い。
噛みしめると甘さが口にひろがる。
そのうまさに、胃の丈夫な私としては、そのまま2、3杯おかわりしたくなる。
断食の本によると少量のおかゆから始めることとなっているので、通常の10倍以上噛みしめてゆっくり味わって食べるようにしている。
なにせ、美味さは半端じゃなくて、美味さに感激しつつ、固形感を感じなくなるまでゆっくり噛みしめていると、茶碗8分目くらいの量でも十分満腹感を感じる。
これが断食の効果のひとつ。
食べ物のありがたさを身にしみて感じる。
明日、なにを食べようかと楽しみである。
自己流断食2日目。
一昨日の夕食が最後の食事だから、かれこれ36時間くらい物を食べていない。
そもそも、ここ数年、私は1日1食しか食べないということが多い。
夕食のみなのだ。
といっても、朝食と昼食を全然食べないわけではない。
朝は宅配の飲むヨーグルトを飲んでいる。
昼は全然食べないことが多いが、たまに牛乳を飲むこともある。
ブラックコーヒーを1日に2杯。
水は結構飲む。
そして、夕食は腹一杯食べる。
腹一杯食べた後にスナック菓子をさらに腹一杯食らう。
人は健康に悪いというが病気で寝込んだことはない。
人からは、「年をとって悪い影響が出るよ」とよく言われる。
私は1週間断食(本を参考にした自己流)を何度かしたことがある。
その経験で、断食がつらいのは2日まで。
3日目くらいから身体が軽くなり、気分も明るくなるのだ。
4日目には苦痛は余り感じなくなる。
断食をしてみて、飢餓で死ぬということはそんなに苦しいことではないと思っている。
指先を剃刀で切ったら痛い。
電動ノコで指を切り落としたら、それよりもっと痛い。
日本刀で腕からズバッと切り落とされたら、さらに痛いだろう。
しかし、断食による空腹は1日目も2日目もいっしょ。
1日目より2日目の方が空腹のつらさが大きくなるということは無いのだ。
1食抜いて、「腹が減ったーーー」というつらさが、2日目も3日目も、ずーーーっと続くだけだ。
本当に食べ物が無くて食べられないのであれば死の恐怖を感じて精神的に追い詰められるかもしれない。
しかし、豊かな現代の日本にいて食に困ることはない。
食べようと思ったらいつでも食べられる。
だから安心して断食ができるというわけだ。
私は、身体に悪いよと忠告してくれる人に、断食をしたことがあるのかと尋ねることにしている。
すると決まったように、「食べないと身体が持たない」「食べないと倒れてしまう」という答えが返ってくる。
「食べないと倒れる」というが、断食の経験が無い者が倒れるかどうかはわからないはずだ。
一度3日間くらいの断食をやってみるといい。
空腹は空想しているほどつらいものではない。
健康であれば、身体にも悪いものではない。
むしろ心身ともに改善される。
飽食の日本では、法律で成人前の行事として3日断食を義務付けるといいとさえ思っている。
こんな私の理論は、誰にも理解してもらえなかった。
しかし、今ベストセラーになっている南雲吉則さんの数々の著書に私の理論を後押ししてくれることが書いてある。
「50歳を超えても30代に見える生き方」
「20歳若く見えるために私が実践している100の習慣」
「実年齢より20歳若返る生活術」
等々、ここ数カ月で、やつぎばやに出版されているが、内容はほとんど同じ内容で、小食が身体に良いと言っている。
腹6分。丸ごと食べる食材を食べるのが良い(小魚、野菜、玄米)。ゴボウ茶。
なにせ「100」の習慣だから、いろいろ書かれているのだが、その中に1日1食なら好きなものを好きなだけ食べてもいいということが書かれている。
まったくの自己流の理論展開をしていた私にとっては心強い意見なのだ。
といったわけで、連休を利用してミニ断食を始めたという次第。
本当はこの4連休を断食期間にしようと思っていたのだが、一昨日は家族に宣言していなかったため、用意してある夕食の誘惑に負けてしまった。
昨日から断食に入って、今日は2日目。
年中行事的に断食を宣言して、挫折して家族から嘲笑を浴びることが度々なのだが、私としては1日でも断食すればそれなりの効果があると思っている。
今日断食のことを書いたのは、一番難しい1日目が無事終り、3日間の断食が成功しそうな予感がするからだ。
さてさて、明日まで断食を続けられるものか。
もし明日までの断食が成功したら、腹まわりが少し細くなって、でっかい顔が少し小顔になるかもしれない。
楽しみにしていたい。
食べようと思えばいつでも食べられる環境にあるのだから、楽しんで断食をすれば良い。
普通に健康な人には、是非断食を経験することを強くお勧めする。
財政難の最中、整備新幹線の見着工区間の工事が着工されるようだ。
地元の強い要請を受けて政治は動く。
利益誘導型選挙は健在だ。
九州新幹線開通により、博多駅の商業施設は賑わっているし、沿線の地価上昇もあっている。
今回着工が決まった北海道新幹線が完成すると、現在9時間かかっている東京札幌間が5時間に短縮され、完投からの利用客が4.2倍増えるという。
九州新幹線長崎ルートは、観光産業への波及効果だけで年間130億円に及ぶと予測している。
しかし、予測は華やかだが実際の効果はふたを開けてみないとわからない。
今までの整備新幹線の歴史では、駅周辺に新設されたデパートが破綻したり、他方では駅前開発が行なわれず駅前に整備された施設は駐車場だけというものもあった。
在来線を利用する地元の衰退も問題となる。
新幹線の総工事費は数兆円という膨大な金額になる。
1000兆円になりなんとする借金を抱えた日本に、見合う支出なのだろうか。
疲弊を続ける地方都市にとって、起死回生を願う事業なのだろうが、確実に言えるのは特需を受ける建設関連業種だけは潤うということだ。
総論的には税金の無駄遣いをやめろと叫ぶ国民が、自分のためには際限なく税金をつぎこんでくれと言う。
政治家は国の将来を考えることなく、次の選挙の票のために税金をばらまく。
そんなことの繰り返しが今の日本を作ってきた。
それに懲りずに同じことをくり返し続けている、自分たちを反省するべきときだろう。
暦では4連休。
そして今日は憲法記念日。
右翼団体の街宣車の大きな音で憲法記念日を知らされた。
あの威嚇するような大音響はいただけないが、憲法記念日に憲法論を論じる彼らは、憲法を無視して党利党略のみに没頭している政治屋さんたちよりはるかにすばらしいなあと思った、今日は憲法記念日。
昨年、最高裁から衆議院は表の格差問題で違憲状態にあると指摘されているのに、改めることなく放置している。
憲法違反を改めようとしない国会議員に憲法を語る資格があるのだろうか。
憲法違反を犯している国会議員を選択し続けてきた国民の責任も認識すべきだろう。
関越道ツアーバス事故のニュースと並んで、ワイドショーで大きな話題になっているのが塩谷瞬という俳優の二股交際疑惑報道だ。
二人の女性に同時期に結婚の約束をしたというもの。
本人が疑惑を認めてしまったようだから、疑惑ではなくて二重婚約問題というべきだろう。
二股の相手がスーパーモデルの冨永愛さんと料理研究家の園山真希絵さんという有名人であったこと。
冨永さんの結婚については数日前に、中くらいのニュースとして取り上げられたいた。
そして冨永愛さんと園山真希絵さんは友達同士だったというのだから、ワイドショーが大喜びのネタである。
またしても、寄ってたかって塩谷瞬さんをいたぶっている。
いたぶられてもしょうがないことをした塩谷瞬さんは、不徳を嘆けば良い。
しかし二股をかけられたお二人の女性にとって、マスコミのお祭騒ぎ的な報道はいい迷惑だろう。
塩谷瞬さんを断罪するマスコミを非難する気はないが、冨永さんや園山さんのことを思うのだったら静かにしてやればいいのだ。
今朝のワイドショー「とくダネ」で、小倉さんが「冨永さんや園山さんが(衆知にさらされて)かわいそうだ」なんて言っていたけど、本当に「かわいそう」だと思うんだったら報道しないことだ。
私が一番嫌いなのは善人ぶった悪人だ。
自分の手を汚さず人を陥れる奴らが一番の悪だ。
誰から見ても悪人として、悪人を生きている人のほうが人間として上等だと思う。
私は二股報道をやっていると、チャンネルを変えることにしている。
視聴率がとれるから取り上げるのだろうけど、小沢さんや官僚たちにくっつきまわって取材すれば、もっと視聴率がとれる番組ができるはずだ。
強者には立ち向かわないのもマスコミの特徴なのか。
29日、関越自動車道で大きな事故が起きてしまった。
事故以来全てのマスコミがにトップニュースとして取り上げられている。
死者7人重軽傷者38人という大きな事故で、バスが高速道路の防音壁に真っ二つに食い込んだ映像が格好のワイドショーネタになっている。
激安のツアーバスだったことで、乗務員の過激な労働条件が原因かもしれないと誰しも思うところだが、ワイドショーはそれをことさらに劇場仕立てにして取り上げ続けている。
いつものことながらマスコミの常識はずれの取材が目に余る。
子どもや、奥さんやご主人を無くした遺族を追いかけまわしマイクを突きつける。
またしても「お子さんを亡くされたご心境は?」とインタビューしている。
子どもや伴侶を亡くした悲しみもわからないほど心を無くしてしまっていることに気がつかないのだ。
劣悪な労働条件で運営するバス会社や旅行会社を糾弾している。
これも毎度のことで、よってたかって溺れる犬を叩きまわしている。
事故を起こしたバス会社や旅行会社は責められるべくして責められている。
私が許せないのは、こんなときのマスコミの態度の方だ。
正義面して、悪人に仕立て上げたバス会社や旅行会社を責めたてているが、悲嘆にくれている遺族の心に手を突っ込む自分の姿に気がつかないのか。
カメラから逃れるようにシートで目隠しして自宅に戻ってきた遺体にライトをあびせる。
あわただしく葬儀の準備をしている家の中にテレビカメラの焦点を合せる。
被災者の方々を思うのであれば、こんなことはできないだろう。
人の不幸は蜜の味的な報道は、私は見たくはない。
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