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2018年12月

2018年12月27日 (木)

劣化がひどくて終活なんて先の先

 今年も残り、あと5日。

 いつものことではあるが、いつもに増してやり残していることが山積み。

 今日も、急遽、宮崎へ行くことになっている。

 その準備をしていたら、カレンダーを配り遅れていたお客さんが来社。

 併せて、ちょっとしたトラブルの相談も受ける。

 当社のカレンダーがないと1年が過ごせないとのこと。

 そんなこんなしていたら、宅配便から荷物が届く。

 税理士事務所から、年末調整用の書類を取りに行きたいとの連絡も入る。

 どうして仕事がつまってるとこんなに雑用が入るのだろうと思いつつ、宮崎の仕事の準備にかかっている。

 今年は、ブログの更新に力が入らない1年だったせいで、来訪者もめっきりめっきり減ってしまった。

 10年前くらいに始めたブログだが、最近の来訪者は始めたばかりの頃の数になってしまっている。(私が利用している無料ブログサイ・ココログでは、過去の記事が10カ月前までしか表示されないので、いつから始めたかわからない。これはココログの大欠点)

 この時期の恒例行事ではあるが、「来年は」と来年に期待する。

 もう「来年が」確実に過ごせることが担保される年代ではないのだが。

 

 

2018年12月24日 (月)

新発売のフリクションボールペンの1㎜芯がいい

 フリクションボールペンの1㎜芯が新発売になった。

 これが、なかなかいい。

 フリンクションボールペンは消せるボールペンということで大人気のボールペンだが、私はあまり好きなボールペンではなかった。

 一つは、書き味が硬いこと。

 もう一つは、インクが詰まることが多いこと。

 1㎜芯は、私にとっての欠点である、この二つの欠点が無くなっている。

 私は筆圧が高いもので、ボールが硬くてガジガジした書き味が好きではない。

 それで、自分の筆記用には1㎜芯のボールペンを使っているのだが、フリクションボールペンは0.5と0.7しかなかった。

 1㎜芯が発売されたのを知って、すぐに試してみた。

 これが、なかなかいい。

 かなり、いい。好みの書き味。

 そして、インクの出もいい。

 さらさらとインクが出る。

 好みとしては、最高ランク。

 常用のボールペンにしてもいいかもしれない。

 

 

2018年12月23日 (日)

盛んな有名寺社のCMに、かえってご利益に疑問がわいてきた。

 私は、スマートフォンのラジオアプリ「ラジコ」の有料版を利用している。

 無料版もあるのだが、有料版は全国のラジオ番組が聴取できる。

 TBSでやっていた永六輔さんのラジオ番組が聞きたくて利用を始めたのだが、そのまま有料版を利用している。

 午前中はラジオをつけっぱなしにしていることが多いのだが、お正月が近づいたせいで、このところ有名寺社のCMの花盛り。

 「初詣は、〇〇神社に」というCM。

 「家内安全、健康祈願に」というのだけど、神様がお金集めに奔走しているように思えて、ありがたみが失せてしまうような気がする。

 

2018年12月22日 (土)

大きい写真が5位。小さいほうが1位の写真。変!

今朝の朝日新聞。 1545441451770.jpg

今朝の朝日新聞。

紀平の大きな写真。

やっぱり紀平が1位かと思って記事に目をやると、「紀平まさかの5位」の見出し。

小さい写真の宮原が1位。

おかしいよね。

2018年12月19日 (水)

死んだら話

 私は、ドコモのdマガジンというサービスを利用している。

 dマガジンというのは、月々400円で人気雑誌200誌以上の最新号が読めるというサービス。

 雑誌によっては、抜粋だけを掲載しているだけて欲求不満になるようなものもあるが、不満無く記事を掲載している雑誌が多い。

 全部を見ていると、人生が破綻する。

 私が毎週見ている週刊誌は、週刊文春、新潮、現代、ポスト。

 本が売れない時代。週刊誌の購買層は中高年者。

 なかでも、50歳以上の高年者に限定されつつあるようだ。

 それで、週刊誌の記事は中高年の嗜好にあわせた内容になっている。

 ここ数年、週刊現代と週刊ポストが競い合ってきたのが、中高年のSEXに関する特集記事記事。

 「死ぬまでSEX」という特集で、両誌ともに過激なエロネタを展開してきた。

 いつまだ続けるのかと思いつつ、興味津々読んでいたのだが、そろそろエロ記事では読者の興味を引けなくなってきている感がある。

 引き続きSEX特集記事は続いているが、最近それに取って代わって主役の座についたのが終活特集記事だ。

 相続、遺言、高齢者の医療。週刊誌は終活記事が最近のトレンド。

 死ぬ前にやっておくこと。飲んでもいい薬。のまない方がいい薬。

 手術はやった方がいいのだの、やらないほうがいいだの。

 「死んだら、死ぬなら」という話のオンパレードだ。

 そんななかでも、今週配信の週刊現代12月29日号の表紙がすごい。

 親もあなたも、今から準備すれば困らない

 死んだら必用な書類36

 後から見つかった財産、税務署が追っかけてきた

 延滞税、どう対処する?

 貸し金庫が開けられない 株券・保険証券が見つからない・・・・みんな困っています

 印鑑のありか、暗証番号を教えないまま逝った老親

 あなたの人生「最後の総力戦」

 これから、団塊の世代がいっせいに後期高齢者に突入していく。

 しばらくは「死んだら、死ぬなら」といった特集記事の需要は続くだろう。

 しかしそれも、団塊の世代が元気でいれる、あと数年のこと。

 「死んだら、死ぬ前に」と平然としていられるのは、団塊の世代がまだ元気な人が多くて、死が未来であると思っていれるからのこと。

 死を目前にしたら、平然として「死んだら、死ぬ前に」という話題には触れられないだろうなあ。

 私のブログに、相続遺言、高齢介護というカテゴリーを設けていたが、すっかりこのカテゴリーでの記事を書くのを忘れていた。

 元気なうちに、このカテゴリーを見直すことにしよう。

 

 

  

2018年12月17日 (月)

年末の恒例行事2018

 年末の恒例行事。

 毎年のごとく、高浜虚子の「去年今年(こぞことし)」の句の話をしている。

 私は、生まれてこのかた、ずっとグズグズと時間を浪費して生きてきた。

 それにしても、今年はひどい。

 ブログを書こうと思っても、どうにも手が進まない。

 過去には何を書いてきたのか、ブログ無いの検索システムで「年末」という語句で検索してみた。

 去年も、ぐうたらしていたが、去年の記事を読んでみると、まだ今年に比べるとまともにブログに向っていたようだ。

 私は、今年も去年と同じのでまったく成長していない。

 成長が止まってしまったというより、後戻りしてしまったようで、どうにも手がすすまない。

 手抜きで、去年の記事をそのまま転載して、それを添削することにする。


 まずは、去年の12月26日の記事。

この時期になると、高浜虚子『去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの』の句が、私の脳味噌の中を駆け回る。

 この句については、毎年毎年、懲りもせず同じことを書いている。

 私には、句の意味する真理は未だに理解できず、私にとっては自戒の句としている。

 今年は、早めに年末の仕事の片づけにかかった。

 11月の下旬にお歳暮の注文もすませ、見残しの仕事をチェックし、余裕をもって年の瀬を向かえることができる。

 と思っていた。

 順調すぎて、ほっとしたのがいけなかった。

 いつもの悪いクセがでた。

 ちゃっちゃと全部すませてしまえば良いものを、このくらいならすぐに終ると、気が緩んでしまった。

 気がつけば、12月20日。

 この10日間、なにをやっていたのかも思い出せないほど、ボーッとしていた。

 そして連休前から今日まで、例年のごとく仕事に追われていた。

 寂しい墓標が立ちかけている。」

 この記事のなかで、「私には、句の意味する真理は未だに理解できず、私にとっては自戒の句としてって来る」とあるが、これに注釈を加えたい。

 句は、いろんな解釈がなされているが、私は高校の時の先生の、「去年も今年も、なんの変わりも無く棒のようにつながっている」という解釈にとらわれている。

 

 12月28日の記事。

 「今年も残すところあと、3日。

 例年のごとく、じたばたしている。

 もう、じたばたするにもあとが無い年代になってしまったが、懲りもせずじたばたを続けている。

 馬鹿は死ななきゃなおらないというのは森の石松だが、グズは馬鹿より質が悪いかもしれない。

 本当の馬鹿は、自分が馬鹿であることを気がつかないから、馬鹿を不幸とは思わないかもしれないが、グズはグズであることを反省し後悔する。

 後悔先に立たずで、グズから抜け出すのは至難の業で、失敗しては反省の繰り返しの半生である。

 半生が文字通り人生の半分であるのならば、私はとっくに半生は過ぎているわけで、人生の大半を反省と伴に生きてきた。

 しかし、今年は例年よりも反省の強度が落ちていて、じたばたもできず茫然自失と佇んでいるような体たらく。

 気がかりな重大な案件を2つ抱えて、どうしようかと思いあぐねている。」

 去年のことながら、なにをじたばたしていたのか思い出せない。

 ただ、「馬鹿は死ななきゃなおらないというのは森の石松だが、グズは馬鹿より質が悪いかもしれない。

 本当の馬鹿は、自分が馬鹿であることを気がつかないから、馬鹿を不幸とは思わないかもしれないが、グズはグズであることを反省し後悔する。」という一文は、なかなかいいなと自己満足している。

 

 

2018年12月12日 (水)

終活年賀状    年賀状 やめるのもよし 続けるのもよし

 終活年賀状なるものが広がりつつある。

 高齢になったから、人間関係を整理したいから、さまざまな理由で長年の習慣になっている年賀状のやりとりを終わらせるというものだ。

 「皆さまと交わして参りました年賀状ですが、誠に勝手ながら今年をもちまして書き納めとさせていただきます」

 そんな文章を添えた年賀状が届けられる。

 私も、一通だけそんな年賀状をもらった。

 まだまだ現役で仕事を続けなくてはいけない身の私としては、年賀状はやめられない。

 とはいうものの、主体性の無い性格の私は、流れに流される傾向があって、年賀状だけのつきあいになっている中学校、高校の同級生への年賀状に意味があるのかななどと考えることもある。
 
 確かに、思い入れも薄くなって、相手も私が出すからやめられずにいるのではないかと思える人もいる。

 年の瀬に大慌てで年賀状作りをしているが、なんでも締め切り間際にならないと動かないから大変なのであって、冷静に考えてみると、パソコンで処理しているから、年賀状の図柄を決めてしまえば、そんなに大変なことではない。

 私は、人付き合いが苦手で、つきあいっている友だちも少ない。

 年賀状だけでも声をかけてもらえるとうれしい。

 だから、相手が迷惑していても、もうしばらくは年賀状は続けていこうと思っていた。

 そんな折、佐藤愛子さんが面白い話をしていた。

 「年賀状が楽しかったなんてのは、子どもの時だけですよ。大人になってからは本当にメンドくさかった。でも、年をとるにつれて、大切さがわかるようになったんです。だんだん友達が生きているか、死んでいるかわからなくなるでしよ。だから、年賀状が届くと『ああ、生きててよかった』となる。互いの生存確認という点で、必要欠くべからざるものになりました。」というのである。

 さすがに佐藤愛子さん。

 年賀状に対する思いが、すとんと腑に落ちた。

2018年12月10日 (月)

アメリカがファーウエイを排除する本当の目的は、次世代規格の第五世代移動通信システムにおいてファーウエイの技術が突出しているから、それを阻止するためのようだ。

 アメリカがファーウエイを排除する本当の目的は、次世代規格の第五世代移動通信システムにおいてファーウエイの技術が突出しているから、それを阻止するためのようだ。

 またしても、日本はアメリカの支持に追従。

 私は、ファーウエイは廉価版のスマートフォン作成メーカーだと思っていた。

 私はファーウエイのタブレットを使っているが、そもそもは、ゲームとdマガジンで本を読むことだけが目的で購入したものだった。

 直前には、仕事用のタブレットとしてギャラクシーのタブレットを使っていた。

 ギャラクシーのダブレットは10万円くらいした。ファーウエイのダブレットは3万円代だったから、あくまでもお遊び専用として購入したものだった。

 それが、使ってみたらびっくり。

 私が使う限りでは、ギャラクシーのタブレットと遜色ない。

 予算の関係で、ギャラクシーダブレットはWiFi環境がないと作動しないものにした。

 ファーウエイのタブレットは、安かったのでSIMフリーのものにした。

 SIMフリーだから、携帯会社はどこと契約してもいい。

 私は、イオンモバイルのデーター通信のみで契約して使っているが、なんの不自由も無い。

 それで、買い換え時期になっていた家内のスマートフォンをファーウエイのスマートフォンに買い換えて、電話会社の契約をドコモからイオンモバイルに変更した。

 買い換え前の家内の酢マヒとフォンは富士通のものだったが、3年以上使っていたもので、動きがもたもたしていた。

 ファーウエイは3万円ちょっとだったが、さくさく動いている。

 今回の騒動で、逆に、ファーウエイが単に廉価版の製品を造っているメーカーじゃないんじゃないかと思うようになった。

2018年12月 8日 (土)

ファーウエイを批判しているアメリカは、自分だけが世界中の通信情報のすべてを掌握しようとしているではないか

 ファーウエイの創業者の娘さん逮捕の問題で、昨日は中国に批判的な意見を書いた。

 私は、ファーウエイのタブレットを使っているし、家内にはファーウェイのスマートフォンを使わせている。

 アメリカが、ファーウエイのスマートフォンやタブレットは中国のスパイ行為を受けると言っている。

 それが本当であれば、ファーウエイのタブレットを使うのをやめようかと思ったりもした。

 しかしアメリカも、元CIA局員のエドワード・スノーデン氏から、NASAが世界中の通信情報や個人情報を収拾していたと告発されていた。

 私は、そもそもインターネットの世界ではプライバシーは無いものと覚悟している。

 クレジットカードや銀行口座情報が乗っ取られなければ、他の情報を盗み見られてもしょうがないと割り切っている。

 アメリカは、中国にスパイされると中国を悪者にしたてているが、私はアメリカに監視されている不安の方が大きい。

 プライバシーが心配であれば、インターネットは使えない。

 ということで、私は、ばつぐんのコストパフォーマンスのファーウエイを使い続けることにする。

2018年12月 7日 (金)

ファーウエイ創業者の娘さん逮捕で、中国に「人権」という単語があることを始めた知った。

 アメリカの対イラン制裁違反容疑で、カナダ当局が、ファーウエイ社の創業者の娘さんでありCFOの孟晩舟を逮捕した。

 それについて、中国外務省の耿爽副報道局長は、法律に逸れていない中国市民の身柄拘束は重大な人権侵害だから即刻開放せよと抗議の声をあげていた。

 中国に「人権」という単語があるのかとおどろいた。

 どの口で「人権侵害」なんて言えるのだろう。

2018年12月 6日 (木)

東名高速道路あおり事故の報道 もっと人の役に立つ報道をしろ

 この2、3日、ワイドショーは東名高速道路あおり事故報道で占有されている。

 被疑者に悪役の座を一手に押しつけている。

 検察は危険運転致死傷罪で立件しており、さらには

 被疑者を悪役にしたてあげ、徹底的に責めたてるのは番組的には面白いのだろう。

 亡くなられて被害者の方は、ほんとうにお気の毒だ。

 被疑者の行動がなければ死にはいたらなかっただろう。

 しかし、私はテレビ報道のあり方に違和感を感じる。

 検察は危険運転致傷罪で起訴しているが、監禁致死罪で予備的起訴をしている。

 予備的起訴とは、危険運転致死傷罪が成立しないと判断したときは監禁致死罪に切り換えますということだ。

 今回の裁判で監禁致死罪を予備的起訴をしたのは、公判前整理手続きにおいて裁判官からの提案で行ったものである。

 つまり、裁判官が危険運転致死傷罪での有罪は難しいですよと判断しているということだと言える。

 検察も、テレビ報道によって創り出された世論に押されて、加害者を重罰に課したくて危険運転致死傷罪や、はたまた監禁致死罪やら、さらには暴行罪やら、無理やり智恵をかき集めているように思える。

 だが 日本は法治国家。

 テレビがはやし立てるような罪状は、無理筋だと思う。

 前々から私が主張していることだが、テレビは人心揺動、騒動煽動機関なのである。

 悪者にしたてあげた弱った犬を、よってたかって叩きまわして、一般大衆の関心を引くのが仕事なのだ。

 それは視聴率という大きな目標を背負わされているからやむを得ない宿命なのだ。

 今回の事件で、本当にこんな悲劇を起こさせたくないということを目的とするのであれば、もう少し冷静な報道をするテレビ局があってもいいのではないだろうか。

 今回の事件を手本にして、二度とこんな事故をおこさせないために、私がテレビに求めたいことは2点。

 まず、運転中にからまれて走行を妨害されて停車させられたときには、車のドアをロックして絶対に開けないこと。そして警察に電話すること。

 次に、今回の事故でテレビ局がいっさい触れないが、、高速道路では車間距離をとることと、前方の車の動きに最新の注意をはらうこと。

 この2点だ。

 今回の事件報道で、車のドアをロックして絶対に開けないということを強調するコメントを私は耳にしていない。

 それと、ぶつけたトラックの状況を報道するテレビ局がない。

 裁判で加害者は、車を停めていいがかりをつけていた時間は2分程度で、車を離れようとしているときにトラックがぶつかってきたと言っている。

 この証言は、脅していた時間を少なく申告しているだろう。

 証言の通りだとしても2分間は道路を塞いで停車していたわけだ。

 ぶつけたトラックは、前の車が急停車をして避けきれずにぶつかったわけではない。

 今回は加害者によって無理やり停車させられた車が停まっていたが、故障車が不測の事態で追い越し車線停まっていることもある。

 ハザードランプをつけてなかったにせよ、通常であれば、停車中の車に衝突した場合、追突した側が前方不注意を問われる。

 今回の事件において、追突した側の運転手の過失も問われるべき事故である。

 追突した運転手は自分の非を認めており、被害者に対しても心からお詫びしている。

 テレビは、このことには余り触れていない。 

 テレビとしては、極悪非道の加害者と悲嘆にくれる被害者の関係を際立たせた方が劇的に盛り上げることができるからだ。

 テレビが真に世の中の役に立とうという気持ちがあるのであれば、今回のような被害にあいそうになったら、ドアをロックして絶対にドアを開けないこと。

 やむを得ず走行車線に停車する事態に陥った時は、ハザードランプをつけること。

 車を運転する人は、余裕のある車間距離をとること。そして、突発的な障害が起こりうることを想定して、常に緊張感をもって運転すること。

 そんなことを、もっと声を大にして騒ぎ立ててもらいたい。

2018年12月 4日 (火)

死に方の本の本があふれている

 昨日のブログで、長尾和宏医師が終末期の医療について多くの書籍を出版していることに触れた。

 当地(宮崎県の北端の街・延岡市)の図書館にも、長尾医師の本が数冊あって、まえまえから借りようと思っていたので、今日借りに行った。

 ネット検索したところ、延岡市立図書館に長尾医師の著書は6冊あった。

 2冊は貸出中だったので、残りの4冊を借りてきた。

 4冊とも同じ棚に置かれていた。

 その中に「痛くない死に方」という本があった。

 図書館内のパソコンで置かれている本棚の位置を確認して、求める本を探しに行って、ちょっとびっくりした。

 題名に「死に方」ということばの入った本が、ざっと見て20冊以上ある。

 「死に方」を気にかけている人は多いんだなあ。

 

 

2018年12月 3日 (月)

我が家の猫    お手本のみたいに、枯れるように静かに死期を過ごしている

 我が家には4匹の猫がいる。

 いずれも、生まれて間もないころに捨てられて死にかかっていた猫たちだ。

 その最長老「2代目かんたろう」が、何も食べなくなって、もう10日間になる。

 一カ月前くらいから、食事の時間に餌のあるところに来なくなった。

 大好きだった刺身をやっても、食べようとしない。

 好物の「ちゅーる」をやってもなめようとしない。

 「かんたろう」は17歳。

 我が家近くの駐車場に、くつ箱のようなものに入れて捨てられていた。

 生まれて1週間になるかならないかといった、生まれたばかりのような子猫でだった。

 下痢をしていて、身体は糞尿にまみれていて、瀕死の状態だった。

 寒い日で、このまま放置したら死んでしまうと、見かねて家内が拾ってきたものの、何日もはもたないと思っていた。

 家内は、せめてきれいにしておくってやりたいと、お湯でからだをふいてタオルにくるんでやった。

 あたためた牛乳をやスポイドで差し出すと、少しずつだが飲んだ。

 長くは生きないだろうと思っていたのに、それから17年になる。

 そのあと、結構やんちゃな猫に育ったが、それから5、6年目になるころ、次の捨て猫が我が家に加わってからは、その猫に遠慮してわがままをしなくなっていた。

 その後、数年置きに2匹の捨て猫が来てからというものは、さらにおとなしくなっていた。

 新人の猫たちが、年頃になると暴れ回るのと対照的に自己主張をしなくなっていった。

 ききわけがよく、手間がかからなかった。

 15歳を過ぎたころから、寝ていることが多くなって、いつか今日のような日が来ることを思うことはあった。

 私は、親を看取って以来、自分の死に方について考えるようになった。

 ちまたには、終活という言葉をよく見かけるし、週刊誌や雑誌では終末医療についての特集がひんぱんに組まれ、多くの書籍が出版されている。

 飛石幸三医師や長尾和宏医師が終末期の医療についての多数の書籍を出している。

 両氏の意見を簡単に説明すると、老衰死のすすめといった内容である。

 高齢になって食事を受け付けなくなったら、胃ろうとか点滴とかで無理に栄養を補給しないことが、苦痛を感じずに寿命をまっとうできるという理論である。

 彼らの書籍の中に、動物が寿命を迎えると、食事や水を摂らなくなり、いわば枯れるように死んでいく。

 それが自然な姿で、胃ろうや点滴でか無理やり栄養や水分を押しつけられると、溺れてもがき死ぬようなものだというのである。

 私は、数年前に両親を病院で看取った。

 父も母も最後まで頭はしっかりしており、長期の入院ではなかった。

 ただ、入院中の病院の中で私は、胃ろうや点滴を受けながら意識も無く、ベッドの中でただ呼吸をしているだけの人たちをたくさん見た。

 その姿を見ているから、飛石医師や長尾医師の話を納得するのだ。

 死期を間近に迎えた我が家の老猫「かんたろう」は、、そのお手本のように静かに最期を迎えようとしている。

 、鳴き声をあげることも無く、静かに眠り続け、声をかけると、うっすらと目を開けるが視線は遠くをみつめている。

 その姿は、まるで、私に道を示すように思える。

 家内は大泣きするだろうが、私は褒めて見送ろうと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長尾和宏石飛幸三

 平穏死を単純に言えば「枯れて死ぬ」ということです。枯れるとは、つまり、体内の水分含量が減っていくということです。人間は生まれたときには体重の約8割を水分が占めています。それが成人すると6割に減り、高齢者になると5割になると言われています。そして平穏死寸前には4割にまで減ります。人生とは水分含量の観点から言えば8割から4割へとゆっくりゆっくり減っていく、まさに「脱水への旅」なのです。
 平穏死に至る経過のことをよ

2018年12月 1日 (土)

せめて有終の美

 早いもので、今年も残り一カ月。

 いつものことではあるが、今年はいつもに輪をかけて、何にもしないうちに一年が過ぎてしまった。

 せめて、有終の美。

 もうしばらくは、次の半荘(ハンチャン)!

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