「つらかったでしょうね」という言葉だけ。あとの言葉はいらない。それができないんだなあ。
瀬戸内寂聴さんは、京都嵯峨野に開いた寂庵で毎月1回法話をなさっておられる。(コロナのために今は休んでいるかもしれない)
その参会者の中に、子供や愛する人に先立たれて悲しくてしょうがないと目で訴えてくる人がいることがあるのだそうだ。
そんな人に対する寂聴さんの接し方は、是非私が見習うべき話だった。
寂聴さんは、慰めの言葉は言わなくても「つらかったでしょうね」と抱きしめてあげるのだそうだ。
そうすると、安心して帰ってくれるのだそうだ。
「仏さんがおっしゃってるから安心しなさい」なんて言っても、嘆き悲しんでいる人の耳には入りません。私が手を握ったり、抱きしめたりすることで、みなさん安心してくれます。」と言っておられた。
私が人に悩み事や、悔やみ事の相談を受けた時、私はどう解決したらいいものかを真剣に考え、「こうしたほうがいい」「こんなふうに考えればといい」と精いっぱいの助言をする。
私の考えを受け入れずに、悩み事、悔やみ事を言い続ける相手に対して、私は自分の解決案を強引に押し付けようとしてしまう。
私は相手のために一番良い解決方法を考え抜いた結果なので、相手を自分の考えに屈服させようとしてしまう。
そして、往々にして相談者は相談に乗っている私の考えには応じず、私が人の気持ちのわからない人間だとなってしまう。
そんな時、よく私は家内にこう言われる。
あたみたいに真剣に話をする必要はないのよ。
悩みや不満を相談してくる人は、自分がいかに大変で苦労しているか、愚痴を聞いてもらいたいだけなのよ。
だから、、ふんふん、へー、それは大変だね、あなたが正しいよ、と適当に相槌をうっておけばいいのよ。
愚痴や不満を聞いてもらうだけで気が済むのよ。
というのだ。
しかし私の性格として、相談者が「こんなに嫌な思いをしているのだけど、どうしたらいい」という言葉にとらわれてしまうのだ。
「愚痴を聞いて」と言ってきたのであれば黙って聞く。
しかし相手は、「どうしたらいい?」「どう思う?」と聞いてきているのだ。
その質問に対して私は、どうしたらいいのか、どう思うのかを答えるのが誠意ある答えだと思っているのだ。
家内にそう主張すると、家内は「人は、どう思う?」と言っているけど、解決方法を聞いているわけではないから、「大変だね」とだけ言っておけばいいのだと譲らない。
私も譲らず、かくして見解の相違で夫婦喧嘩となる。
家内の言うことは納得できなかったが、寂聴さんの言葉を聞いて、家内の言い分も納得した。
だけど、それができないんだなあ。
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