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2020年1月26日 (日)

断食で行う、人の手をわずらわせない安楽死

 30歳代の終わりのころ、何かのダイエット本を読んで、1週間断食をしたことがある。
  
 それまでにも、ダイエットのために食事制限をしたことは何度もあった。

 当時、禁煙とダイエットが趣味みたいのもので、年に何度も挑戦した。

 三日坊主で終れればまだましなほうで、いつも一日坊主で終って、すぐに再度の挑戦をしては破れ去るということを繰り返していた。

 そんな私が、何の本だったか忘れたが、その本の影響で1週間の断食に成功したことがある。

 断食は、断食の準備期間と断食を終ってからの復食期間が大事なのだが、若さにまかせて、いきなり断食を始めた。

 過去に何度も断食に挑戦したが、断食の前日は、夜、腹がはち切れるくらい大食いすることにしていたので、午前中はその影響で食欲が無い。
 
 しかし、午後になると空腹感を感じるようになってくる。

 2時を過ぎるころから、空腹感が増してくる。

 夕方になると猛烈な空腹感に襲われる。

 ここが最初で最大の関門である。

 食べ物のことしか考えられなくなる。

 禁煙といっしょで、初日を乗り越えられずに挫折してしまうことが多い。

 ここを乗り越えると、次に第二の大関門。

 腹が減って、なかなか寝つけないのである。

 なんとか眠りにつくが、何度か空腹感で目が覚める。

 次の日の朝は空腹感とともに目覚める。

 この日は、朝から食べ物のことばかりを考えることになる。

 気がつくと、「腹減った」とつぶやいている。

 二日目も、大きな関門。

 一日目を乗り切っても、ここで挫折してしまう。

 しかし、このときはなぜか二日目も乗り切った。

 三日目。飢餓感がつのる。

 体がだるくなって、動くのも億劫になる。

 気力も失せる。

 無意識に「ああーー。腹減ったー。」と、つぶやく声にも力がない。

 激しい空腹感が周期的に襲いかかってくる。

 しかし、ここまできたらやめたくはない。

 そして4日目の朝、余り空腹感は感じなかった。

 それどころか、体が軽く気分がいい。

 歩くと、ちょっと体が浮くようで軽快感を覚える。。

 ときどき空腹感は感じるが、飢餓感はなくなんとも身も心も気持ちがいい。

 そのまま4日目が過ぎ、1週間の断食が終った。

 そのとき思ったのだが、1日目の空腹感と3日めの空腹感のつらさは同じだということだ。

 たとえば筋トレで10キロのダンベルをあげるより20キロのダンベルをあげる時の方が筋肉の疲労の度合いは違う。

 バーベルを10回あげるときの筋肉のつらさは、1回目あげるときのつらさの数倍になる。

 20回ともなると、筋肉が耐えられずに持ち上げることができなくなる。

 体に怪我をしたときを考えると、指に切り傷を負ったときの痛みより指を切り落としたときの方が痛みは大きい。

 竹刀で叩かれるより、木刀で叩かれる方が痛い。

 筋トレのきつさや、怪我をしたときの痛みには、これはあのときより2倍苦しいとか、2倍くらい痛いということはあるが、2日目の空腹間も3日目の空腹感も、1日目に感じたと同じ空腹が続くだけだ。

 1週間の断食をやってみて私が思ったことは、餓死は想像しているほど苦しくないのではないかということだった。

 テレビや映画で見る、貧しくて食べるものがなくて餓死していく難民の子どもたちは声もなく悲しそうな顔をしているが、泣き叫んではいなかった。

 そんな姿を見て、空腹で泣くこともできないのだろうと思っていた。

 しかし、自分が断食してみて、長期間の断食はさほど苦しくないということを知った。
 
 貧しくて食べ物を手に入れることができない状況におかれたとしたら、飢餓による死の恐怖に襲われるかもしれないが、断食して味わう苦しみは、最初の1食を抜いたときの空腹感が、ずーっと続くだけで、食事を抜く回数が増えても、空腹感が増すわけではない。

 おそらく、テレビ報道でとりあげられている餓死寸前の子どもたちは、「お腹が減ったなー」と無気力に思い続けているだけだろう。

 飢餓状態におかれた大人たちは、迫り来る死に恐怖を感じることはあるだろうが、拷問を受けて死を迎えるような苦しみは感じないだろう。

 私の断食は、やめようと思えばいつでもやめられるし、その瞬間に好きなものを食べられる。

 私はこの断食の経験から、死の恐怖がともなわないからそう思うのだろうが、餓死するということはそんなに苦しいことではないのではないかと思った。

 最近、テレビの番組や雑誌で安楽死の是非を問題にする特集を見かけることがある。

 耐えがたい苦しみに襲われている患者や助かる見込みのない末期患者が、医師等の助けを得つつ、自らの意思で死を選ぶ安楽死は「積極的安楽死」と呼ばれる。

 また、患者の意思により治療の中止を求めるる「消極的な安楽死」と呼ばれるものもある。

 しかし、そのいずれも、人に自分の命を奪う手伝いをさせての死である。

 人の命を奪ったことに、心を痛ませることのない人はいない。

 安楽死を求める人は、断食による安楽死を選択肢に加えてはどうだろう。

 私は、日本尊厳死協会の「尊厳死の宣言書」を自筆で書き、財布に入れて持ち歩いている。

 私はこのことを、自分のブログにも2度ほど書いているが、それに加えて断食による安らかな死もつけくわえることも検討している。

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