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2017年1月

2017年1月31日 (火)

芸もなくトランプ大統領

 芸もなく、またしてもトランプ米大統領の話しだけど、アメリカ国民は大きな過ちを犯してしまったようだ。

 トランプ大統領が「イスラム圏7カ国」の入国を一時禁止する大統領令を出した。

 それによって、米国内外では大混乱が起きている。

 28日は、入国禁止と“名指し”された当該国の旅行客が、米国への航空機搭乗を阻まれたり、米国に到着した際に空港で拘束される事態が発生。

 入国禁止の対象となった7カ国は、イラク、シリア、イラン、スーダン、リビア、ソマリア、イエメン。

 いずれもテロ支援国家に指定されていたり、内戦状態や政情不安が続いている国だ。

 入国禁止の理由は「イスラム圏」である。

 しかし不思議なのは、同じイスラム圏でありながら、サウジアラビア、トルコ、エジプト、アラブ首長国連邦は対象に含まれていない。

 サウジアラビアは、「9.11」事件のハイジャック実行犯の出身国。

 トルコは、イスラム国によるテロ事件が続発している国である。

 これらの国がなぜ対象国になっていないのか。

 その理由を知って、私は身の毛がよだつと同時に吐き気をもよおした。

 これら3国は、事業家トランプと密接な関係があるのだという。

 トルコは、イスタンブールに「トランプタワー」が経っている。

 サウジアラビアでは、大規模ホテル事業に参画している。

 アラブ首長国連邦では、ドバイに豪邸とゴルフコースを持っている。

 エジプトには、関連会社を複数所有している。

 自分がビジネス展開している国とは摩擦を起こしたくないということだろう。

 事業家であるトランプさんが大統領になるについては、利益相反が指摘されていた。

 次々と、常軌を逸したとも思える大統領令を発令しているが、今回のイスラム圏7カ国の入国禁止令においては、明らかに自分の事業との利益相反半が見て取れる。

 トランプさんの本性をものがたる大統領令だろう。

2017年1月30日 (月)

暴君トランプ

書きたい記事は他にもあるのだが、このところ、あれこれ雑事に追われていてゆっくりキーボードをたたくヒマがない。
 
  ということで、いやでも目につく、トランプ大統領の記事でお茶を濁すことにする。
 
  トランプ大統領が、「ニューヨーク・タイムズ紙を誰かが買収し、正しく経営するか、廃刊にすべきだ」とつぶやいている。
 
  自身に批判的なメディアへは徹底攻撃の手を休めない。

 タイムズ紙が、28日の社説でシリア難民受け入れ停止を柱とする大統領令を非難かたことに対する報復のつぶやきだ。

 トランプ大統領は28日にもも「タイムズ紙とワシントン・ポスト紙は最初から間違っているのに、方向を変えようとしない。」とツイートている。

 それでも、タイムズ紙は大統領批判を止めることは無い。

 権力者の批判をするのがマスコミのつとめ。

 日本のマスコミもつとめを果たし続けることをお願いしたい。

2017年1月29日 (日)

安倍トランプ会談

 2月10日に、安倍総理とトランプ大統領の首脳会談が開かれることになった。

 安倍総理は、トランプ大統領が日米関係について間違った理解をしているので、しっかり説明をして理解してもらうと言っている。

 しかし、トランプ大統領は自分の間違いを訂正するようなタマではない。

 自分がやろうと思ったことは、何がなんでも押し通すのみなのだ。

 いくら正解を教えても、「あっ、そうなの。でも俺は俺のやりたいようにやるよ。」と馬耳東風だろう。

 安倍総理も、日本国内においてはトランプさん状態なんだけど、安倍さんは職業政治屋だけど、トランプさんは兼業の政治屋だから、怖いもの無しで自由奔放にやりたいことをやっていくのだろう。

 混乱は収まるのだろうか。


 

 

2017年1月28日 (土)

身につまされる笑い話

 今日の朝日新聞、投稿笑い話欄「いわせてもらお」にこんな話しがあった。
 


 ある日、夫(63歳)が私の目をマジマジとのぞき込んでひと言「目が死んでるぞ」。

 私は「あなたを見てるから……」と答えた。

 

 (大阪市・結婚34年・60歳)

 



  こんなこと言われないようにしよーっと!

2017年1月27日 (金)

トランプ大統領は恐ろしい

 トランプ大統領旋風は、止むところを知らない。

 アルカイダやイスラム国の首領や、北朝鮮の金正恩氏より、ある意味怖い。

 トランプ大統領は、世界一の力を持つ国を我が物にしているのだから、どんな独裁者にも比較すべくもない恐ろしさだ。

2017年1月26日 (木)

悪徳不動産屋日記 トランプ大統領 大統領令に署名 メキシコ国境に壁 直ちに建設

  トランプ米大統領が、メキシコ国境に壁を建設する大統領令に署名した。
 
 大統領令はメキシコとの国境沿いに「物理的な壁を直ちに建設する」と明記ており、国境を警備する職員を追加で5000人雇うほか、不法移民の収容施設も整備する。
 そして、施策実現に必要な作業を始めるよう連邦政府に命じ、議会の承認が必要な建設費用の見積もりも指示した。
 メキシコとの国境は全長約3200キロメートルにもおよび、既に鉄製の柵などがある。
 国境すべてに壁を建てるとなると莫大な費用がかかる。
 トランプ大統領は、壁建設は数カ月後に始めるとしており、建設費用はメキシコが後で全額返済すると言っている。
 当然メキシコ政府は建設費用負担しないと言っているのだが、トランプさんは本気でメキシコに支払いを迫るつもりだろう。
 勝手に国境に壁を作って、建設費用の全額を相手国に求めるというのは、誰が見ても筋の通らない話しだ。
 日本の民法には、「土地の所有者は、隣地の所有者と共同の費用で、境界標を設けることができる」と規定されている(民法223条)
 さらに224条で、「境界標の設置及び保存の費用は、相隣者が等しい割合で負担する」とある。
 民法で、境界に塀をつくときは費用は折半でやりなさいとしているわけだ。
 しかし、現実問題は単純ではない。
 民法223条は、「境界標を設けることができる」と言っているのあるが、「境界表を設けなければならない」とは規定していない。
 だから、境界標を設けたい人が、相手方に一緒に境界表を設置してくれないかと相談して、双方の意見が合致しないと話しが進まない。
 なかには、境界の塀を作りたく無いという地主もいる。
 土地の境界にはブロックをつくことが多いが、「ブロックは嫌だ。フェンスにしてもらいたい」という人もいるし、生垣が良いと言う人もいる。
 境界をブロック塀にするにしても、塀を高くしたいと希望する人も入れば、塀を低くしたいという人もいる。
 費用を折半しなくてはけないから、相手の意見を無視して塀の建設費用が高額になりすぎても相手は支払ってくれない。
 私の経験ではこれまでに、境界の塀がない土地の売買の仲介に際して、隣接者に境界の塀の費用負担をお願いしたとき,「自分は塀が無くても気にならないから、お金がかかるなら塀を作りたくない」という人が何人かおられた。
 私が土地を仲介しているので、何度かおじゃまして、民法の規定も説明するのだが「鐘がないから塀はつかなくてもいい」の一点張り。
 一所懸命に説得しようとして、悪徳不動産屋あつかいをされたこともある。
 塀を尽きたいお客さんからも、これまた悪徳不動産屋扱い。
 20~30万円の工事代でも簡単ではないのに、数千億円になるだろう工事を独断でやって、工事代全額を相手に払わせるなんてことが可能なのだろうか。
 戦争に突入なんてことにならなければよいが。
 トランプさんは不動産王と呼ばれているようだが、頭に「悪徳」はつかないのだろうか。
 力が図抜けて強ければ、どんなことをやっても許されるというのも世の常。
 私が悪徳不動産屋と言われるのは力がないからなのだろうなあ。

2017年1月25日 (水)

薪ストーブで山の保全 自然環境改善も

 木を燃料にする薪ストーブや暖炉の設置が増えているそうだ。

 日本暖炉ストーブ協会によると、会員企業の暖炉と薪ストーブの年間の販売台数は1万台前後。

 約4500台だった1995年の倍以上になっている。

 今の季節だと、本屋さんに薪ストーブや暖炉のある家が表紙をかざっている住宅雑誌が目につく。

 暖炉のある家に憧れる人が少なくないようだ。

 私も薪ストーブに憧がれている一人で、事情が許せば、薪ストーブを置きたいものだと思っている。

 薪ストーブは、火を燃やすので多少スペースを要する。

 そして煙を家の外に輩出するための煙突を設置しなければならない。

 配置によっては煙突の長さは数メートルになる。

 石油ストーブに比べると、ストーブ本体の価格も高いが煙突の設置にも高額な費用がかかる。

 私も、薪ストーブに憧れてはいるのだが、予算も大きな問題ではあるし、小さな家だもので薪ストーブを置くスペースも無い。

 薪ストーブを置く床や近くの壁は、タイルなど燃えない素材にする必要もある。

 また、煙突を設置しなくてはならず、そのために壁に50センチ四方くらいの穴を開けなくてはならない。

 なんだかんだで薪ストーブを設置するには、最低でも50万円~60万円かかってしまいそうだ。

 それに、煙突からでる煙の問題も考えなくてはならない。

 今は、気の粉を固めたペレット状の燃料もあるから、木を燃やすときのような煙は余り問題にならないかもしれない。

 もうひとつ私が心配していたのは、薪ストーブの燃料にするために木を伐採することによって自然を壊すのではないということと、木を燃やすことで発生する二酸化炭素による温暖化に手をかすことになるのではないかということだった。

 しかし、確かに薪を燃やすと二酸化炭素(CO2)が出るが、それは樹木が成長する時に光合成で大気中から取り込んだもので、もともとあった分が大気中に戻ると見なされるのだという。

 石油や石炭の化石燃料の燃焼がCO2を増やす原因と見られているのとは違っていのだそうで、間伐材を薪として利用する薪ストーブは環境にも優しいと逆に注目されているのだ。

 また、広葉樹は炭や薪の原料として人が利用することが手入れとなり、新しい木が芽生えて循環しするのだとも言う。

 私は、この理論がなんだか屁理屈のように感じていたが、間伐材を利用して薪の販売を始めた会社の社長の話をきいて腑に落ちた。

 50年前から切らずにいた山林を、手入れのために定期的に間伐するようになったら、地面に光が差し込むようになり、虫やワシ、ウサギ、ネズミなどの生き物が明らかにふえたのだそうだ。

 こうして森林が循環するようになり、生物多様性に配慮するなど適切な管理をしている森に認められる国際的な森林認証(FSC認証)まで取得したのだという。

 納得できて、すとんと気持ちは落ち着いた、。

 とはいえ、世界中が薪ストーブになったらまた話しも違ってくるだろう。

 薪ストーブが、ちょっと手が届かない憧れであってこその環境に優しい暖房手段であるのだろう。

2017年1月24日 (火)

スマホ写真に写った被害者の瞳に容疑者の顔

 容疑者から押収したスマートフォンに保存されていた被害者の写真の瞳の中に、容疑者の顔が写っていて、それが重要な聖子となった事件があった。

 鑑識課に現場の捜査員から、「目に人の影のようなものがある。調べてほしい」との依頼があった。

 こんな瞳からわかるのかなと半信半疑であったが、瞳の部分を拡大すると確かに人の影のようなものがあった。

 しかし、人の影よりも背景の方が明るく、容疑者の顔が半は遺址内。

 画素右辺週ソフトを駆使して補正を繰り返していくと、次第に顔の輪郭や髪形がわかるようになり、スマートフォンを構えている容疑者の姿が浮かび上がった。

 これが重要な証拠となり犯人逮捕との決め手になったのだという。

 凄いデジタル技術だなあと感心するニュースだが、容疑者が被害者をスマホで撮影していたのはどういう局面なんだろう。

 それが、どうして重要な証拠になったのかの説明が無いもので、ふと、考えると頭が混乱してしまう。

 それに、凄いなーと感激をしているばかりではいけない。

 ブログやツイッターで気軽に写真をアップしていると、自分の瞳に、秘密の場所や秘密の相手が写り込んでいるかもしれない。

 すねに傷を持つ人は、くれぐれもご用心。

2017年1月23日 (月)

下衆なマスコミがトランプ大統領を誕生させた。

 今日のニュース。

 一番気になるのはトランプさんの動向。

 トランプさんがどう動こうと、田舎町のちっぽけな不動産屋には直接大きな影響は無いのだが、なんとも不穏な空気を感じて不安になる。

 時分ごと気があれこれ言う資格もないし、不安を抱えながら注目するしかない。

 そして稀勢の里。昨日、ブログを切らさないためだけに、ちょっちょっと書いたが、嬉しいニュースだ。

 大関31場所目、30歳でやっと手にした横綱の座。

 何度も横綱になるチャンスを掴み損ねているのを見てきているし、土俵の上での表情をなんとも頼りなく感じていた。

 マスコミの対応を見ていると地味だが、それは芸能と相撲の接近を嫌う相撲一筋の姿勢の表われ。

 報道陣のインタビューに答えて、「自分はまだまだ伸びシロがある」と自ら公言していた。

 遅咲きながら横綱になって力を増していく横綱になるかもしれないと思えてきた。

 
 こんなニュースと同格に、お笑いタレントの狩野 英孝の淫行疑惑のニュース。

 朝のワイドショーでは、トランプさんや稀勢の里関優勝のニュースを差し置いてトップに取り上げている番組があった。

 こんなマスコミがトランプ大統領を誕生させたのだ。

2017年1月22日 (日)

稀勢の里 念願の優勝

 稀勢の里が、念願の賜杯を手にした。

 今場所の優勝で横綱に推挙されることになっているが、日本出身力士が横綱になるのは若乃花以来19年ぶりなのだそうだ。

 今日、すでに何度もこのニュースを耳にしたが、いずこも「日本出身力士」と報じているのに微妙な違和感を感じた。

 日本人力士とすると、帰化した元外国人が含まれてしまうからだと気がつくのに、しばらくの時間を要した。

 そういうことなんだなー。

 

2017年1月21日 (土)

トランプ大統領 どうなるのだろう

 今日未明、尿意で目が覚めた。

 テレビを見ながら眠ってしまっていたようで、テレビがついたままになっていた。

 テレビでは、トランプさんの就任演説をやっていた。

 私は、トランプさんが生理的に嫌いだと書いた。

 おしつけがましい口調が嫌だし、その言葉を発するトランプさんのあの口もとが嫌だ。

 トランプさんは超大金持ちの経営者で、閣僚もトランプさんに負けない超大金持ちの方々だ。

 金儲けのコツは、安く仕入れ、安い労働力を使って、高く売ること。

 超大金持ちになると、世のため人のためみたいな綺麗ごとを言う。

 貧乏人をうまく使って金儲けをしているのだけど、あからさまにそんなことを言うと貧乏人から反発を受ける。

 日本の昔の言葉で、「貧乏人は生かさず殺さず」と言う言葉があったが、それは今も生きている。

 民主主義といわれる世の中になって、そんなことは表立っては言わないけど、お金持ちは腹の中ではそう思っている。

 そんな経済的強者が政治を手中にしたら、政治を同使うかは自明の理。

 民主主義だから、あからさまにそれを行うと権力者の立場から引き下ろされる。

 巧妙に、自分たちに都合のいい政治を行う。

 耳障りのいい、歯切れのいい言葉で、庶民のための政治を行うかのように振る舞う。

 庶民は、自分たちを利用し搾取しようとしている権力者を、自分たちの救世主かのように熱狂する。

 共通するのは、言葉が上手なだけではなく、みんな顔がやさしい。

 そんな動きが、アメリカだけではなく世界中にひろがっているように感じる。

 日本でも同じこと。

 小泉さん、安倍さんに同じ恐怖を感じる。

 金持ち減税、貧乏人増税の流れが続いている。

 世界が不穏な空気だが、戦場(武器を使った殺し合いの戦争だけではなく、製材戦争でも)で前線に立たされるのは一般市民。

 トランプさんは、自分を批判する者に物を言わせない。

 安倍さん、橋下さんも、それに似ている。

 まだ、物が言える世の中であるから、言いたいことを言っている私。

 

 

 

 

2017年1月20日 (金)

トランプさんの大統領就任式。集まる観衆の数は?

  トランプさんの大統領就任まであと1日。
 
 トランプさんは、就任を前に、就任式には史上最大の観衆が集まると自信満々の演説をしていた。

 一方、多くのメディアの予想は、トランプさんは不人気で観衆は史上最少クラス。

 それに反して、警備には史上最大の人員を配置するとしている。

 オバマサンの就任時には180万人の観衆が集まったという。

 マスコミはの予測するトランプさんの就任式に集まる観衆の数は60~90万人。

 マスコミによる世論調査によると、トランプさんの支持率は各社とも50%台。

 世論調査の支持率の低さについてトランプ氏は、インチキ報道だと断言している。

 選挙戦での世論調査で、クリントン候補の当選を予測したことをインチキの証だと声を荒らげていた。

 私は、トランプさんの就任式の観衆の数に注目したい。

 トランプさんのあの自信は、意味のない虚勢ではないのかもしれない。

 ツイッターを駆使し、緻密な戦略で選挙戦を勝ち取ったように、自分を指示する観衆がマスコミの予測に反して、多数いるという確信を得ているのかもしれない。

 もし就任式に、マスコミの予測を超える多数の観衆が集まったときは、トランプさんは単なる思いつきで行動を起こしているのではないことが証明されることになる。

 テレビが登場したとき、ケネディさんやレーガンさんがテレビの力を利用したように、トランプさんはネットの力を使って大統領になったのかもしれない。

 とにかく私は、トランプさんの就任式に集まる観衆の数は重要な意味を持つと思って注目している。

2017年1月19日 (木)

人間の食わず嫌い。私はトランプさんが好きでない。

 明日(日本時間では明後日未明)、トランプ大統領が誕生する。

 私は、直感で人を好きと嫌いに分けてしまう傾向がある。

 悪い癖なのだが、第一印象で嫌いだと思うと、話しもしたくない。

 いい年をした大人なのだから、嫌いだという感情は表に出さずにさりげなくつきあえばいいということはわかっているのだが、嫌だという気持ちがそのまま顔に出てしまう。

 それで、嫌だと思う人とは接点を持たないようにしている。

 そんなふうに、嫌いだと思っていた人と、ひょんなことで話しをしたり行動を伴にしてみると、その人が思いもかけないほどの良い人だったということも少なくない。

 要は、人間に対する食わず嫌いなのだということはわかっている。

 だけど、どう考えても、トランプさんは私にとってだめなタイプだ。

 親トランプさんは、親しくなってみると、よく面倒を見てくれる人かもしれない。

 しかし私、個人的なつきあいでエコヒイキされるような待遇を受けるのを由としない性格だ。

 だから、つきあったら得だとわかっている人でも、その人の考え方や生き方が自分に合わないと思う人とはつきあえないのだ。

 心配しなくても、トランプさんとつきあいたいと思ってもつきあえないのだが、つきあえてもつきあいたくない。

 生理的に嫌いだという感覚だ。

 アメリカの大統領が誰になったって、私ごときの生活に何の影響もないのだろうが、なんだか世界がガヤガヤしそうで不安ではある。

 

2017年1月18日 (水)

小田原市 「保護なめんなよ」 のどこが悪い。

今朝のワイドショーで、小田原市の生活保護を担当する職員が、「保護なめんな」などとプリントしたジャンバーを勤務中に着用していたということが問題になっていた。
 
  テレビのチャンネルをまわしてみたが、各局とも大きく取り上げていた。
 
  私は、朝のテレビは、なにげなく音声を聞いていて、興味がある話しが出たら画面に目をやるという見かたをしている。
 
  今朝いつものごとくワイドショーを聞いていたら、生活保護課の職員が「保護なめんな」とか、「不正受給はくず」「かすだ」などとプリントされたジャンパーを着用して、受給者宅を訪問していたという音声が聞こえてきた。
 
  「そりゃーひどい話しだ」と思ってテレビに目をやった。
 
  画面にはジャンパーがアップになって映し出されていた。

  それがこれ。

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 「保護なめんな!」文字がどこにあるのか、おわかりになるだろうか。

 なんだかアメリカの警察官の警察手帳のバッジのようなエンブレムで、「悪」という文字が入っているから日本のものだとわかったが、「悪」の文字がなかったら、アメリカの警察手帳のバッジだと思ってしまいそうなものだった。

 どこに「保護なめんなよ」があるのかと思ったら、「HOGO NAMENNA」だった。

 バッジの上部に書かれているのがそれだ。

 私は英語は苦手だけど、一応大学受験で合格できた程度の英語力はある。

 大学卒業以来、英語とはまったく無縁で生きてきて、アルファベット表記のものはアレルギー的に嫌いだ。

 そんな私だから、すぐには理解できなかったかのかもしれない。

 しかし一般的に、このエンブレムを見て、「HOGO NAMENNA」が「保護なめんな」だとわかる人がどれほどいたのだろうか。

 「不正受給はくず」「かすだ」というのは、ジャンパーの背中に書かれているもの。

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 赤い文字の日本語はネットで切り取った画像に追加されていたもの。実際のジャンパーは黄色の英語表示のみ。

 英語での文章で、しかも文字も小さい。

 英文で、「私たちは正義。不正を見つけたら追及する。私たちをだまして不正によって利益を得ようとするなら、彼らはくずだ」と書いてあるらしい。

 この文字列を一瞬で日本語に翻訳できて、この文字から圧力を感じる人は、ごくごく少数ではないのだろうか。

 ちなみに、私には皆目意味がわからない。

 近年、ごく少数の意見であっても、大きな声を出す人の意見に流される傾向がある。

 ネットの普及で、その傾向に拍車がかかっている。

 ネットで話題になると、ここぞとばかりにテレビがそれを煽り立てる。

 小田原市長が、厳しい職務環境の中、業務にしっかり取り組もうとの強い思いから任意で作ったものだと聞いているが、理由はどうあれ配慮を欠いた不適切な表現で申し訳ない」とのコメントを出していた。

 しかし、マスコミを前に詫びる必要はない。

 コメントの前段を強く主張しておくだけでも良いくらいだ。

 後段の「理由はどうあれ配慮を書いた不適切な表現」とまで、へりくだらなくて良い。

 「厳しい職務環境の中、業務にしっかり取り組もうとの強い思いから任意で作ったものですのでご容赦ください。不快な思いをした人に対してはお詫び申し上げます。」とすれば良いと思う。

 そもそも小田原市役所で、このジャンパーを着るようになったのは、受給資格を失った男から職員が切りつけられたという事件がきっかけになってのこと。

 事件で弱気になる気持ちを奮い立たせるために作ったもの。

 しかも、職員が自腹を切って作ったものだ。

 過去に、高額の不正自給が問題になったときに、マスコミは不正受給者を問題視した番組構成で報道していた。

 その時マスコミは、不正受給を見逃している行政の責任を追及していたではないか。

 ワイドショーは正義で動いているわけではなくて、騒動が大きくなって視聴率のみを見て報道しているだけだ。

 そんなマスコミに頭を下げる必要はない。

 頭を下げるべきは不快な思いをした人に対してのみで良い。

 今回のことは、受給者が騒ぎだしたのではないはず。

 物好きな奴がジャンパーに書かれている英語の意味に気がついて、それを自慢げにひけらかしたものがネットで拡散した結果だろうと想像する。

 その真偽はどうあれ、私は、小田原市役所の皆さんを強く支援する。

2017年1月17日 (火)

迷惑メールに迷惑を被っている

 このところ、スマートフォンへの迷惑メールがひどい。

 メールの着信音設定をしているもので、ひっきりなしに着信音が鳴る。

 見ると、題名だけで開く気にもならない卑猥なメールがぞろりと並んでいる。

 こんなメールを開く人がいるのだろうか。

 こんな、いかにも迷惑メールとわかるような題名や内容のメールでも、数万、数十万もと送りつければ、何人かはひっかかるのだろうか。

 私は、ここ十年近く、迷惑メールの被害をうけることなく携帯生活を送ってきた。
 
 極力、会員登録はしない。

 無料でなにかもらえるサイトには近づかない。

 懸賞などに携帯からは応募しない。

 ネットを人より利用していると思うが、今まで迷惑メールになやまされることはなかった。

 その私が、今、1日30~40通の迷惑メールに迷惑している。

 あまりのひどさに、パソコンからのメールを受け取らないようにしたところ、迷惑メールの遮断には成功したが、ネットバンキングで送金する際のワンタイムパスワードが届かないので送金ができない。

 ドコモの「あんしんネットセュリティー」サービスに加入し、「迷惑メールおまかせブロック」の設定をしたが、屁の突っ張りにもならない。

 加入前となんの変わりも無い。

 このまま迷惑メールが届き続けるのだったら、「セキュリティー」は解約しようと。思っている。

 なぜ、急に迷惑メールが届きだしたのか、思い当たる節が一つある。

 正月の旅行に行ったとき、食べ物屋さんを予約しようとして、食べ物の評価サイトをうろちょろしていて、会員登録をした。

 そのあとから、迷惑メールが来るようになった。

 ネットの世界は、便利さと危険が、あざなえる縄のようにからみあっている。

 それを常に意識して、使うしかない。 

 パソコンの世界で、 最近猛威を振るっているのがパソコンのデータを勝手に使えなくして、元通りにする見返りに金銭を要求する「身代金型」。

 いま被害が急増しているウイルスが「ランサム(身代金)ウエア」。

 メールに添付されたファイルを開くなどで感染。

 金銭を払えばファイルを開けるのに必要な電子鍵を送るという手口だ。

 セキュリティー大手のトレンドマイクロによると同ウイルスを検知したパソコンは昨年7~9月で3万4200台。前年同期の24倍というから怖い。

 同ウイルスが増えているのは身代金を払ってしまう被害者が少なくないからだという。
 同社の調査では被害にあった企業の担当者の63%が「身代金を支払った」と回答している。

 なんと、このうち300万円以上の身代金を払ったとの回答が58%もあるという。

 「時間内に身代金を払わないとデータを削除する」と脅かされれば、企業としては300万円を払ってでもなんとかしたいというものだ。

 ただし、ほとんどの場合、メールの添付ファイルを開かなければ感染しないようだから、くれぐれも添付ファイルにはご注意を。

 中には、メールの中にサイトにアクセスするアドレスを忍び込ませているものもある。。
 だから私、ひごろから正体のわからないメールは見ずに削除するようにしている。

 それでも、今回は、携帯をいじっていて、どこかに隠されていたアドレスにアクセスしてしまったようだ。

 しくじってしまったなあ。

2017年1月16日 (月)

去年今年のお正月

 正月が、はるか彼方に見える。

 私は、年をとるごとに世間を狭していっているのか、年々、正月に「おめでとうございます」という挨拶を交わすことが少なくなったような気がする。

 今年は、特にその傾向が強い。

 5日が仕事始めで、7日からは3連休する会社もあった。

 3連休が明けたら、10日。

 10日からの4日間は、始めてあう人には「おめでとうございます」と挨拶を交わしたが、昔のように格別に改まった挨拶にはならない。

 そうこうしているうちに、もう16日。

 今日、今年始めてお会いするお客様と出会ったが、「おめでとうございます」という前に、「あっ。今年始めてだったですね」と前置きをつけてのご挨拶。

 年末の休みに入る28日ころから大晦日までが、一番気持ちが高ぶる。

 除夜の鐘から元日の朝を迎えるときがピーク。

 正月気分は、あとは、年末年始の休みが大型連休の一つになってしまいそうだ。

 いかんいかん。まだまだ新年の抱負を放り出すには早すぎる。

 

2017年1月15日 (日)

トランプさんの記者会見。デジャブ。橋下徹さんといっしょ。

 トランプ次期大統領の記者会見。不快でテレビのチャンネルを変えようと思ったけど、チャンネルを変えるのは逃避することになる。

 不快で気分が悪くなり、見るに耐えない。

  しかし、意見の違う相手の話を聞くのが民主主義。

  逃げてはいかんと、耐えてそのまま見続けた。

   自分を批判するものは、徹底して攻撃する。  気に入らない相手には質問させない。

 それでも食い下がってくる相手は無視する。

  そして、ツイッターで言いたい放題。

  これは、どこかで見た……  デジャブ。

  橋下徹さんの姿が重なる。

  橋下さんの手法と同じじゃないか?

  安倍総理はツイッターはしないが、マスコミの対応は、これと似ている。

  トランプさんの記者会見は、繰り返し繰り返しテレビで流してもアメリカの大統領から圧力はかからないから。

  強権な安部さんや橋下さんの報道を、直接管理下におかれているマスコミが遠慮している傾向はないか?

  権力者を批判するのがマスコミの仕事。

   批判をあびながら国の舵取りをするのが 権力者の仕事。

2017年1月14日 (土)

「座り過ぎ」は寿命縮める

近年、座り過ぎが健康に悪影響を及ぼすとの研究の結果が、国内外で次々に報告されている。

 座っている時間が長いと、糖尿病や心臓病などになるリスクが高くなるらしい。

 2012年にオーストラリアのグループが、1日に座っている時間が11時間以上の成人は、4時間未満の成人と比べて総死亡のリスクが1.4倍高いと発表した。

 15年にはカナダのグループが各国で実施された研究を統計的に統合し、心臓や血管の病気やがん、糖尿病などと、座り過ぎの習慣との間の関連が確認されたと結論づけている。
 喫煙が致死率を高め健康を損なうものの代名詞となっていたが、長時間座っていることは、喫煙に替わる新たなリスクのある習慣であるということになるそうだ。

。2012年10月に発行されたBritish Journal of Sports Medicineで公開された内容によると、タバコ1本を吸うことで喫煙者は寿命を11分短くしているのですが、1時間テレビを座って見ていることは、当人の寿命を22分縮めているというから怖い。

 やっかいなのは、週末にまとまった運動をすれば大丈夫と思いかもしれないが、それでは、座りすぎによるリスは下がらないということだ。

 16年にノルウェーなどのグループが健康リスクを減らすのに必要な運動量を検証したところによると、軽いジョギングやテニスの練習のような「中等度強度」の運動を1日60~75分やることによって、やっと座り過ぎによるリスクをほぼ相殺できるという。

 中程度強度の運動を、毎日60分から75分もの時間やるというのは、なかなかできるものではない。

 座り過ぎがなぜ体に悪いのかは、はっきりとは分かっていないが、下肢の筋肉を長時間使わないこととの関係が有力視されているそうだ。

 座っているときは筋収縮がほとんど起きないため、糖輸送体や酵素の働きが弱くなり、血液中の糖や中性脂肪の濃度が高まると考えられている。

 座り過ぎによって血管機能が低下する可能性も指摘されている。

 この研究成果をうけて、座り過ぎのリスクを減らすために、スタンディングデスクなる、立ったままで使うデスクを採用する企業もでてきているという。

 パソコンを立って操作するよう奨励する企業など、座り過ぎ解消に向けた動きが出てきているそうだ。

 早速ネットでスタンディングデスクを検索してみたら、あるわあるわ。

 1万円ちょっとの安いものから、電動で上下する数十万円するものまで、どれを選んだらいいか迷ってしまうほどだ。

 でも、パソコンでの単純作業ならたったままでも差し支えないだろうが、思案、考案といった企画や構想を立てる仕事は、立ったままではやれないようにも感じる。

 とはいえ、喫煙より体に悪いと言われてしまうと、スタンディングデスクを検討してみようかと思ってしまうなあ。

2017年1月13日 (金)

1月の神様。 日本では1月は睦月。

  日経新聞のコラム「プロムナード」に今月から連載になった、中野京子さん(ドイツ文学者)のコラムが面白い。
 
 実は、8日の私のブログ「幸運の女神は前髪しかない」というのは、中野京子さんのコラムを読んで感じたことを書いたもの。

 中野さんの今日のコラムの題名は、「1月の神様」。

 ヨーロッパの多くの国で「1月」の呼称は、古代ローマの男神ヤヌス(Janus)を語源としているという話しに始まる。

 「英語(January)ドイツ語(Januar)フランス語(Janvier)はもちろん、スペルの違いで別ものと思われがちなイタリア語(Gennaio)やスペイン語(Enero)なども」同じなのだそうだ。

 ヤヌスとは、本来は門や入り口を見守る神、ひいては物事の始まりを司(つかさど)る神とされるのだそうだ。

 こらむでは、このあと中野さんのヤヌスに関する話しが展開されていた。

 私が、一番面白いなと思ったのが、この話しの最後にあった、日本の1月の別称に及ぶ話だった。

 「日本の1月の別称は「睦月(むつき)。語源は、異説もあるが、睦(むつ)び月。

 普段は疎遠だった人とも新年を迎えて親しく睦み合う、というところからきているらしい。ということなのだそうだ。

 えーーー。そういうことだったのかと、感激。

 はずかしながら、始めて聞く話しだった。

 中野さん曰く「何とやさしい大和言葉。何とやさしい古(いにしえ)の日本人たち。

 中野さんの感性にも感心させられた。

 疎遠になって、年賀状だけのつきあいになっている旧友がいるが、毎年、一言声をかけ、一言声かけてもらうだけで、昔のままの付き合いが続いているような気がする。

 「疎遠な人とも新年を迎えて親しく睦み合う」そういうことなのだと、重ねて感心。

 中野さんの今日のコラムの最後をこう締めくくっていた。

 「年の瀬に除夜の鐘を聴いて煩悩を払い、すがすがしい気持ちでお正月を祝う。祖霊たる年神様を迎えるために門松、注連縄(しめなわ)、鏡餅は前年から用意しておく。高い山からこの時だけ下りて来る年神様は、今年の安寧を約束してくださる。

 それでもまだ足りないとばかり、七福神巡りや地元の神社へ参詣し、あれもこれもどうぞよろしくお願いしますと両手をあわせ……あれれ、煩悩を払ったのを忘れていた!」

 私なんぞは、今年は、元旦の未明に、まずは地元の神社に初詣。

 早朝の飛行機で宮崎を発ち、伊勢神宮に参拝。

 2日3日は京都のお寺や神社をはしごしてまわった。

 ただし、今年は、あれもこれもお願いするのは止めにした。

 今まで初詣では自分と家族の幸せだけをお祈りしていたのだがが、今年はご先祖様への感謝と世界平和を願い、そしてついでに自分と家族の健康だけをお願いしておいた。

 うーーん。やっぱりお願いしすぎかな。

2017年1月12日 (木)

賞味期限は気にしなくてもいい

  去年の暮れは、いつもの年と違って、事務所内の大掃除に時間をかけた。
 
  捨てきれずに貯まっていた書類やパンフレット、雑誌や本、紙袋や小道具の類、冷蔵庫の中身等々。
 
  見直してずいぶん捨てた。
 
  しかし、迷ったあげくに捨てきれなかったものとして、ヨーグルトがあった。
 
  350グラムくらいの中型のパックのもので、純粋なプレーンヨーグルトではなく、ちょっとだけ甘味のついたヨーグルトであった。
 
  賞味期限は11月8日。
 
  もう1カ月以上賞味期限を過ぎている。
 
  元来私は、賞味期限はあまり気にしない。
 
  そもそも賞味期限は、劣悪な保管状態を想定して、メーカーが余裕をもって設定しているはずだ。
 
  封を切らずに冷蔵庫にきちんと保管しておけば、そんなに傷むものではない。
 
  今の若い人たちは賞味期限が過ぎたものは捨ててしまっていて、物が腐るとどうなるのかを知らないのだろう。
 
  われわれ世代が子供の頃は、冷蔵庫なんてなかった。
 
  加工食品や真空パック、レトルト食品なんてのものは無くて、生鮮食品はその日に買ったものはその日の内に食べないと腐らせてしまう。
 
  朝配達された牛乳をほったらかしにしておくと、脂肪分が遊離して上に浮いて、一目で腐っているとわかるような状態になったものだ。
 
  やっかいなのは、その直前のとき。
 
  見た目は大丈夫そうだが、口に含むとちょっと酸っぱいという状態である。
 
  そんなときは、すぐにペット吐き出し水で口をすすいだ。
 
  酸っぱいの手前で、ちょっとヤバイかなと思いつつ、もったいないからと飲んでしまったものが傷んでいたら、猛烈な腹下しとなる。
 
  肉も魚も、見た目と匂いで傷んでいないかどうかを見分ける術をもっていた。
 
  冷蔵庫が登場して、肉や魚や牛乳といった生鮮食品が日持ちするようになった。
 
  保管することがあたりまえとなったころから、逆に賞味期限を気にするようになった。
 すべての食品に賞味期限の表記がなされるようになって、ヒトは、食べてもいい物か食べてはいけないものかという自らの能力を捨て去った。

 家内も子供も、消費期限や賞味期限を過ぎたものは一切口にしない。

 そんな中で、私は、食べ物の消費期限を自ら決定する能力をもち続けている。

 傷んでいるか傷んでいないかは、経験を積まないとわからない。

 腐っているかもしれないという状態の物を食べてこそ、食べてはいけないものと食べても良いものが見分けられるのだ。

 とういうわけで、年末に賞味期限を1カ月過ぎたヨーグルトを捨てそびれたというわけだ。

 そもそも、ヨーグルトとか納豆の賞味期限を私は気にしていない。

 ヨーグルトとか納豆のような発行食品は、乳酸菌や納豆菌で埋めつくされていて、他の雑菌が繁殖する余地がない。

 未開封状態であったら、ヨーグルトや納豆が腐るという状況を起こり得ないといえるのだ。

 私は、ヨーグルトや納豆は賞味期限を1カ月程度であれば、それを過ぎてもなんら問題ないと思っている。

 さらに、2カ月までは許容範囲。

 常に何らの気にせず食している。

 年末にヨーグルトを食べなかったのは、正月旅行が迫っていたから。

 万一、不測の事態で、旅行前に腹をこわして旅行に差し支えてはいけないと思って自重したというわけだ。

 正月の旅行がなければ、私は賞味期限を気にすることなくヨーグルトを食べていた。

 旅行から帰って来て、冷蔵庫のヨーグルトの存在を気にしたのは数日前のこと。

 賞味期限を2カ月経過している。

 2カ月ともなると、私といえどもちょっと抵抗がある。

 思い切って(私にとって、本当に思い切らないとできないことなのだが)捨てようかなと思ったのだが、やっぱり捨てるには抵抗がある。

 昨日、封を開けて匂いをかいだ。異臭は無い。

 私はここ1年で臭覚を9割方失くしてしまっているのだが、臭覚の衰えた私の鼻でも、ほのかにヨーグルト独特の旨そうな香りを感じた。

 おそるおそる、一口食べてみる。

 異常無し。

 というか、美味い。

 いつもなら、パックの半分の150グラムくらい食べて、残りはまた後で食べるのだが、用心のために開封後は保管しない方がいいと思って350グラム全部を一気にたいらげた。

 そして、今日、私のお腹はなんともない。

 かくして、未開封のヨーグルトが傷むことは無いという持論を裏付ける結果となった。
 そんな折、不思議な巡り合わせとでもいおうか、おりしも今朝の新聞の折り込みチラシに、私がいつも食べているヨーグルトが目玉商品として掲載されているではないか。

 なんと、いつもは168円のものが、100円。

 日頃は見ずに捨ててしまうチラシが目にとまったことも何かの縁。

 これは買いだめをせにゃならぬ。

 ヨーグルトを10個買ってきた。

 みなさん、賞味期限の印字に惑わされてはいけませんぞ。

 食品ロスを減らすことが人類存続のための、大きな一歩なのである。

2017年1月11日 (水)

ありがたや。シルバーサービス。

 一昨日、60歳以上のシルバー世代は、さまざまなシルバーサービスの恩恵にあずかっているということを書いた。

 そして、「高齢者と呼ばれることには違和感はあるが、高齢者と呼ばれることは素直に認めている。

 そして、ありがたく高齢者へのサービスを利用させてもらっている。」とも書いた。

 そういえば、今年の正月旅行で思わぬシルバーサービスを体験した。

 それは2日目の晩飯。焼肉屋さんのシルバーサービス。

 この店は、去年見つけて、今年はここに行くぞ思っていた店だ。

 去年の正月の旅行でのこと。何を食べようかと、京都で一番繁華街の河原町に繰り出した。

 食事の店を何件かのぞいたのだが、どこもいっぱいで入れない。

 どこか座れるところはないかと、繁華街をうろちょろして探し回ったのだが、行くところ行くところ空席がない。

 もうなんでも良いからと、範囲を拡げて店をまわっていたところ、ちょうど看板を出している焼肉屋さんがあった。

 焼肉屋だった。

 今、開店するところのようであるが、ぞろぞろとお客さんが入っていく。

 人気のある店のようで、焼肉でもいいかと思って、看板を立てている女の人に「入れますか?」と声をかけると、「予約でいっぱいです」と断られた。

 
 開店したばかりなのに、本当に満席なのかなと思って店をのぞいのだが、お客さんがいっぱいで、しかも感じがいい。

 看板のメニューを見ると手頃な値段の店のようだった。

 店の名前をひかえてきていたので、今年、その店を予約することにした。

 予約するのにスマホで店を調べたら、食べ放題がウリの店であった。

 私は大食漢と言われるが、寄る年波で昔ほどは食べられなくなったと感じている。

 最近は、量より質かななどと思っている。

 しかしインターネットで見る限り、食い放題でもそこそこのものを食べさせるようだった。

 それに、去年の座れる店がなくて閉口した。

 それで、その店にしたわけだが、結果的に私は満足。

 食い放題だが、2,000円 2,500円、3,300円の3つのコースがある。

 コースによって肉の種類が違うようだ。

 3,300円のコースだと、特上カルビや特上ロース、上タン、極旨ロースなど、「上」とか「特上」の冠がついたメニューがたのめることになっている。

 ということで、3,300円のコースにした。

 結果的には、私の低級な舌は満足。

 昔のようには食べられないが、回りの人を見ていると、みんな私より小食だ。

 食べ放題の店だから若いお客さんが多いのだが、今の若者はこんなに小食なのかと驚く。

 これでは、注文しにくいなーなどと思っていたら、私の席の前のお客さんが、じゃんじゃん注文している。

 歳の頃は40歳くらい。

 実に見事に豪快に食している。

 この人のおかげで、私も心置きなく注文した。

 ただし若いころと違って、「食べなきゃ損」というつもりはなかった。

 制限時間90分というのもあったが、制限時間いっぱい居る気もなかった。

 食べたいものを食べたいだけ食べればいいかなと思って注文をくりかえした。

 家内は小食だから、私がいくら食べたって店に迷惑はかけない。

 この店のルールがあって、1回の注文では3品までを人数分しか頼めない。

 私は家内と2人だから、1回での注文は3品の計6人前ということになる。

 そもそも、焼肉屋さんの1人前とはなにが根拠になっているのだろうか。

 とにかく、店のルールに従い5~6回は注文しただろう。

 ということは、30人前か35人前。

 ひょっとしたら、それ以上注文したかもしれない。

 私は酒を飲まないし早食いなので、食事の時間はいたって短い。

 40分経過するころ、もういいかなと思って最後の注文をした、上カルビ2人前、上ロース2人前、それと名前を忘れたがコッテリしたカルビのような肉も2人前。計6人前。
 そして、家内にこれで終わりにするけど、他になにか頼みたいものはないかと聞いてみた。

 すると家内は、なんと「私はもう食べないよ」と言うではないか。

 私はひたすら食べまくっていたが、家内はビールを飲みながら、肉をつまむという感じだったので、ビールのつまみにまだ少しは食べるだろうと思っていたのだ。

 「あんたも食べると思って、最後に6人前頼んでしまったよ。少しは食べられるだろう?」と聞くと「もう、一口も食べられない」と言う。

 そこにドーンと、最後の注文の6人前の肉が出てきた。

 これを私ひとりでは食べられそうにない。私ひとり分出あれば、こんなに注文しなかった。

 それで、「少しは食べられるだろう?」と再度家内に聞いてみたが、「食べられない!」との返事。

 私は、この一口も食べられないというのがわからない。

 私なんぞは、満腹になって苦しくても無理すれば食べられる。

 お腹がいっぱいでも、好きなものが目の前に出ると無理しても食べる。

 これが太る体質の人間の特徴。

 やせ型で小食な人間は、お腹がいっぱいになったと脳が察知すると、途端に物が喉を通過しなくなるようだ。

 とはいえ、食べ放題の店で食べ残すのはマナー違反。

 さすがの私も無理だと思ったものの、6人前の肉を全部たいらげることができた。

 6人前とも脂の多い肉だったので、口の中も体の中も脂っぽくて、さっぱりしたいもので口を洗おうと思い、デザートにアイスクリームを食した。

 それを見ている家内は、長い付き合いながらあきれた顔をしていた。

 私が食べ終わるのを待っている間メニューをながめていた家内が、嬉しそうにメニューを指さした。

 なにかと見ると、シルバー割引。男性60歳以上1,000円引き。女性55歳以上500円引きとある。
 
 シルバー世代は食べる量が少ないということでの割引なのだろう。

 しかし私は、あきらかに回りの若者より食べている。

 それに私は、3,300円分、充分に満足している。

 どの面下げて割引してくれ、なんて言えるはずがない。

 「割引は、前もって年齢を申告するんじゃないか?俺の3,300円は充分安いよ。はずかしくて割引してくれなんて言えないよ」

 そう言う私に、家内は、「割引するってなっているんだから、割引してもらわないと損だよ」と平然としたもの。

 「あなたが恥ずかしいなら、私が会計するよ」と、私から財布を取り上げ、レジに向かった。

 私は、いたたまれず先に店を出た。

 外で待っていると、すぐに家内は出てきた。

 「はい。おつり。私のおかげで1,500円やすくなったよ。」と満面の笑み。

 そうなってみると、それは私も嬉しい。

 こんな元気なシルバー年代が多いのだから、高齢者の規定が75歳からというのもむべなるかな、である。

 シルバー世代の定義が変わってしまうまでは、せいぜい団塊のシルバー世代をねらった商戦としてのシルバーサービスを、ありがたく利用させてもらおうとおもっている。

2017年1月10日 (火)

悪徳不動産屋日記 看板倒れ

7日のブログに書かせていただいたお客様に、昨日、コメントをいただいていた。
 
  7日に、延岡市に移住を希望されている方の住まいを案内させていただいた。
 
  求めに応じて案内したのだが、延岡市にゆかりのない方がどうして延岡市に移住したいのか、私には意味がわからなかった。
 
  4時間近くいっしょに物件を見て回わる中で、率直にそのわけを聞いてみたのだが、私にはお客様の気持ちが理解できなかった。
 
  私は、さすがにこの年になってあきらめたが、ずっと都会暮らしにあこがれていた。
 
  映画も、演劇も、コンサートも、ファッションも、グルメも、すべてが都会に集中している。
 
  欲すれば、都会で手に入らないものはない。
 
  自然だって、東京からは日本中どこにでもアクセスしている。
 
  自然と触れ合いたければ、希望する自然を求めてどこにでも行ける。

 ふるさとは遠きにありて思うもの。
 
  田舎も、遠きにあって、たまに訪れるから自然の良さを楽しめる。

 自然は不便と背中合わせでくっついているから、毎日自然の中にいると不便を感じる。
 
  そんな考えだから、私には田舎暮らししたいという人の気持ちがわからない。
 
  しかし、お客様にいただいたコメントを読んで、地方での生活を希望されている方々の気持ちが少しわかるような気がした。
 
  それで、 悪徳不動産の看板を掲げる身としては、なんとも面はゆいのであるが、お客様からのコメントをそのまま掲載させていただきました。
 
 
 
先日案内して頂いた者です。悪徳??どころか、大変親身になってアドバイスして頂き、妻・娘ともども感謝しています。ありがとうございました!

  地方への移住・定住に関しては、地方自治体から東京・大阪など大都市圏の居住者へ向けて発信している向きが強いですが、都市部の居住者の関心は高まってきていると思います(若い世代も含めて)。

イケダハヤト氏のようなブロガーが、大都市よりも地方の生活のほうが断然豊かであるとして、煽っているのも後押ししています。(イケダ氏のサイト「まだ東京で消耗してるの?」では、田舎暮らしのメリットを大々的に挙げて、デメリットはないと断言しています)
私も、子供の教育、家族や自分の健康や安全を第一に考えました。

今後、大都市での生活者にとって、地方への移住はさらにメジャーな選択肢の一つとして検討されていくと思います。

その時に、延岡のことを知っていれば、とても魅力的な選択肢に映るのは間違いないと思います。少しの滞在経験ですが、豊かな自然、都市部の利便性、美味しいのに安い料理や食材、何よりも親切であたたかい人に出会うことができました。

そんなわけで、不安もある中で移住を決断することができたのは、赤池さんのおかげでもあります。これからもよろしくお願いします。
長文失礼いたしました。

 私は早速、このコメントの中に登場する、イケダハヤト氏のサイト「まだ東京で消耗しているの」を覗いてみた。

 ちらっとしか見ただけだが、私はイケダ氏の影響を受けそうにもないが、地方で暮らすことを希望する人たちの動機はわかった(ような気がする)。

 このお客さんはコメントで、「今後、大都市での生活者にとって、地方への移住はさらにメジャーな選択肢の一つとして検討されていくと思います」と断言しておられたが、実際当地(宮崎県の北端の街・延岡市)にも結構都会から住まいを移している方がおられることも教えてもらった。

 驚いたことに、私の仕事に関係する水道会社の社長が移住者であることを、東京から来たこのお客様に知らされた。

 そういえばこの社長、言葉が延岡なまりではなかった。

 この社長は、趣味のロッククライミング(岩登り)で何度か当地(宮崎県の北端の街・延岡市)に来て、延岡が好きになって、当地に住居を移し、そしてこちらで起業したのだそうだ。

 私たちの知らないところで、大都市での生活者の地方への移住がメジャーな動きになっているのだそうだ。

 そんな中で一番嬉しかったコメントが、「その流れの中で、延岡のことを知っていれば、とても魅力的な選択しに映るのは間違いないと思います」という言葉。

 灯台もと暗し。近くにいるとわからないことも多いのですね。

 よそから来た人に教えてもらった延岡のいいところを見つめて、延岡に骨をうずめることにしよう。

2017年1月 9日 (月)

「高齢者は75歳以上」 日本老年学界と日本老年医学界が提言

 高齢者の定義を75歳以上にすべきだと、日本老年学会と日本老年医学界が提言している。

 現在、65歳以上を高齢者と定義しているが、65~74歳は「心身とも元気な人が多く、高齢者とするのは時代に合わない」として、75歳以上を高齢者とし、65~74歳は新たに「准高齢者」と位置づけた。

 医師や心理学者、社会学者らでつくる両学会のワーキンググループが日本人の心身の健康に関する複数の調査結果をもとに2013年から検討してきたそうだ。

 65歳以上では脳卒中などで治療を受ける割合が以前より低下する一方、身体能力をみる指標の歩行速度などが上がる傾向にあり、生物学的にみた年齢は10~20年前に比べて5~10歳は若返っていると判断した、というのである。

 知的機能の面でも、70代の検査の平均得点は、10年前の60代に相当するという報告があり、根拠の一つとされている。

 また、60歳以上を対象に「高齢者とは何歳以上か」を聞いた内閣府の意識調査(14年)では、「75歳以上」との答えが28%で、15年前より13ポイント上がったのに対して、「65歳以上」は6%で、12ポイント下がった。

 こうしたことから、提言では高齢者は75歳以上とし、65~74歳は「高齢者の準備期」と位置づけた。この世代を「社会を支える人たち」と捉え直し、より多くの人が参加する活力ある超高齢社会につなげる狙いがある。また、平均寿命の伸びなどを考慮して、90歳以上は「超高齢者」としている。

 私も高齢者に仲間入りしている年代だが、日頃、高齢者という言葉は自分とは無関係な言葉だと感じて暮らしている。

 テレビで、高齢者が引き起こした自動車事故のニュースが報じられていたり、その他さまざまな高齢者問題を取り上げられているのを見ても自分とは無関係のことだと感じていた。

 経営者の方とのつきあいが多いからか、70歳くらいでも現役で働いている。

 そんな方々を見ていると、75歳以上を高齢者とすることは、しごくもっともなことだと感じる。

 かくいう私は精神的に未発達なところがあって、私の自己分析では軽い発達性障害とも感じていて、30歳台40歳台の人を相手にしても年上としての対応ができない。

 年長者としての威厳もないし、若い人に手本となるようなものも持ち合わせていない。

 彼らと同世代的な感覚で接してしまうし、なんとも大人げない会話しかできない、高齢者という意識のかけらも持ち合わせていない。

 そんな私とは違う、私のまわりの立派な高齢者の方々の多くも、高齢者としての意識はなく、50歳代くらいの感覚で生きているのではないかと思う。

 だから高齢者の定義を75歳とすることには意義はない。

 しかしちょっと気になるのは、日本老年学会と日本老年医学界という権威ありそうな機関が、わざわざ高齢者の定義を記者会見までして発表することに他の意味はないのかということだ。

 記者会見でも、年金の支給開始年齢など社会保障制度をめぐる今後の議論に影響を与える可能性について質問が出ている。

 それに対して、グループ座長の大内尉義(やすよし)・虎の門病院長は「高齢者の定義を変えることで、社会福祉などがネガティブな方向に動いてほしくはない」と強調した。

 「あくまで医学・医療の立場からの提案で、国民がこれをどう利用するかは別の問題」とも話していたそうだが、年金支給年齢引き上げのための地ならしではないかと、誰もが感じるところだろう。

 理屈では、年金制度を維持するためには支給年齢を引き上げることはやむを得ないこととは思う。

 しかし、受給の権利を得ている世代の者は、既得権として手に入れた受給条件は変えてもらいたくない。

 私も、年金受給の権利を手にしている世代。

 60歳からはシルバー世代と呼ばれ、年金だけではなく、さまざまなシルバー割引の恩恵にこうむっている。

 映画はいつでも1,100円。(ちょっと前までは1,000円だった)

 JRにも割引制度がある。(今年3月で廃止になったが、往復で200㎞以上になると4割引の割引制度があった)

 ツタヤは、毎週金曜日、60歳以上の人はDVD1本無料。

 ファミリーレストラン ジョイフルは、60歳以上は、時間に関係なくモーニングメニューが利用できる。

 以上は、私が日常的に利用させてもらっているシルバーサービスだが、これに限らず、さまざまなシルバーサービスが
60歳以上の者を手厚くもてなしてくれている。

 私は、高齢者と呼ばれることには違和感はあるが、高齢者と呼ばれることは素直に認めている。

 そして、ありがたく高齢者へのサービスを利用させてもらっている。

 年金も掛けてきた額よりはるかに多く受け取れるし、高齢者階級の一員として高齢者の特権をフルに活用させてもらっている。

 しかし、このままでは社会保障制度が立ち行かなくなるのは必至。

 続く世代のために制度見直しがあったとしても、私はそれを甘んじて受け入れる覚悟はある。

 それにつけても、高齢者天国を満喫するためには健康であることが必須条件。

 まずはなにより、健康であることを心がけることにしよう。

2017年1月 8日 (日)

幸運の女神は前髪しかない

 「幸運の女神には前髪しかない」ということわざがある。

 幸運の女神には前髪しかないので、通り過ぎた後にあわててつかもうとしても後ろ髪がなくてつかめない。

 チャンスは一瞬しかないので、即座に対応しないとチャンスはつかめないということわざだ。

 このことわざは知っていたが、「幸運の女神には前髪がない」というのめは言葉だけだと思っていた。

 しかし、「幸運の女神」は、ローマ神話のフォルトゥナのことなのだそうだ。

 ちなみにフォルトゥナはラテン語で幸運。英語のフォーチュンの語原のようだ。

 フォルトゥナは、運命を操るための舵をそなえ、運命が定まらないことを象徴する不安定な球体にのり、幸運の逃げやすさを象徴する羽の生えた靴を履き、幸福が満ちることのないことを象徴するそこの抜けた壷を持っている。

 女神は球体をゴロゴロころがしながら猛スピードで猛スピードで近づいて来る。
 
 目隠し手をしているので不安定に蛇行する。

 前髪は長く、トサカのように立っている。幸運を得るには、この前髪をすばやくつかまなくてはならない。

 いざフォルトゥナを目の前にした時、手を伸ばすのを躊躇したらおしまい。

 あっという間に通り過ぎてしまう。背を向けられれば為す術はない。なにしろ後頭部はツルッパゲなのだ。

 幸運の女神自身どこへ向かっているかわからず動いているのだから、迎える側がふいを突かれるのは当然のこと。

 また女神は目隠ししているため善悪の区別もつかず、自分を捕まえたものなら誰彼かまわず幸運を与える。

 時に極悪非道の輩が妙にラッキーだったりするのは、そういう次第なのである。

 思えば、誰もが大小さまざまな幸運の女神に遭遇しているのではないだろか。

 しかし多くの人は、それに気がつかず、気がついたとしてもすぐに動かない。

 迷っている時間はない。瞬時にチャンスに乗っかることが肝心なのだ。

 思い起こせば私も、チャンスには恵まれている方だった。

 しかし、引っ込み思案と行動力のなさで多くのチャンスを見逃してきた。

 大きなチャンスだったと思う出来事も少なくない。

 もう残りの時間のほうが少なくなってしまったが、まだ何度か幸運の女神に出くわすことがあるのだろう。

 遅ればせながらではあるが、その時に幸運の女神の前髪をつかむ反射神経を研ぎ澄ませておくことにしよう。

 みなさんも、日頃から幸運の女神の前髪をつかむ技を鍛えておくといいですよ。

2017年1月 7日 (土)

悪徳不動産屋日記 延岡移住のお手伝い

  昨日ご案内したお客様から入居の申込みが入った。

 東京から当地(宮崎県の北端の街・延岡市)に移住される方だ。

 地方都市の多くが、都会からの移住を募っている。

 当地・延岡市でも移住・定住サイトを立ち上げていて、延岡市への移住・定住に向けて積極的な活動をしている。

 移住・定住サイトには、空き家バンク、住み替え住宅バンク、移住・子育て支援事業とさまざまなバックアップシステムを構築している。
 
 今日入居申し込みがあったのも、こういった市の移住を促進する活動によるもの。

 お客さんは、東京から延岡市に移住を希望しておられる。

 どうして延岡市にこられるのか。

 親戚とか友人とか、何かの縁があったのかとお尋ねしたのだが、いっさいそういった縁はないとのこと。

 田舎暮らしを希望されていて、いろんなところを見に行っている中で延岡を気に入っていただいたそうだ。

 衝動的に延岡移住を決めたのではなく、もう4、5回延岡に来ているそうだ。

  こんなポスターを目にしたことはないだろうか。

Photo
「延(えん)Joy のべおかぐらし」。延岡を楽しもうというキャッチフレーズのポスター。




Photo_3
  個人的には、最初にみたときはちょっと気持ちが悪かったが、「河童と人魚姫のポスター」
   



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これも、第一印象は「なんじゃこりゃ?」といった印象だった。
    
  こんなんで他所(よそ)から人が来んのかいなと思っていたが、カヤックやシュノーケリング等の自然体験ツアーは結構な人を集めているようだ。
 
  今日のお客さんが延岡に何度も来ていたのも、自然体験ツアーがきっかけのようであった。
 
  自然だけでなく、それをお迎えするボランティアの人々と触れ合いの中で延岡を好きになってもらったのだろう。
 
  今回の話しの中で、私の知り合いも、ボランティアの間では有名な人だったことを知った。
 
  自分の住む町の良さを、他所(よそ)から来た人に教えられることになった。
 
  なにげなく暮らしている延岡だが、延岡大好きな人たちもたくさんいて、その人たちが私たちを生かしてくれていることを再認識。
 
  私の師匠も、その代表。
 
  会社の看板に「延岡大好き」というキャッチコピーを入れていた。
 
  私も、しばし悪徳不動産屋の看板を降ろして、延岡移住のお手伝いをさせていただいた。

2017年1月 6日 (金)

悪徳不動産屋日記 延岡市へ移住協力

 年が改まり、今年は毎日欠かすことなくブログを書いてみようかと思っている。

 そう思っていて、途切れてしまうと途切れっぱなしになってしまう。

 実際、ここ数年ちょっと書き続けることに疲れていて、更新しない日が多くなっていた。

 更新しない日が続くと、私の社会人としての師・池田邦明君から「最近更新がないぞ」と鞭が入る。

 その鞭を刺激になんとか更新を続けてきたという局面もある。

 ともあれ、今年は毎日更新することを年頭の目標に掲げた。

 ということで、今日は書きたいネタが3つくらいあっただが、午後3時からずっと中古住宅と貸家の案内をしていた。

 お客さんは東京から延岡市への移住を考えておられる方。

 夏目漱石に「猿と人間が半々に住んでいる」と言われたほどの田舎町に、東京から移り住んでくれるかもしれないという貴重なお客様なので、悪徳不動産屋といえども親切にするしかない。

 3時前から今まで、4時間近くの時間を案内に費やした。

 案内中の話しの中で、移住の話しについても書きたいこともできた。

 しかし、今日は昼食をとるヒマモなかったもので、猛烈に腹が空いている。

 とりあえず今日は、義務的な更新でお茶をにごし、他のネタとともに後日また書くことにして、晩飯の食卓につくことにする。

2017年1月 5日 (木)

もう一つ、消し去りたい年初の失敗

 元旦に飛行機の中にタブレットを置き忘れてきた。

 無事戻ってきて、災いになりかけたけど大過なかったことを喜んだ。

 実は、年明け早々、もう一つ恥ずかしい失敗をしている。

 元旦に伊勢神宮に行くために、宮崎空港7時40分発の飛行機を予約していた。

 空港まで車で1時間半。

 登場時間まで余裕をもって、5時半に当地(宮崎県の北端の街・延岡市)を出発することにしていた。

 ということで、4時半にスマホのアラームをセットして布団に入ったのが12時過ぎ。
 日頃1時ころまで起きているもので、なかなか寝つけなくて、眠りについたのは1時過ぎだった。

 寝過ごしてはいけないと緊張していたせいか、ふと目覚めて時計を見ると4時。

 少し早いが、もう一度寝てしまうと寝過ごしてしまう。

 元日でもあるし、えいやっ!と布団から抜け出して新聞を取りに出た。

 外は真っ暗。

 人の姿も車の影も、まったくない。

 年が明けてすぐのブログに「一年中で、町の中が一番静かになる時。それは、大晦日の夜の十時から十一時。」と書いた。

 テレビで初詣の様子を見ていてそう書いたのだが、明治神宮や川崎大師、伏見稲荷や平安神宮のように、大都会の有名寺社であれば夜を徹して参拝客途切れることはない。

 しかし、当地(宮崎県の北端の街・延岡市)のような人の少ない田舎町ではそうはいかないようだ。

 「夜明け前が一番暗い」という言葉があるが、一番人の通りが少ないのも夜明け前のようだ。

 新聞を取りに家から出たのだが、玄関を開け外の空気に触れたとき私は、今山八幡宮へ初詣をすることを思い立った。

 あと1時間で当地を出発し伊勢神宮に初詣することにしているが、産土神社である今山八幡宮にも新年のお参りをして行こうと思ったのだ。

 今山さん(今山八幡宮)は、お正月の間は終夜、照明が燈っていた。

 5時前のこの時間でも3~4人の参拝客がいた。

 手水で手を清め、口をすすぎ、神前に向かった。

 参拝の前に記帳簿に記帳。

 真新しい記帳簿である。

 1頁目が開かれている。

 記帳しようと思ってメガネを忘れてきたことに気がついた。

 急に思い立ってお参りに来たもので、メガネを忘れていた。

 老眼がひどくてメガネ無しでは文字が書きにくい。

 しかし書くのは次元の住所と名前だけ。

 まずは住所から。

 いつもは書き切れるスペースのはずなのに書き切れない。

 そこで気がついた。

 上に名前で下が住所の欄だった。

 名前の欄に住所を書いてしまったのだ。

 新年の新しい記名簿の1頁目だというのに、なんたるミス。

 空白にするのは目立ちすぎる。

 そのまま住所を書き、その下に名前を書いた。

 新年早々なんたる失敗。

 破りとりたい気持ちになったが、気をとりなおしてその横にもう一度名前と住所を記入した。

 これを反省材料として、神前に手を合わせながら、今年は落ち着いて行動しようと自分を戒めた。

 そのあげくに、飛行機内にタブレットを忘れてきたのだから、なんとも救いがたい。

 馬鹿は死ななきゃ治らない。そそっかしいのもまた同じ。

 しかし、この年まで大過なく生かされてきたことに、つくづく感謝している新年の今日。

2017年1月 4日 (水)

今年こそは

 今日が仕事始め。

 まずは年賀状に目を通す。

 正月に旅行をするようになって、年賀状を手にするのは三月四日。

 こちらから出していなかった方からいただいた年賀状への返事が遅くなってしまうので、いただいた年賀状に目を通すことから始まる。

 今年のお正月。ついているついていると書いてきたが、実は伊丹空港に着いてすぐ、とりかえしのつかない失敗をしたかもしれないという事件を起こしてしまった。

 伊丹空港に到着して、京都駅まで直行のリムジンバスの乗り場に行ったら、ちょうど出発直前。

 「なんてついているんだ!」と、バイキングの小峠さんの口調で小さくつぶやきながら乗車。

 椅子に腰を下ろし、元日の新聞を電子新聞で読もうと思って、キャリーバッグからタブレットを取り出そうとして身がすくむ思いがした。

 飛行機の座席ポケットにタブレットを置き忘れてきたことに気がついたのだ。

 私は、アンドロイドのスマートフォンを使っていて、タブレットもアンドロイド。

 Amazon、楽天、日経新聞電子版、dマガジン、ヤフー、ココログ(ブログ)。

 スマートフォンやパソコンで使っているIDやパスワードがすべて同期されている。

 日頃私はネット社会の便利さをフルに享受している。

 従って、タブレットには自分でも全部が掌握できないくらいのIDやパスワードが記録されている。

 もしタブレットを紛失してしまったならば、スマートフォンやパソコンで登録しているIDやパスワードをすべて変更しなくてはいけない。

 気が気ではなくて、すぐにANAに電話を入れたかったが、バスの車内のことで電話ができない。

 バスが目的地の大阪上本町駅に着くとすぐにANAに電話を入れた。

 飛行機の便と自分の座っていた座席番号を伝えて、タブレットの忘れ物は届いていないかと、祈る思いで問い合わせをした。

 今のところ拾得物としては届いていないとの返事。

 私は、「タブレットは薄くて、座席のシートポケットに入れたので確認してもらえないか」とお願いした。

 すると、なんと、私が飛行機を降りてまだ四十分くらいしか経っていないというのに、飛行機はもう次の地へと出発していているとのこと。

 連絡をとって、探してくれると言ってくれた。

 旅行初日からそれも年の初めの元日から、「なんてことだ!」と、またしてもバイキングの小峠さんの口調のセリフが脳内を走り回る。

 しかしここは日本。

 無事戻ってくることを期待して、旅行を楽しむことに決めた。

 もし戻らなければ、ちょっと苦労するが重要なIDとパスワードを変更すれば済むことだ。

 絶対戻るはずだし、戻らなくても致命的なことではないと自分を慰める。

 正月からくよくよしたくないし、起こってしまっことはしかたがない。

 果報は寝て待て。今は旅先。もし見つからないときの処理は四日からやればいい。

 伊勢神宮に向かう電車を待ちながら、やっと気持ちの立て直しができたとき、電話が鳴った。

 発信先は「06」で始まる電話番号。

 嬉しい予感で電話をとると、想像通り、さっき電話したANAの遺失物係の人からだった。

 今、遺失物として届いたとのこと。

 「受取りはどうされますか」との質問に、「帰りの便に乗る際にとりに上がります」と答えた。

 遺失物係の人の「よかったですね」の言葉が身に凍みて嬉しかった。

 びっくりするような大きなツキはないが、大過からは守られて、なんとかなってしまう運は持っている。

 それで、大した努力をしなくても、なんとかここまで生かされてきた。

 そればかりではいけないと思うのだけど、この年まで来てしまった。

 年の初めに、また今年こそはと思っている。

 今年こそは。

2017年1月 3日 (火)

穏やかな三が日

  本当に穏やかな三が日だった。
 
  楽しい時間はあっという間に過ぎ、明日から新たな年の日常に戻る。
 
  旅行中も、なんだかすべてが順調だった。
 
  あまり細かい計画は立てずに行った先も、想像していた以上に「来てよかったなー」と思えた。
 
  乗り継ぎのバスや電車に待たずに乗れたり、道路を渡ろうとすると直ぐに信号が青になったり。
 
 こんなささいなことのほうが、人間の小さい私は、「ついてるなー」と嬉しい。
 
 今日は別段予定を立てていなかったのだが、京都国立博物館に行ってみた。

 何度も京都に来ていながら京都国立博物館に行ってなかったのは、始めて京都に正月旅行に来たとき行ったのだが開いていなかったからだ。

 最初の京都は、定番ルートである三十三間堂から清水寺へ回るコースをとった。

 京都国立博物館は三十三間堂の真向かい。

 行ってみたのだけど休館だった。

 てっきり三が日が休館日だと思っていた。

 今日、ネットで調べてみたら元旦だけが休館日だった。

 それで今日は、博物館に行くことにした。

 ちょうど伊藤若冲 生誕三百周年の特集陳列をやっていた。

 もうひとつの泉涌寺の特集陳列物を見て回るっていたら昼をまわっていた。

 帰りの時間を考えて、近くの建仁寺にお参り。

 建仁寺は風神雷神図で有名な禅寺。

 入ったところと別な出口から出たら、なんと京都の古い町並みの通りがひろがっていた。

 知らずに遭遇してしまったのだが、そこが花見小路通だった。

 これまた幸運と嬉しく思う。

 ぶらぶら歩きながら四条河原町に出て人混みを楽しんでいたら、帰りの時間になった。
 最後の最後で飛行機が三十分以上遅れた。

 これくらいの誤差は気にしなくてよい。

 いつもであれば三十分の遅れは大迷惑なのだが、これも「今年はついているなー」と思える出来事だった。

 いつもなら、宮崎空港までは電車を利用する。

 当地(宮崎県の北端の街・延岡市)から所要時間は一時間ちょっと。

 空港内まで直結しているので実に便利。

 しかし、今年は車で来ていた。

 飛行機の到着が遅れると直結の電車が無くなるから、年のために車で来ていた。

 それで三十分の遅延は気にならなかった。

 やっぱり、なんだか今年はいい年になりそうな予感。

2017年1月 2日 (月)

平穏な1月2日

 京都で迎えた1月2日。

 暖かいお正月。ありがたいことに風もない。

 京都の冬は寒いと覚悟して来ているので、拍子抜けのような気もするが、風も無くてなんとも心地よい。

 京都で正月を過ごすのも6回目。

 中心部の観光名所は結構回りつくした感があるし人が多すぎるので、一昨年は嵐山。

 去年は大原三千院。
 
 今年は栂尾高山寺。

 永六輔さんの京都を舞台にした歌「女ひとり」の歌詞をたどっている。

 嵐山は良かったが、交通の便が良く人気も高い観光地で人であふれていた。

 三千院は市街地から遠くバス便も良くないのに観光客は多く、「恋に疲れた女が1人」になりたいと思っても、心を休めることはできない場所になっていた。 

 今日の栂尾高山寺は、ひとりになりたい「恋に疲れた女」におすすめ。

 良い意味で期待を裏切られた。

 高山寺、西明寺、神護寺の、高雄3寺をお参りしたが、いずれも人が少なく、昔の京都の空気に触れた感じであった。

 ここだったら、大混雑はしないかもしれないから、紅葉のシーズンに来てみたいなと思った。

 朝から京都巡りで、新聞もテレビも見てなくて、何が起こっているかも気にならない、暖かくて穏やかで平和な新年2日目の一日だった。

2017年1月 1日 (日)

平成二十九年 元旦

  一年中で、町の中が一番静かになる時。
 
  それは、大晦日の夜の十時から十一時。
 
  町にはまったく人の気配がなくなる。
 
  車の通もまばらになる。
 
  除夜の鐘が鳴り出すころから、その静けさが破られていく。
 
  時計の針が十二時を回るころから、初詣に神社に向かう人々の足音や、若い人の大きな話し声で町が賑やかになってきた。
 
  私の家から、産土神社である今山八幡宮までは歩いて三分。
 
  今山八幡宮には、末社として恵比須神社と稲荷神社もある。
 
  私の家の所在は、恵比須神社の名前を拝する恵比須町
 
  家の前を多くの初詣の人が行き交う。
 
  毎年、初詣の人の足音や、人の声を聞きながら新年を迎える。
 
  ここ数年は、お正月の三が日は旅行をしていて、今年は伊勢神宮に参拝する。
 
  朝一番の飛行機で行くため、朝五時起き。
 
  時に切れ目があるわけではないが、新しい年を迎えると気持ちが改まるのがいい。
 
  ことしが、皆さまにとっていい年になりますように。

 
 

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