尊厳死の宣言書(再)
昨日、深夜12時半過ぎ、突然電話が鳴り響いた。
こんな時間になんだろう。
不安がよぎる。
電話は、義兄が救急車で運ばれたというのだ。
電話は、義兄の妻からだった。
「体調が悪いと言って、病院に連れて行ったんだけど、急に具合が悪くなって救急車で県立延岡病院に運ばれた」と言う。
動転しているのだろう、言っていることがよく分からない。
とにかく、急遽県立病院に駆けつけた。
義兄は、緊急の処置室のベッドの上だった。
全身に管が取り付けられている。
医師の説明によると、肺が活動していなくて、身体に酸素が回らない状況だと言う。
器械で酸素を供給しているとのこと。
危機的状況で、命を救うためには人口心肺をとりつけるしかない。しかし、回復の見込みは薄いというのだ。
助かったとしても、脳に障害が残る可能性が高いとも言う。
そして、事態は急を要するので、人口心肺をつけるかどうかすぐに決断して欲しいと言うのだ。
当事者である義姉は、答えあぐねている。
ひごろ義兄は、「延命治療はいらない」と言っていたらしい。
延命。苦痛。植物人間。多大な治療費。
どうしよう。
即答はできない。
義姉は、「あんなふうに聞かれたら、延命をお願いしますとしか言えない。だけど苦しませるだけの延命治療はしたくない。」と、助けを求めてくる。
決断することの責任の重さに耐えきれないのだ。
私はここ数年の間に、同じ経験を2度している。
身内の生死を決定する責任は思い。
私自身は、10数年前から「尊厳死の宣言書」を常に携帯している。
そしてそのことを、ことあるごとに私の家族や友人知人に告げている。
しかし、それは私の死についての遺言であって、親がどういう最期を迎えたいのかは聞いていない。
そして、人目。
「生かさなくていい」という言葉を発することのためらい。
私は、残る者にできる最期の小さな思いやりとして「尊厳死の宣言書」を携えている。
そのことは、2010年9月14日のブログに書いた。
今日、その日のブログを読み返したが、考えはまったく変わっていない。
「尊厳死の宣言書」は、この日のブログに詳しく書いてあるので、興味のあるかたはお読みいただきたい。
多くの人に「尊厳死の宣言書」について考えていただきたいと思っている。
幸い、義兄は一命はとりとめた。
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