放射能をまったく怖くないという人がいるということを知らされて、驚いた。
「 私は怖くないです。
あなたが放射線を怖いという根拠を示して下さい。
あなたの発言は感情的なように見えます。
自分の考えを示されているのですから、きちんと答えていただきたいです。」
私のブログに対して、上記のとおりのコメントが入った。
2月10日の私のブログの記事に対してのコメントだ。
2月10日の私のブログは、丸川玉代環境相の放射能発言問題についての私の感想だった。
あの日は仕事が忙しくて、ゆっくりブログを書く時間がなくて、ちゃちゃっと書いた記事だった。
ちゃちゃっと書いたから、ごく短い記事になっている。
ごく短い記事からもう1度ここに転載する。
丸川珠代環境相は7日、松本市内で講演し、東京電力福島第1原発事故を受けて国が原発周辺などで行っている除染で、基準となる年間被ばく量を1ミリシーベルトとしている点についてのは根拠がないという発言が問題になっている。
私は、その講演の中で、「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる」と言っている言葉の方の方に興味がわいた。
「反放射能派というと変ですが」と、自分でも変だなと思いつつも、放射能のことで細かいことをがたがた言うなよと言いたかったのだなということがわかる。
それで、丸川氏が創った言葉が「反放射能派」
放射能を気にする人たちを「反放射能派」と呼ぶのなら、その反対の人たちは「親放射能派」とでも言うのだろうか。
それとも「好放射能派」というべきか、「容放射能派」と呼ぶべきや?
でも、世の中に放射能を気にしない人っているのかなー。
1ミリシーベルトだか、ベクレルだかわからないけど、「どれだけ下げても」怖がるのが普通だろう?
「1ミリシーベルトの放射能なんて怖くない」と平気な人が日本中に何人いるのかな。
以上が2月10日の私のブログだ。
筆者として内容を解説させてもらうと、この記事のポイントは「反放射能派」という丸川さんの造語だ。
「反放射能派」という、聞き慣れない言葉がひっかかって、放射能に反対する人たちを「反放射能派」というのなら、放射能を推進する人たちは「親放射能派」とでもいうのかな?と思ったわけで、いわば言葉遊びなのだ。
私のブログは、 自分の思いつきを、思うままに書きなぐっているチンケなもので、1日の来訪者は100人程度もの。
世の中に何の影響力も無いのだが、時の権力を批判するようなことを書くと即座にそれを避難するコメントが入る。
私は、私の意見に人を従わせようと思っているわけではなく、自分はこう思うということを思うままに書いているだけのことで、私の意見を認めない人が私を避難するのはとがめはしない。
気分は悪いが、削除はしないでそのまま残して放置している。
今日は、ブログを書くネタがなかったから、私を避難するコメントをネタにさせてもらうことにした。
いつものことであるが、私に避難のコメントを入れる人は、文章の読解力に欠ける人ばかりだ。
今日のコメントが実にいい例だ。
いきなり、「私は放射能は怖くありません」ときた。
それは結構なこと。
無防備で福島の原発事故処理現場にに行かれてはどうか。
「あなたが放射能を怖いという根拠を教えてください」とのことだが、私のまわりに放射能は全然怖くないという人がいないだけのことで、放射能は怖いものなのですよと喧伝しているわけではない。
「あなたの発言は感情的」ということだが、私はまったく感情的に怒ってもいないし悲しんでもいない。
このコメントさん(コメントをくれる人)は、いつも私の発言を感情的と指摘し、「きちんと答えてください」と結ぶのが常だ。
自分は名前も名乗らず、自分がどういう考えかを述べることなく、自分の意見と違うから、そのわけを述べよと意見してくる。
私は、自分の正体を明らかにしてブログを書いている。
匿名で好き勝手を書いているわけではない。
発した言葉から逃げることはできないのだ。
コメントさん。どこのどなたか知りませんが、あなたが自分の意見を述べているブログなり、ウェブページがあれば教えてください。
あなたのお考えを勉強させていただきます。
私は、こう見えて(どう見えているかはわからないが)読解力には少々自信があります。
私は自分の考えと違った意見でも、納得すれば、虚心坦懐、素直に賛同いたしますよ。
ここのところ仕事が忙しくて、ブログのネタに困っていたもので、あなたのコメントをネタ使わせていただきました。
今日はありがとうございました。
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