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現在、うちには猫が3匹いる。
いずれも捨てられてた猫を、猫好きの家内が引き取って育てたもの。
過去には2匹看取っている。
2匹とも13年生き、寿命を全うした。
私があまり猫が好きではないことが猫にはわかるようで、歴代の猫たちは私にはなつかない。
餌をやるときだけは近づいてくるので、餌やリはもっぱら私のしごとになっみたのだが、餌やりの時以外には私が呼んでも知らん顔だ。
そんななかで、こいつ(さんたろう)だけは私になついている。
それなのに、昨日から家内がちょっとした用事で家にいないのだが、いつもいる家内がいないことで猫たちは家内ロスに陥ったようだ。
こいつまで私によそよそしい態度である。
他の2匹はエサの時間にさえ、私には近づかない。
食欲もうせているようで、まるで知らない家につれて行かれた猫状態である。
だから猫は好きじゃないんだ。
それが、猫だと家内は言うけど。
今日の締め切り間際。
ブログを書こうとパソコンを開いたのだけど、猫がキーボードの上に乗ってくる。
なぜ猫は、仕事や読書の邪魔をしてくるのだろう。
少し嬉しくもあるのだけど。
この1週間、マスコミ総出でなぶりまわしてきた森さんたたきが、ようやく終わりを迎えたようだ。
私が中学3年生のとき、私の教室でカーテン巻きたたきというのが流行ったことがある。
教室の南側の窓にはカーテンが取り付けられていた。
強い日差しを遮るためのもので、厚手で床まで届くような長いカーテンだった。
ある日の休み時間に、窓際で数人の生徒が談笑していた時に、その中の一人がいたずらで、他の一人をカーテンでぐるぐる巻きにした。
すると、周りにいた誰かがカーテンでくるまれた生徒を軽くポコリと叩いた。
激しくたたいたわけではなくて、誰がやったかわからないだろうとからかった、ちょっとしたいたずらだった。
叩かれた生徒がカーテンから解き放たれときには、周りにいた者は何事もなかったかのように無関係を演じた。
叩かれた生徒は、叩いたのは誰だとみんなを問い詰めたが、みんな自分じゃないよと知らん顔。
その時は仲の良い友達どおしの軽い遊びだった。
だけど、別な日に、叩かれた生徒が別な生徒をカーテンでぐるぐる巻きにして、周りにいた生徒に叩けとけしかけた。
すると、周りにいた数人がカーテンの中の生徒をポカポカと叩いた。
その時も軽いいたずらで激しく叩いたりはしていなかった。
軽いいたずらで始まったことだったが、どんどん流行りになってきて、休み時間に窓際で外を見ていたりしている生徒が次々とカーテン巻きの餌食になっていった。
最初のうちは、ちょこんと叩くだけのことで、やった方もやられた方も笑いながらのじゃれあいだった。
それが徐々にエスカレートしてきて、誰かか誰かをターゲットにして無理やりカーテンの中に押し込めると、周りにいる者全員でボコボコに殴りまわすようになった。
みんな自分がターゲットにされないように警戒をしているのだが、ちょっと気を許した隙にカーテン巻きにされる。
そうなると、もうあきらめるしかない。
ワーッととりまかれて、いたぶりつくされる数十秒間を我慢するしかない。
ただ、多少荒っぽいいたずらだったが、ケガさせたりすることないように手加減はしていた。
今回の「森さんたたき」を見ていると、あのときのカーテン巻きを思い出す。
「森さんたたき」だけでなく、こいつをターゲットにしようと決めると、みんなでよってたかってなぶり殺しにする集団リンチのようなやり方が横行している。
だれかがカーテン巻きにされると、みんながワッとおしかけ、とことんいたぶり尽くす。
それを見ている聴衆も、「やれ!やれ!」とけしかける。
この集団リンチは、私の中学校のころのカーテン巻きとは違って手加減はしてくれない。
私は、森さんの言動も、その後の言い訳や態度には憤りを感じた。
しかし、追いつめられて自らの非を認め、お詫びし、辞任までしたらそこまでではないのか。
リンチ集団はそれを許さない。
不倫報道もそうだ。
カーテン巻きのターゲットにされると、皮膚を引き裂かれ、内臓を食いちぎられ、ぼろぼろになって死んでしまっても、体に火をつけられ骨を砕かれるまでいたぶりつくされる。
げに恐ろしきは、正義の仮面をかぶったマスコミたちだ。
私も、捨てられない人間だった。
いつか使うかもしれない、なにかに使えるかもしれないと思って、ため込んでしまう。
いつかも、なにかも来ないのだが、処分した時に限って取っておけばよかったと思うことがある。
だから捨てられなかったのだが、いらないものをため込んでいると必要なものを見つけるの妨げになる。
コビーの裏紙も、送られてきた郵便物の封筒も、消費する量より明らかに溜まる量の方が多い。
もらったボールペンやメモ用紙もも溜まる一方。
もらいもののエコバッグが何個もある。エコならぬ無駄遣い。
必要になったら買えばいい。
貧乏性で、まだ、ばっさばっさとすてるところまではいかない。
売れるかもしれないものはメルカリやAmazon、ヤフオクに出品してしまう。
でも、捨てることの気持ちよさはわかった。
本棚がずいぶんすっきりしてきた。
携帯電話が鳴った。
5年ほど前に土地の売買をしたお客様だった。
私が外出中で事務所には誰もいなかったのだが、今事務所に来ているとのことであった。
わざわざ私の事務所に来たということは、なにか相談があってのことだろう。
今、確定申告の期間で、去年取引のあったお客さんからは何人か申告の相談があっているが、5年前の取引だからそれについての相談ではない。
自宅の買い替えかリフォームの相談なのか、はたまた近隣とのトラブルの相談なのか。
なにごとならんと要件を聞いてみようと思う間もなく、お客さんはとっとと用件をきりだしてきた。
いきなり、「不動産を売る場合には、固定資産税とか都市計画税の書類がいるの?」と聞いてきたのだ。
自宅を売るのか、はたまた自宅の他に不動産を持っていたのか、即座には質問の意味が理解できない。
「何か売ることになっているのですか」と聞くと、「マンションを売ろうと思っているのだけど、売るのに固定資産税と都市計画税の書類が必要だと言われたのだけど、どの書類なのかわからないのよ」と言う。
そういえば、このお客さん、子供さんのために宮崎市にマンションを一つ持っておられた。そのマンションが不要になって売ることになったのだろう。
ただし、そのマンションを売却するための相談なのであれば、固定資産税や都市計画税うんぬんの話しはしてこないはずだ。
おそらく、売却を頼んでいた不動産屋との商談がまとまりかけていて、不動産屋が購入者に対する諸経費の内の登録免許税や不動産取得税の計算をするのに固定資産税の評価が必要だから用意してくれということなのだろう。
それなら不動産屋が固定資産税の評価証明書をとればいいだけのことなのだが、「固定資産台帳の1枚目だけでいいの、2枚目もいるの?」と聞いてくる。
1枚目、2枚目という話になると、なんのことかわからない。
このお客さんからは、一向に他の不動産屋から言われたという言葉は出てこないから話が混乱してしまう。
他の不動産屋で売買する話しを進めていて、その不動産屋が用意するように言った書類の内容を部外者の私に聞かれても分かるはずがない。
そこで私が、「〇〇さん。他の不動産屋との商談がまとまりかけているのでしょう?」と聞くと、そうだと答える。
その不動産屋が何の目的で、どんな書類を用意してくれと言っているのかなんて私にわかりようがないではないか。
ちょっと怒りに似た感情がわきあがったのだが、こんな時に限って商談中のお客さんからキャッチホンの通知が入った。
悪いが、このお客さんの電話は早々に切り上げたい。
「〇〇さん。おそらく、相手の不動産屋さんは固定資産税の評価が知りたいということなのでしょうけど、1枚目、2枚目という話になると、どんな目的でどんな書類を用意してくれと言っているのか、私に聞かれても答えようがないですよ。相手の不動産屋に確認してください。」と伝えると、「そうですね」となっとくして電話を切ってくれた。
このお客さんは私とは旧知の間柄である。
相手の不動産屋には遠慮があるが、私には遠慮がないから私に聞いてきたのだろう。
それはうれしい話ともいえるのかもしれないが、宮崎市の物件であっても、売ろうと思ったときに思い出してもらえると、それこそ本当にうれしい話なのだ。
そこで思い出してもらえないのが、悪徳不動産屋のゆえんなのか。
それなら私に相談してこないでよと思うのも悪徳不動産屋のゆえん。
瀬戸内寂聴さんは、京都嵯峨野に開いた寂庵で毎月1回法話をなさっておられる。(コロナのために今は休んでいるかもしれない)
その参会者の中に、子供や愛する人に先立たれて悲しくてしょうがないと目で訴えてくる人がいることがあるのだそうだ。
そんな人に対する寂聴さんの接し方は、是非私が見習うべき話だった。
寂聴さんは、慰めの言葉は言わなくても「つらかったでしょうね」と抱きしめてあげるのだそうだ。
そうすると、安心して帰ってくれるのだそうだ。
「仏さんがおっしゃってるから安心しなさい」なんて言っても、嘆き悲しんでいる人の耳には入りません。私が手を握ったり、抱きしめたりすることで、みなさん安心してくれます。」と言っておられた。
私が人に悩み事や、悔やみ事の相談を受けた時、私はどう解決したらいいものかを真剣に考え、「こうしたほうがいい」「こんなふうに考えればといい」と精いっぱいの助言をする。
私の考えを受け入れずに、悩み事、悔やみ事を言い続ける相手に対して、私は自分の解決案を強引に押し付けようとしてしまう。
私は相手のために一番良い解決方法を考え抜いた結果なので、相手を自分の考えに屈服させようとしてしまう。
そして、往々にして相談者は相談に乗っている私の考えには応じず、私が人の気持ちのわからない人間だとなってしまう。
そんな時、よく私は家内にこう言われる。
あたみたいに真剣に話をする必要はないのよ。
悩みや不満を相談してくる人は、自分がいかに大変で苦労しているか、愚痴を聞いてもらいたいだけなのよ。
だから、、ふんふん、へー、それは大変だね、あなたが正しいよ、と適当に相槌をうっておけばいいのよ。
愚痴や不満を聞いてもらうだけで気が済むのよ。
というのだ。
しかし私の性格として、相談者が「こんなに嫌な思いをしているのだけど、どうしたらいい」という言葉にとらわれてしまうのだ。
「愚痴を聞いて」と言ってきたのであれば黙って聞く。
しかし相手は、「どうしたらいい?」「どう思う?」と聞いてきているのだ。
その質問に対して私は、どうしたらいいのか、どう思うのかを答えるのが誠意ある答えだと思っているのだ。
家内にそう主張すると、家内は「人は、どう思う?」と言っているけど、解決方法を聞いているわけではないから、「大変だね」とだけ言っておけばいいのだと譲らない。
私も譲らず、かくして見解の相違で夫婦喧嘩となる。
家内の言うことは納得できなかったが、寂聴さんの言葉を聞いて、家内の言い分も納得した。
だけど、それができないんだなあ。
福島県沖地震は、人命にかかわる被害が無くてなによりだった。
遠い地にいて、震度6強という強い地震に、もっと多大な被害を想像していたもので、被災された方からはお叱りを受けるかもしれないが、思いのほか被害が小さくて良かったと感じた。
大きな震災があるたびに、非常袋を用意しておかなくてはと思うのだが、いつも中途半端に終わっている。
それでも、1週間分の水と食糧だけは確保しているのだが、気になるのが賞味期限や消費期限。
私は、日ごろから賞味・消費期限より自分の五感を大事にしている。
それで、消費期限なんてやつは、はなっから問題にしていない。
開封前であれば1カ月2カ月過ぎていても、口に入れて異常を感じなければ大丈夫。
消費期限は無視はしないが、自分の五感を使って判断しなければならない。
2,3日であればほとんど問題はない。
しかし、4日、5日、1週間を過ぎてしまうとそうはいかない。
研ぎ澄ませた五感をフルに使って慎重に判断しなければいけない。
まずは見た目(視覚)。都合からは触ってみる(触覚)。
次に匂いを嗅ぐ(嗅覚)。
ここまでで、口に入れてはヤバいものは大体わかる。
それでも大丈夫ではないかと思ったら、次に少し口に入れて、恐るおそる、一嚙み、二嚙み(常に謙虚な気持ちで是か非かを判断することが肝要)して味をみる(味覚)。
五感を発揮してと言ったが、実際にはここまで。正確には四感である。聴覚は出番がない。
四感が問題なしと判断すれば消費期限後の食品を食べても何の問題もない。
人間は自分が生き物として持ち合わせている五感をもっと磨くべきなのだ。
私は、昔の人(主には親たち)がやっていた,可食判断術を磨き続けて今に至っている。
家内や子供たちにこの術を伝えてやろうとするのだが、我が家での食のサバイバル術は私の代で消滅してしまいそうだ。
そんな私だが、まったく科学を無視して動物本能のみに頼っているわけではない。
自慢にはならないが、小学校から高校まで科学はできがよかった子供だった。
高校の時の化学と生物の成績は、年間の試験の平均は90点以上だったのである。
科学的根拠をもたない奴らこそが、物が腐ることの意味を知らないが故に賞味期限の数字のみを頼りに生きるしかないのだ。
科学的知識豊富な私は(えっへん!)、保存食はもっぱら缶詰とレトルト食品を中心にしている。
缶詰缶は、蓋をして空気が入らないように密封し、密封した状態で缶詰に熱を加えて消毒する。
熱消毒をすることにより、缶詰の中身は無菌状態になる。
レトルト食品は、缶詰の缶のかわりに特殊なプラスチックフィルム(レトルトパウチ)を使った保存食品だ。
無菌状態になっているので、缶やレトルトパウチに傷をつけないように適切に保存すれば、5年や10年はまったく問題ない。
ペットボトルの水に至っては、水はH2O。
水素と酸素の化合物。
不純物を取り除いて滅菌しているのだから腐るはずはない。
というのが私の認識。
どういう理由で賞味期限があるのだろうか。
ということで調べてみた。
やはり、どうやらペットボトルは腐らないらしい。
水に賞味期限が付いているのは、ペットボトルの容器は通気性があるため、長期保存していると微量ではあるが水が蒸発していく。
すると、印字してある内容量よりだんだん減っていく。
飲食品は、さまざまな法律を守らなければならないのだが、その一つに「計量法」がある。
表示した内容量よりも少なくなると計量法違反となる。
それで印字してある容量をきちんと保てる期間を「賞味期間」としているということなのだ。「
水においては、賞味期限=おいしく飲める期間とういことにはならないようだ。
つまり、賞味期限切れの水を飲んでも全然問題ないという私の五感と直感による判断は間違ってなかったようだ。
私たちの学生時代、部活の練習中に水を飲むことは厳しく禁じられていた。
当時、水を飲むと汗をかいてバテルというのが定説だった。
苦しさに耐えかねて水を飲んだことが先輩に見つかると、激しいしごきを受けた。
私の高校は田園地域にあって、学校の敷地の塀の外側沿いに農業用水路が流れていた。
1年生の時、のどの渇きに耐えきれず、フェンスを越えたて水路に飛び込んだボールを拾いに行ったついでに用水の水をこっそり飲んだこともある。
それでもこの年(実年齢は言いたくないが)まで生きてきた。
賞味期限切れになった水を飲むのに抵抗がある場合は、レトルト食品を温めたり、米のとぎ水にしたり、手足や体を拭くための水として使えばいい。
捨ててしまってはもったいない。
若い方々!五感を鍛えておかないと非常時に生き残れませんぞ。
福島県沖の地震。
震度6強ということであったから、心配していたが、人命にかかわる被害がなくてなによりだった。
ニュースでは、地震と同じくらい東京オリンピック・パラオリンピック組織委員会の会長の後任人事が大変みたいだけど、ひとまず地震で亡くなった人がなくてよかった。
今、宮城、福島で震度6の強い地震があったとの臨時ニュースをやっている。
近隣都県でも、震度4以上の強い地震が記録されているようだ。
当地(宮崎県の北の町、延岡市)でも、5年前の熊本地震の際に震度5弱を経験したが、あのときの恐怖は今でも強く記憶に残っている。
震度5弱でも、自分の家が倒壊するのではないかという恐怖を感じた。
震度6はいかばかりか。その恐ろしさは想像に難くない。
深夜のことで被害状況はまだあまり見えてこないが、明日の朝になると大きな被害の情報が報じられるのではないか。
10年前の地震の復興も道半ば。
大きな被害のないことを、ただただ祈る。
私は、本はネット購入することが多い。
なるべく本屋さんで買おうと思っているのだが、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)のような田舎では、新聞の広告や書評を見て読みたい本があっても本屋さんに入ってこないものがある。
それで、ついついネット購入してしまうことになる。
ネット購入の欠点は、立ち読みして中身を確認できないこと。
書名や広告のキャッチコピーだけで衝動買いするしかないわけで、従って買ってみたら全然期待外れということも少なくない。
そんな場合、読み終わった本はすぐにそのままネット販売することにしている。
賞味期限内であれば、2~3割引きの値段をつけておけばすぐに売れる。
ネット販売にあたって、私は今まで、Amazonを利用していた。
Amazonの中に、Amazonマーケットプレイスというシステムがあって、そこに自分で値付けして出品しておく。
出版されて間もない本だと、新品の本の値段から3割くらい安い価格にしておけばすぐに売れてしまう。
売れるとAmazonから購入者の住所氏名が通知されるので、自分で梱包して発送する。
相手に品物が届くと、Amazonを通じて代金が振り込まれるという仕組みだ。
しごく便利なシステムだと思っていたが、最近、Amazonで見つからなかった本がメルカリに出品されているのを見つけ、メルカリで購入した。
メルカリはスマートフォンアプリが使いやすいし、中古の本が見つかりやすい。
それに出品している本の状態も、複数枚の写真で確認できる。
Amazonより使いやすいようなので、試しに私も本を出品してみた。
もともと儲けようというつもりはなく不要な本を買ってもらえるなら儲けものという発想だもので、試しに出品した4冊の本のうち3冊がすぐに売れた。
売れてびっくりしたのが、発送が実に簡単なこと。
スマートフォンのアプリで支持されるとおりに手続きすると発送用のバーコードがスマートフォンに表示される。
そのバーコードをコンビニで提示すると、レジでそれを読み取りレシートを渡される。
レシートには買ってもらった人の住所も名前も表示されていないが、そのレシートを荷物にはりつけると相手に届けてくれるようになっている。
私の名前も住所も相手にわからないまま取引が完了してしまうのだ。
私は、今までにメルカリで物を購入したことはある。
そんな時、自分の住所氏名は記載されているのに、匿名発送というラベルが貼ってあって購入した相手がどこのだれかわからない。
今までは購入するだけだったから、自分の情報だけ相手に伝わって、相手の情報がこちらにはわからないというのは不公平なシステムだと思っていた。
しかし自分が販売してみて、出品者にも購入者にも相手の情報を知らせずに取引できるようになっているのだということが分かった。
実に使いやすい。
私は、Amazonに物流を独占してしまわせてはいけないと、日本発の楽天やヨドバシカメラをなるべく利用するようにしていたが、メルカリも使うことにした。
なんてったって使いやすい。
不動産業をやっていて実に厄介に感じるのが、相続登記をせずに放置している不動産だ。
売却の依頼を受けたものの、数代にわたって相続登記をしていなくて、相続人が見つからないという物件も少なくない。
相続権のある相続人が亡くなっている場合その子供が相続権者となるので、数代前にさかのぼる相続登記が必要な場合は、親戚づきあいのない人の承諾と印鑑が必要になる。
山林や耕作放棄地となっている農地などの換価性の無い土地は、相続登記をしないまま放置されていることが多い。
国が行っている、土地一筆ごとの所有者などを調べる地籍調査でも所有者が不明の土地は全国の約2割に上っている。
所有者がわからないと、その土地のみならず、隣接の土地を売却する際にも境界線の確定ができずに取引できないという事態も起こる。
また、再開発や公共事業の支障ともなっており、法制審議会の部会が2019年3月から審議してきていた。
審議会が昨日、相続や住所変更時の登記を義務づけ、違反すれば過料の対象となることなどを内容とする法改正を川上法相に答申した。
その中には、所有者の申請により所有権を国庫に帰属させる制度の新設も盛り込まれており、答申をもとに法務省は民法や不動産登記法の改正案をまとめ、今国会での成立を目指すとしている。
答申では土地を所有者から取得した相続人に、取得を知った日から3年以内の相続登記の申請を義務づけ、違反への罰則として行政罰である10万円以下の過料を定めている。
まずは、早急に僧俗登記の義務化を法制化してもらいたいものだ。
ただし、所有者の申請により所有権を国家に帰属させるという制度については、一般国民が考えるほど簡単にはいかない厳しい条件をつけてくることが想像できる。
国に土地を引き取ってもらうためには、土地に建物や土壌汚染が無いこと。担保が設定されていないこと等の要件が付けられる。
さらに、10年分の管理費相当額を納付することも条件になる。
すべて解決のように見えるが、この法律には問題点がたくさん残っている。
相続登記をするには、相続登記にかかる登録免許税と相続手続きを依頼する司法書士の手数料等数万円から数十万円の費用がかかる。
金銭的に余裕のない人が買い手のいない土地を相続する場合にはその費用が重荷になるだろう。
国に引き取ってもらうにも10年分の管理料相当額を支払わなくてはならないというのでは、相続登記費用以上の費用になる。
税金の納付についてはすでに物納という制度があるが、納税者が物納を希望して税務署にそれを認めてもらうのは至難の業なのだ。
端的に言うと、売りやすくて処分が簡単な不動産以外の物納はほぽ認めてもらえない。
相続した不動産を売却して税金を払おうと思っても、売れないから税金の代わりに土地を引き取ってくれということになるのだが、すぐに売れそうな物件以外は物納は認めてもらえないというのが通説だ。
土地の所有権を放置させないためには、相続登記をしようにも金銭的に余裕がない人を救済する方法も、今後早急に検討していただかないと、経済的貧者に属する国民にとっては、困窮への後押しとなる法律になってしまう。
どうしても相続早期ができないという申請の窓口を作り、経済的に相続登記が困難と認められる場合は、相続登記の登録免許税の減免と相続登記手続き費用を国が援助するという法案も検討してもらいたいものだ。
私が金儲けの下手な悪徳不動産屋のせいか、法律を決める人たちが真の弱者と言われる人への対策が欠けているように思えてならない。
朝から、事務所の前の人通りがちょっと多いなと思ったら、今日は「延岡十日えびす」だった。
「延岡十日えびす」は九州三大えびすの一つとして知られている。
私の事務所の所在地は恵比須町。
開催されている今山恵比須神社は私の事務所から200m足らずの距離にある。
私の事務所のお隣のスーパー「サンフレッシュえびす」さんが100数十台の駐車場を備えているので、そちらに車を停めての参拝客が私の事務所の前を通るのだ。
例年、露店もたくさん出るので家族連れの参拝客でにぎわうのだが、今年は新型コロナ感染防止のため露店も控えめになっていて、いつもの賑わいはないような気がする。
とはいえは、商売繁盛や安全祈願をする人たちが、毎年十日えびすで縁起物の福笹や熊手を新しいものにして、古い福笹や熊手を返納するためにお参りする人の流れは変わらないようだった。
今年は、福笹や熊手を買い求めたお客さんの願いが叶うように拍子木を鳴らし威勢のいい掛け声をかけてくれる巫女さんたちもマスク姿。
みんながコロナ終息をお願いした十日えびすになった。
私の事務所には、毎日のように通販ショップから商品が届く。
今日も2つ届いた。
1つは一昨日頼んだ本だとすぐわかったが、もう1つの包みがなにかわからない。
クリックポストで送られてきているが、送り主に覚えがない。
送り付け商法などもあるから、身に覚えのない郵送物には警戒が必要だ。
警戒しつつ封を切って中身を確認すると、2週間ほど前にネット注文したラーメンだった。
2週間前くらいに、マツコの知らない世界で絶賛されていた棒ラーメン「鳥中華」の食レポをした。
マツコ氏が、この世にこれほど美味いものはないとばかりに絶賛していたのだが、私の舌には普通のラーメンだった。
そんな記事を書いたのだが、またしても「マツコの知らない世界」で絶賛されていたラーメンを注文してしまったのだった。
それが、これ。乾燥麺部門№1の「オホーツクの塩ラーメン」。
早速昼食で食べてみた。
麺の湯で時間は6分。ちょっと長め。
麺は乾麺とは思えない、シコシコツルツル感。
麺はおいしかった。
スープは澄んだきれいなスープだったが、私の未熟な舌では、その素晴らしい繊細な塩味の違いは見極められなかった。
スープの風味も、私の鈍感な味覚と収穫では鶏系なのか豚骨系なのか、魚介なのか判別がつかない。
ああ、残念ながらまたしても、テレビ出演者の方々が絶賛されるような美味しさを私は味わえなかった。
そしてまたしても、自分の貧しい育ちを思い知らされることになった。
このラーメンが500円なら、私は、あと200円出して当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の再来軒のラーメンがいい。
再来軒でなくても、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)のラーメン店で食べた方が絶対に美味い。
森元総理の問題発言が騒動になっている。
森さんの発言では、女性を蔑視した発言がとりわけ大きな問題となっていたが、私は「なにがあってもオリンピックは開催するんだ」という発言にもっと注目が集まるべきではないかと感じている。
それは、森さんの発言を理由に聖火ランナーを辞退したことが大きな話題となっている田村敦氏も同じことを言っていた。
田村敦氏に誘発されたわけではないが、オリンピックのボランティアを辞退するという動きも出てきている。
スポーツの祭典と言われるオリンピックを開催することができないことは、マスコミも含めたオリンピックを利権関係者たちが暗黙のうちに共有している認識ではないのか。
なぜなら、去年ボランティアに決定している人たちには、開催まで半年余りとなった今も何の連絡も届いていない。
これは田村敦氏が言っていたことだが、今年なってからは、いまだに聖火ランナーの正式要請は来ていないというのだ。
1年経てば、ボランティアの人達の事情もそれぞれに変わっているだろうに、引き続きボランティアをやってもらえるのかの確認をとっていないし、日程の通知もないのだ。
かといって、ボランティアの追加募集の話は全く無い。
これはオリンピックは中止ということの証だと、私は思う。
低級国民の私はそう思うが、テレビを見る限り、このこと(ボランティアに関すること)を問題視した意見は見かけない。
マスコミも上級国民。
私ら下級国民には知りえない事情を、上級国民の方々はお持ちなのだろう。
コロナで打撃を受ける人の陰で、コロナ利権の恩恵を分かち合う人もいるのだろうから。
断捨離、片づけ術、整理術。
数多くの「片付け本」が出ているが、そこで説かれているのは「いらないものを捨てなさい」ということ。
捨てられない人が多いから、こんなに多くの本が出版されているのだろうが、私も物を捨てられない一人だ。
コピー用紙の裏紙。
毎日次々と届く郵便物の封筒。
何年も着たことの無いスーツ。
着古した下着。使い古して使っていないタオル。
履きもしない靴。
使うことの無い食器。
埃をかぶったままの雑誌や本や通信教材。
なんだかわからない電源コード。
使わっていないメモ帳、ボールペン、シャープペンシル。
空きビン、空きペットボトル。
包装紙、紙袋、空き箱、段ボール。
ビニール袋、レジ袋、なぜかいくつもあるエコバッグ。
コンビニの割りばし、ストロー、スプーン。ファミレスやレストランのお手拭き。
ホテルから持ち帰った歯ブラシや、アメニティグッズ。
包装紐、輪ゴム、ビニールテープにビニール紐。
使わないままのダイエットグッズや健康器具。
何年も使うことの無い、中には何十年も手にしたこともない、多くの物たち。
でも、いつかは使うと思って捨てられない。
1年以上使っていないものは、ましてや3年、5年と使っていないものは、絶対に使うことはない。
だから捨ててすっきりしなさいと、全部の本が言っている。
わかっちゃいるけどやめられない。
心がときめかないものは捨てなさいという本もあったが、ときめかなくてもいつかは使うかもしれないと捨てられない。
捨てるのをためらう時は、一時保管箱に入れておいて1年経って使うことが無かったら捨てなさい。
でも、捨てられない。
いつかは使うことがあるかもしれないから。
いつかは絶対に来ない、と言われて、わかっているけど捨てられない。
でも、いつかがいつか来るかもしれないと思ってしまうのだ。
そんな私だったが、最近読んだ本だったか、新聞だったか、ネットだったか、なんだったか定かではないが、「 お金を出せば再入手できるものは捨てなさい。必要になったら買えばいい。」という言葉がすっと頭に入り込んですんなり沁み込んでしまった。
「いらないものは捨てなさい」「いらないものをため込んでいると運気が低迷する」「不要なものを捨ててすっきりさせると、運気が入ってくる」「不要なものを保管するのにもコストがかかっている」etc.etc.
溜め込むことはどんなに不合理なことか、捨ててしまうことはどんなに素晴らしいことか、という理屈ばかりを聞かされてきた。
でも、確かどこかにしまってあるはずだと思ってなん十分も時間をかけて探し回って、結局見つからない。
そんなとき、やっぱりとっておけばよかったと思う。
だから捨てられなかった。
だけど「必要な時は買えばいい」と言われてみると、実にその通りだ。
いつまでも使う時は来ない。
いつかは使うかもしれない使われない物が、いつも使う物を隠してしまって、必要なものを必要な時に取り出せない。
しまいこんだ使われないものは、買えば数円数十円のものが多い。
高くても数百円、数千円。
例えば、裏を使おうと思ってとってあるコピー用紙。郵便物の封筒。
使う量より溜まる量のほうが多い。
コピー用紙なんて1枚、1円にもなりゃしない。
傍若無人に送り付けられるDMファックスに未使用のコピー用紙を使われるのがもったいなくて、裏紙を入れていると、大事なFax書類が届いたときコピーをし直さなければならない。
コピー用紙は0.5円もしないがコピー機のトナーは5.6円はする。
おまけにコピ用紙の裏紙は、たびたびコピーを目詰まりさせる。
節約するつもりが、とんだ浪費になってしまう。
いただきものの包装紙や紙の箱や紙の袋。
なにかに使えると思って取っているが、使うときはこない。
ひとさまに、何かを差し上げるのに、使いまわしの包装紙や袋を使うわけにはいかない。
工具箱の中にたまっている、ネジや釘や金具。
結局、使えるものが無くて新たに買って、使った残りが溜まっている。
履き古した下着や靴下、トレーナーが、いつも使っているものを見つけにくくしている。
「使うことになったら、買えばいい」
何冊も「片付け本」を読んできたけど、なぜか初めて聞いたような言葉。
おかげで、今まで捨てられなかったものを捨てることができている。
ワイドナショーの松本氏。森さんの女性蔑視発言問題について、いつもながら結局森さんをうまくかばっているなー
予算委員会で、菅総理の長男が完了を接待した問題を野党がしつこく追及していたが、もっとやることがあるだろう。
野党には、コロナ対策案はないのか。
私は菅政権を批判的に思っているが、菅さんの「長男は別人格」というのは、そのとおりだと認める。
週刊誌の記事を後追いするのは国会議員の仕事ではない。ワイドショーに任せておけ。
今、宮崎県は県独自の非常事態宣言中である。
昨日、知人から食事の誘いの電話が入った。
私は酒を飲まないので、プライベートで食事をするという趣味はないので、通常ならお断りするのだが、無尽仲間の飲食店が困っているので行ってやろうという誘いだったので断れなかった。
8時までの営業ということで5時半の約束だったが、私は30分の遅刻。
5、60人入る店に、お客は私たち2人の他、2、3人連れの客4組。
話の通り閑散としている。
さすがにアルバイトの店員さんは一人しか出勤していないが、客席係が3人、厨房に3人。そして店主夫婦。
1日4万円の給付金が出るが、家賃と合わせて4万円では完全な赤字だろう。
せいいっぱい高額のメニューを注文するが、私も、私を誘った男も酒を飲まないし、大衆店であまり高いべ物はないので大した応援にはならない。
8時までの時短営業だから、2時間足らずで閉店時間。
知人の店と言えども、私たち下級国民はお上の決めたことを忠実に守って8時で店を出されてしまった。
私の自宅兼事務所は町中にあるが、私は夜の街に出歩く習慣がないので、時短営業期間の夜の街の様子を実際に見ていなかった。
それで、私を誘ってくれた知人の車で、街中の飲食街の様子を見に行くことにした。
当地(宮崎県の北端の街、延岡市)は、市役所に近いところに夜の飲食店が集中している区域がある。
私の事務所から橋一つ渡ったところだが、個人的に飲み歩くことはないので、非常事態宣言が発令されてからというものは出かける機会がなかった。
店の灯は消え、人通りは全くない。
通常なら客待ちのタクシーが並んでいるが、それもまばらだ。
そんな状態だったもので、知人は車を歩くくらいのスピードでゆっくり街をまわってくれた。
共用の看板灯が点いているビルはあるが、ビル内に営業している店舗はゼロ。
ぐるぐる待っている間、歩いている人とは一人も遭遇しなかった。
何とも、想像以上の非常事態だ。
当地は、一人、二人で営業している規模の小さい店が多いから、1日4万円の給付金があれば助かる店も少なくないだろうが、従業員を置いているお店の打撃は大きいだろう。
当地のような小さな田舎町は、高級国民が少ないから、一般市民がお上が決めたことを忠実に守る。
だから、抜け駆けして要請を無視して店を開けてもお客さんは来ない。
今日が、宮崎県独自の非常事態宣言を7日で解除するかどうかの判断期限の日になっていたが、私たちが夜の街を見て回っていた8時過ぎの段階ではまだその結果がインターネットでは確認できなかった。
どうなったのかと思って、さきほどパソコンを開いて調べてみたら、7日で非常事態宣言解除となっていた。
よかったと思ったが、非常事態の解除後は給付金の支給は終わる。
解除されたからと言って、人出が急に回復するわけではない。
コロナ、この厄介なるもの。
2月1日に読売ジャイアンツが宮崎にキャンプインした。
新型コロナのせいで、主力選手、ベテラン選手は東京ドームでのキャンプスタート。
宮崎キャンプも無観客開催と言うことで、例年に比べて盛り上がりが少ない。
明日は、サッカーJ1 のベガルタ仙台が当地(宮崎県の北端の町・延岡市)にキャンプインする。
これまた無観客での開催で、写真撮影やサイン等のファンサービスはない。
南国宮崎といわれるが、例年ジャイアンツがキャンプインすると寒さが厳しくなる。
なんでこんなに寒いのに宮崎にわざわざ来てくれるのだろうと、子供のころから不思議に感じていた。
ただ、今年はいつもと違って暖かい。
宮崎県出身で、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)のウルスラ学園から甲子園に出場した戸郷投手は宮崎組。
去年は、かの桑田真澄以来33年ぶりの高卒2年目での開幕ローテーション入り。
開幕から3連勝をあげ、これは桑田越え。
テレビで見る姿も、甲子園に出場した時からするとすっかり体がプロの体に成長しているのがわかる。
暖かい中でのキャンプで、さらに強くなってくれることを期待している。
私は巨人大鵬玉子焼きの世代。
ジャイアンツしか知らないが、ジャイアンツを応援している。
パリーグは九州のよしみでソフトバンク。
サッカーはよくわからないがベガルタだ。
コロナを吹っ飛ばしてくれ。
2月2日。節分。
2月2日の節分は124年ぶりのことなのだそうだ。
そもそも節分とは、各季節の前日のこと。季節を分ける日ということで節分と言うのだ。
立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分なのだが、今間は立春の前日のみが節分と言われている。
私にはくわしいことはわからないのだが、太陽の運行に基づいて4つの季節にわけているらしい。
地球が太陽を1周する時間を1年としているのだが、地球が太陽を1周する時間が365日ぴったりではなく6時間ほど長い。
それで毎年時間がずれてくる。
だから4年に1度うるう年を設けている。
それは知っていたが、立春も少しづつずれてくるのだそうで、今年は立春が124年ぶりに2月3日になる。
従って、2日の今日が節分となるわけだ。
これは国立天文台が決めている。
2日の節分は124年ぶりのことだったが、来年と再来年は3日となり、2025年にはまた2日が節分となり、2日となる年が増えていくそうだ。
私にはあまり影響のないことだが、節分を商売のネタにしている業種にとっては、節分の日がくるくる変わると消費者を巻き込むのには影響があることだろう。
そういえば、今年は例年に比べて恵方巻やバレンタインデーの話題を見聞きしていないような気がする。
宣伝も少ない。
コロナのニュースにおされて、恵方巻やバレンタインデーと言った楽し気な話題をワイドショーがひかえているのだろう。
それとも、私の頭がコロナに占領されて、楽しい話題が頭に入ってこないのかもしれない。
言うまいと 思えど今日も コロナかな
令和3年2月1日。
2月だというのに、朝の気温がやわらかい。
今朝のワイドショーの天気予報で、気象予報士の女性が、「今日は小春日和の温かい1日になります」と言っていた。
高齢者の私は、「またやっておる。若い者はなっちょらん。売れっ子の今日予報士でもちゃんとした日本語をしらんのかい」と一人小言をつぶやくことになる。
小春日和とは、初頭の頃の温かい日を指す言葉だ。
と私は思っている。
ブログに書こうと思ったが、間違っていたら恥を書く。
そこで、グーグル検索。
検索結果の1番目にはウィキペディアの解説が表示された。
ウィキペディアには、「小春日和(こはるびより)は、晩秋から初冬にかけての、暖かく穏やかな晴天である。春先頃の暖かい日と間違えやすいため注意。」
ほれみたことか、春先ごろの暖かい日と間違えやすいとあるではないか。
責任あるマスメディアとして、テレビ局が間違いは正さなくてはだめだ。
と思ったが、私はインターネットの情報がすべて正しいとは思っていない。
ウィキペディアの記事もすべて正しいと思い込むことはしない。
私の長所であり短所だが、なにごとも100%を信じ込まないという性格を持っている。
他の検索結果も確認してみる。
今回の件(小春日和の件)は、それが功を奏した。
検索結果の2番目が、「小春日和」について詳しい記述がされているサイトだった。
このサイトの説明が実に詳細にわたっている。
小春日和について、まずは質疑応答の形で答えている。
まず、
問1 「小春日和」とは,どのような気候のことを言うのでしょうか。
「明鏡国語辞典」第2版 (平成22年 大修館書店)
こはる-びより【小春《日和》】
初冬のころの,暖かくて穏やかな天気。
これだけではすませず、
「三省堂国語辞書」第7版 (平成26年 三省堂)
こはるびより【小春日和】
十一月から十二月にかけての,よくはれた春のような感じがする,あたたかいひより。「―のおだやかな日」
と解説が進む。
続いて,実際の用例を文学作品から見てみましょうと、堀辰雄の小説と島崎藤村の随筆から引用して解説を加えていた。
そして、辞書や実際の用例からも分かるとおり,「小春日和」は,秋の終わりから冬の始め頃に掛けての,穏やかで暖かな気候を指す言葉です。
兼好による「徒然草」の155段には「十月は小春の天気,草も青くなり梅もつぼみぬ。」(訳:(陰暦)10月は春のような暖かな気候で,草も青くなり梅もつぼみを付けた。)という一文があります。
春のように温暖な様子が「小春」と呼ばれ,それが陰暦の10月の別称としても使われるようになったのです。陰暦10月は,現在で言うと,おおよそ11月から12月上旬に当たります。「日和」には「天候」「空模様」や「晴天」といった意味があります。
と、「小春日和」に吉田兼好の「徒然草」まで登場し、もう「小春日和」だけで日本語のオーソリティになった気分にさせられた。
特筆したいのは、次の第2問だ。
問2「小春日和」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
つまり、今朝の今日予報士のように、この時期の穏やかで暖かな天気を小春日和と思っている人が4割強もいるというわけだ。
これについては、平成26年度の「国語に関する世論調査」で,「小春日和」の意味を尋ねた結果の詳細なデータの分析までしていた。
それによると、全体では5割弱の人が本来の小春日和として使っているが、20代では55%、10代においては66%の人が、今朝の気象予報士と同じ使い方をしている。
実に冷静な分析が続き、終わりの方で、「なお,近年,春先でないことは理解した上で,陰暦10月頃(11月~12月上旬)に限らず,寒さの厳しい1月や2月に訪れる暖かな日についても「小春日和」を使う傾向が生じています。」と「小春日和」の使用のされかたの実情を認定していた。
意見が一方に偏らない実にいいサイトだなと思って、このサイトを登録しておこうと思ってサイトのヘッダーを確認してみたら、文化庁広報誌「ぶんかる」とある。
そのロゴのフォントが、若い人の丸文字風のものになっている。
何につけても100%信用できない猜疑心の強い私としては、文化庁を語るフェイクサイトではないかと疑って、さらにこのサイトを探ってみたら、ほんまものの文化庁のサイトであった。
ここで私はようやく、このサイトをブックマーク。
作ったサイトとは思えない、類のない楽しいサイトだ。
時間があるときに、他のページの解説も読ませていただきたい。
お勧めです!
今日からコロナから離れたブログも書こうと思っていた矢先に出会ったサイト。
感謝!
お勧めです!
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