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2013年11月22日 (金)

尊厳死の宣言書(再)

 昨日、深夜12時半過ぎ、突然電話が鳴り響いた。

 こんな時間になんだろう。

 不安がよぎる。

 電話は、義兄が救急車で運ばれたというのだ。

 電話は、義兄の妻からだった。

 「体調が悪いと言って、病院に連れて行ったんだけど、急に具合が悪くなって救急車で県立延岡病院に運ばれた」と言う。

 動転しているのだろう、言っていることがよく分からない。

 とにかく、急遽県立病院に駆けつけた。

 義兄は、緊急の処置室のベッドの上だった。

 全身に管が取り付けられている。

 医師の説明によると、肺が活動していなくて、身体に酸素が回らない状況だと言う。

 器械で酸素を供給しているとのこと。

 危機的状況で、命を救うためには人口心肺をとりつけるしかない。しかし、回復の見込みは薄いというのだ。

 助かったとしても、脳に障害が残る可能性が高いとも言う。

 そして、事態は急を要するので、人口心肺をつけるかどうかすぐに決断して欲しいと言うのだ。

 当事者である義姉は、答えあぐねている。

 ひごろ義兄は、「延命治療はいらない」と言っていたらしい。

 延命。苦痛。植物人間。多大な治療費。

 どうしよう。

 即答はできない。

 義姉は、「あんなふうに聞かれたら、延命をお願いしますとしか言えない。だけど苦しませるだけの延命治療はしたくない。」と、助けを求めてくる。

 決断することの責任の重さに耐えきれないのだ。

 私はここ数年の間に、同じ経験を2度している。

 身内の生死を決定する責任は思い。

 私自身は、10数年前から「尊厳死の宣言書」を常に携帯している。

 そしてそのことを、ことあるごとに私の家族や友人知人に告げている。

 しかし、それは私の死についての遺言であって、親がどういう最期を迎えたいのかは聞いていない。

 そして、人目。

 「生かさなくていい」という言葉を発することのためらい。

 私は、残る者にできる最期の小さな思いやりとして「尊厳死の宣言書」を携えている。

 そのことは、2010年9月14日のブログに書いた。

 今日、その日のブログを読み返したが、考えはまったく変わっていない。

 「尊厳死の宣言書」は、この日のブログに詳しく書いてあるので、興味のあるかたはお読みいただきたい。

 多くの人に「尊厳死の宣言書」について考えていただきたいと思っている。

 幸い、義兄は一命はとりとめた。

 

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