年末の恒例行事2018
年末の恒例行事。
毎年のごとく、高浜虚子の「去年今年(こぞことし)」の句の話をしている。
私は、生まれてこのかた、ずっとグズグズと時間を浪費して生きてきた。
それにしても、今年はひどい。
ブログを書こうと思っても、どうにも手が進まない。
過去には何を書いてきたのか、ブログ無いの検索システムで「年末」という語句で検索してみた。
去年も、ぐうたらしていたが、去年の記事を読んでみると、まだ今年に比べるとまともにブログに向っていたようだ。
私は、今年も去年と同じのでまったく成長していない。
成長が止まってしまったというより、後戻りしてしまったようで、どうにも手がすすまない。
手抜きで、去年の記事をそのまま転載して、それを添削することにする。
まずは、去年の12月26日の記事。
「この時期になると、高浜虚子『去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの』の句が、私の脳味噌の中を駆け回る。
この句については、毎年毎年、懲りもせず同じことを書いている。
私には、句の意味する真理は未だに理解できず、私にとっては自戒の句としている。
今年は、早めに年末の仕事の片づけにかかった。
11月の下旬にお歳暮の注文もすませ、見残しの仕事をチェックし、余裕をもって年の瀬を向かえることができる。
と思っていた。
順調すぎて、ほっとしたのがいけなかった。
いつもの悪いクセがでた。
ちゃっちゃと全部すませてしまえば良いものを、このくらいならすぐに終ると、気が緩んでしまった。
気がつけば、12月20日。
この10日間、なにをやっていたのかも思い出せないほど、ボーッとしていた。
そして連休前から今日まで、例年のごとく仕事に追われていた。
寂しい墓標が立ちかけている。」
この記事のなかで、「私には、句の意味する真理は未だに理解できず、私にとっては自戒の句としてって来る」とあるが、これに注釈を加えたい。
句は、いろんな解釈がなされているが、私は高校の時の先生の、「去年も今年も、なんの変わりも無く棒のようにつながっている」という解釈にとらわれている。
12月28日の記事。
「今年も残すところあと、3日。
例年のごとく、じたばたしている。
もう、じたばたするにもあとが無い年代になってしまったが、懲りもせずじたばたを続けている。
馬鹿は死ななきゃなおらないというのは森の石松だが、グズは馬鹿より質が悪いかもしれない。
本当の馬鹿は、自分が馬鹿であることを気がつかないから、馬鹿を不幸とは思わないかもしれないが、グズはグズであることを反省し後悔する。
後悔先に立たずで、グズから抜け出すのは至難の業で、失敗しては反省の繰り返しの半生である。
半生が文字通り人生の半分であるのならば、私はとっくに半生は過ぎているわけで、人生の大半を反省と伴に生きてきた。
しかし、今年は例年よりも反省の強度が落ちていて、じたばたもできず茫然自失と佇んでいるような体たらく。
気がかりな重大な案件を2つ抱えて、どうしようかと思いあぐねている。」
去年のことながら、なにをじたばたしていたのか思い出せない。
ただ、「馬鹿は死ななきゃなおらないというのは森の石松だが、グズは馬鹿より質が悪いかもしれない。 本当の馬鹿は、自分が馬鹿であることを気がつかないから、馬鹿を不幸とは思わないかもしれないが、グズはグズであることを反省し後悔する。」という一文は、なかなかいいなと自己満足している。
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