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2021年12月

2021年12月31日 (金)

大晦日 年取り 年越し

大晦日。

今年も残すところ1時間となった。

大晦日は、年越し、年取りの日である。

新しい年を迎える前夜で、この日を境に一つ年を取ることになる。

ちなみに数え年の数え方は、生まれた時点の年齢が1歳。

その後、正月を迎えると2歳。

以後、正月が来る毎に1歳を加算する。

お正月で1つ年を取るので、大晦日を「年取り」と言うわけだ。

大晦日は、新しい年の年神様を迎える年越しをするため深夜まで起きているという習慣があった。

子供たちも、この日は夜更かしが許される。

そして待ちに待った楽しいお正月を迎える。

ただ、私の年齢になると、お正月は楽しいばかりではない。

あー、またひとつ年齢を重ねてしまうんだなと、自分の年齢を強く自覚させられるのだ。

幸いこれまで、夫婦ともに大きな病気も怪我もしなかった。

子供も育ちあがって家を出て、今は不自由なく夫婦二人暮らしを楽しんでいる。

二人暮らしをしていて老化を感じるのは、夫婦そろって固有名詞が出なくなったこと。

テレビを見ていて、出演者の名前が思いだせないことが多くなっている。

顔なじみの俳優の名前が、さっと浮かばない時がある。

いっしょにテレビを見ていて、私が思い出せない役者の名前は、たいてい家内も思いだけない。

そんなとき、「あんたもこの俳優の名前を思い出せんじゃろ?」と聞くと、ほとんど正解である。

不思議と、私と家内で、名前を思い出せない俳優、女優、タレントが一致する。

出演者の名前がわからないとき、素知らぬ顔でテレビを眺めながら、相手に悟られないように記憶の箱を探し回って、競争で先に名前を思い出す作業をする。

先に思い出した方がすばやく、「〇〇」と大声で回答。そしてドヤ顔。

勝ち誇って、「うっ、ほっほ。勝った!」としたり顔。

そんな小さな戦いが最近の我が家の流行りである。

 

昔、「零細企業の経営者にはボケはいない。なぜなら資金繰りに頭を使っているからボケるヒマがない」という笑い話を聞いたことがある。

私は金儲けは下手で、家族に贅沢をさせてやれるような経済状態になったことがない。

私は、子供たちには、「我が家は金持ちじゃなくて贅沢な生活をしたことがないから、ちょっと美味いものを食べたときに、こんな美味しいものがあったのかと感動するし、欲しいものを手に入れたときに飛び回りたいほどの喜びを感じられるのだ。最初から金持ちの家に生まれた子供は、生まれたときから美味しいものばかり食べているから、美味しいものを食べても感動しないし、何を買っても飛び回るほどの喜びを感じないのだ」と言ってきた。

家内には、「お金が無い、無いと、不満を言っているけど、お金の心配をして頭を使っているからボケないのだよ。金儲けの下手な旦那に感謝しなさい」などと言ってきた。

そんなこんなではあるが、お客さんに大きな迷惑をかけることもなく、手数料をいただきながらも感謝の言葉をいただく仕事をさせていただいて数十年。

それを誇りに、この年齢まで来てしまった。

 

新しい年を素直にはよろこべない年になってしまったが、まだまだ新たな気持ちで新年を迎える気持ちの方が大きい、大晦日の私である。

 

 

 

 

 

 

2021年12月30日 (木)

年賀状の句読点

 年賀状には句読点はつけないのが礼儀なのだそうだ。

 しかし私は、一時期、年賀状に手紙のような長文の自分の思いを書いていて、その時には句読点をつけていたと思う。

 ここ数年、また儀礼的な年賀状になって、短い添え書きだけだから句読点をつけていない。

 ひょんなことで、年賀状に句読点はいるのかどうかインターネットで検索してみたら、年賀状には句読点をつけないのが礼儀なのだそうだ。

 ネットによると、その理由の一つは、点や丸をつけることは区切りを意味するため、相手との会見が終わるということになり、年賀状に限らず、お祝いの文書には句読点を避けることになっているらしい。

 もう一つの理由は、日本で毛筆で書いていたころには句読点をつける習慣がなく、万年筆やボールペンを使うようになり、本を活字で印刷するようになって、読みやすくするために日本語にも句読点が導入された。

 そんな経緯から、正式な文章で句読点をつけると、相手に対して「点や丸がないと文章が読めない人」と見下すような意味合いが含まれてしまうようになった。 つまり相手の知性に敬意を払うという意味で、年賀状では句読点を避さけるべきだというのである。

 昨今では、なんでもかんでもインターネットでしらべてしまう傾向がある。

 私も、そんな1人である。

 ただ、すべからくインターネットに振り回されてはいけない。

 現時点で、句読点をつけてある年賀状をもらって、「点や丸がないと文章が読めない人と見下されている」と感じて不愉快に思う人がどれだけいるだろうか。

 そんな知識のある人が句読点のある年賀状をもらったとしても、「こいつ、しきたりをしらないな」と思う程度で不愉快に感じることはないだろう。

 しかし、インターネットの情報をテレビが取り上げ、やがてそんな情報が爆発的に拡がってしまうと、「人を見下しているのか」と、事を荒立ててしまう人が出てくる。

 これがネットとマスメディアで作り上げる悪行である。

 最近、若い人のメールやラインや電話で、「かしこまりました」という言葉が使われるようになった。

 同業不動産会社のグループラインで連絡が入ると、若い人たちの返答の多くが「かしこまりました」となっているのだ。

 これもインターネットのせいだろう。

 以前よく使われていた「了解しました」というのは、同僚や目下の人に使う言葉で、目上の人やお客様に対しては「かしこまりました」をつかえとインターネットが教えている。

 ここ1,2年で「かしこまりました」が主流になっていているのはそのせいではないかと私は思っている。

 この、いっせいにかわってしまうというのが、なんとも私は気持ちが悪い。

 10数年前くらいだったか、病院の受付がいっせいに、それまで患者を「〇〇様」と呼ぶようになった。

 それまで「〇〇さん」と呼ばれていたのに、ある日突然「様」と言われたときには違和感があった。

 その後、別な病院に行ったら、そこでも「様」をつけられて呼ばれた。

 その後、いろんな場で、「さん」が「様」になっていったような気がする。

 病院や企業にコンサルタントがついていて、そんな指導をしていたのかもしれないが、その変化がいっせいにというのが私には違和感になる。

 ルールが上から降りてくると、そのルールに従わないものを異端者として排斥する。

 そんな風潮には、私は断固反対だ。

 それが作法だと教えてあげるのはいいが、作法を知らない無礼者だと怒るのは違う。

 

 フィンガーボールの水を飲むという有名な逸話がある。

 ある国の女王が、外国から来た客をもてなすためにパーティーを開いた。

 パーティーのテーブルには、手をすすぐフィンガーボールがあった。

 客人が、知らずにフィンガーボールの水を飲んだのを見て、女王は自分も同じようにフィンガーボールの水を飲んだ。

 作法通りに女王がフィンガーポールで指を洗ったなら、その客はどんな思いをしたことか。

 大勢の人を前にして恥じ入ってしまったことだろう。

 インターネットで知った作法を、押しつけがましく人に強要し、これ見よがしに相手を非難したり罵倒するような風潮が私は嫌いだ。

 女王の行動は、人としての作法だろう。

 作法とは人を不愉快にしないこと。

 私はそう思う。

 年賀状を出し終わっての私の感想。

 

 

 

2021年12月29日 (水)

「去年今年」今年も残すところあと三日

 今年は、12月に入る前から高浜虚子の「去年今年」の句がちらちらと頭の中をよぎっていた。

 しかし、12月に入って後始末の仕事や新たな急ぎの仕事が飛び込んできて、いずれも年内に決着をつけてくださいとの依頼。

 不思議と同じような話が同じ時期に重なるもので、急ぎの新たな仕事はいずれも金額の小さい、いわゆる低廉物件。

 低廉物件というのは、市街地から遠隔の地域だったり、道路が狭かったり、土地が狭小だったり、建物を解体するのが難しかったり、売れにくい問題点をかかえていて真面目に取り組むと非常に手間がかかるのに仲介手数料は10万円ちょっとにしかならないというもの。

 11月半ば過ぎから12月にかけて、そんな話が5件も来た。

 それに加えて買収の依頼。

 買収は手間がかかる仕事だが、金額の大きな話が多いのだが、なんと今回の話は500万円台の話。

 手数料が500万円ではない。取引価格が500万円代なのである。

 なんとこれが今月相談のあった話の中での最高額なのだ。

 もっと私に時間とお金に余裕のある時に来ていただけるとそれなりにありがたいのだが、なんせこの時期、お歳暮、雑用一切も自分一人でやらなければならないので、少し困った話なのだ。

 買収の話は市街地の物件でなんとかなったのだが、他の5件は市街地から遠く、条件的にもすぐには売れそうにない物件なのだが、当事者にとっては「お客様は私一人」。

 皆さん「なんとか早く売ってください」と言ってこられる。

 そんなこんなで、お歳暮を配り終えて年賀状を作り終えたのは27日。

 今日は昼前から、散らかり放題になっている事務所を整理しようという予定だったのだが、そこかしこに置きっぱなしになっている資料や書類の山に、どこから手を付けたらいい者やら呆然と立ちすくんでいた。

 「去年今年」

 今年も今日を入れてあと三日。

2021年12月26日 (日)

薬の飲み忘れ防止法

 最近読んだ「ボケ日和」という本の中に、初期の軽度な認知症の症例として薬の管理ができなくなるという項目があった。

 薬の管理ができないというのは、薬を飲んだか飲んでいないかがわからなくなるということなのだが、私は、昔から薬を飲んだか飲んでいないかわからなくなることがある。

 だから私は、こうしている。

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 薬の取り出し部分に日付を書いたシールを貼っている。

 シールを破って薬を飲むので、飲んだか飲まないかわからなくなることは無い。

 悲しいかな、こうしておかないと「あれ、今朝の薬は飲んだかな」となる。

 ということだから、薬を飲んだか飲まないかわからなくなるのが初期の認知症の症状だとすれば、私はすでに軽い認知症を発していると疑わなければならない。

 しかし私は、私が薬の管理ができないのはADHDの傾向を原因とするものだと考える。

 私は、ずっと以前から自分のことをADHDの傾向があると自己診断している。

 ADHDというのは発達性障害の一つで「注意欠如・多動性障害」とも呼ばれる。

 不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(思いつくと行動してしまう)といった症状が見られる障害で、症状の現れ方によって「不注意優勢に存在」「多動・衝動優勢に存在」「混合して存在」と分類される病気である。

 私は「不注意優勢に存在」の部類だと思っている。

 「不注意優勢に存在」というのは、「不注意」の特徴が強く現れ、「多動・衝動」の特徴があまり強くないタイプ。

 「何事にも集中し続けることが難しい、忘れ物が多い、外からの刺激などですぐに気がそれてしまうなどの特徴があり、一方で、自分の好きなことについて考えたり取り組んだりしていると、話しかけられても気づかず、周囲の人に『無視をした』と誤解されることもある」というものだ。

 症状の前半の部分は、実にその通りである。

 集中を続けることができない。忘れ物が多い。すぐに気がそれてしまう。

 子供のころから忘れ物がひどかった。なにをやっていてもすぐに気がそれてしまって、集中を続けることができない。

 残念ながら、後半部分の好きなことをやっているときは、話しかけても気が付かずに集中しているという部分は違っている。

 私は、好きなことをやっていても、ちょっとした刺激で気がそれてしまうほど、なにごとにも継続できない。

 とにかく私は、忘れ物が多いし、何事においても継続することができない。

 どうでもいいような約束は無論のこと、重要な約束の時間がすっと抜けてしまうこともある。

 ちなみに、私の取り柄は自分を客観的に見れることで、この致命的な欠陥を自覚している。

 だから子供のころから、物忘れと、何事においても継続できないという致命的な欠陥を補うための工夫をしてきた。

 私は、子供のころから計画表を立てるのが好きで、さまざまな手帳や便利グッズを収集するのを趣味みたいにしてきた。

 予定や重要な事柄を忘れないように、いろんな手帳を試し使い方を工夫していたのだが、悲しいかな手帳を見るのを忘れてしまうことが多々あった。

 時計のアラーム機能もりようしたが、昔はデジタル時計は複数回のアラームのセットができるものはなかった。

 懇意にしている時計店の店主に、1日に複数回アラームをセットできる時計を探してくれと頼んでみたが見つからなかった。

 そんな私にとって、携帯電話の登場は願ってもないことであった。

 携帯電話のカレンダー機能を使うと、複数のアラームをセットで来た。

 スマートフォンになってからは、カレンダ機能のみならず、多くのアプリにリマインダー機能がついているから、忘れてはいけないことは、さっさとセットするようにしている。

 私がスマートフォンを使い倒しているのは、私の欠陥を補う手段なのである。

 私は、自分の欠陥を承知しているが故に、それを補う工夫をしている。

 ということで今のところ、私の物忘れはADHDからのもので、まだ認知症ではないと身勝手な判断をしているのだが、このところ実感の不安を抱きつつの日々を過ごしている。

 

 

 

2021年12月19日 (日)

最近の朝の日課

このところ朝の一杯だけ、自分で豆を挽いてコーヒーを入れている。

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このコーヒーミルは中古住宅の売却の際に処分を依頼された荷物中の中から拾ってきた物。

売却したお客さんから不用なものの処分の依頼を受けることがあるのだが、物を捨てることのできない年代の拙は、ついつい使えそうなものを拾ってくる。

まだ使えそうな、本棚。椅子。整理ダンス。ファイル棚。

捨てるのはもったいなくて、なにかに使えるのではないかと思って持ち帰ってしまうのだ。

拙の家内は、いらないものをどんどん処分してしまう性格だもので、そのたびに軽い夫婦喧嘩となる。

このコーヒーミルもそんな収集品の一つ。

何かの贈答品でいただいた物とおもわれる、コーヒーサイホンとコーヒーミルのセットだった。

箱に入ったまま使われないでしまい込んでいたようだ。

新品で捨ててしまうには心が痛む。

持ち帰ったのをみるや、家内からは、「こんなもん使わんじゃろー!燃えないゴミで捨ててよ!」と「!」つきの言葉を次々に投げつけらた。

「いや、たまにはサイホンでコーヒーを入れてみるのもいいかなと思って・・」と言いかける拙を制して、「絶対に使わないよ!」「前に買った電動のコーヒーミルだって使わないまま食器棚の隅に置いてあるじゃない!」「それは邪魔だから自分の部屋に置いておいて!」。

家内の小言は毎度のこと。そんな小言は無視して、毎回サイホンで入れるのは面倒かもしれないが、コーヒーミルはすぐ使ってみようと思っていたのだが、結局使わないまま2年が過ぎていた。

先月、冬物のコートや服をとりだそうと押し入れを整理していて、あのときのコーヒーサイホンとコーヒーミルのセットの箱を発見。

家内に見つかったら、「それみたことか」とひと騒動。

家内にみつからないようにコーヒーミルを事務所に搬入。

コーヒーを豆で売っている店を探して豆を購入。

10日ほど前から、事務所に出勤すると、豆を挽いてコーヒーを入れるのが朝の日課になっている。

ちょっとの手間だが、拙の舌でも明らかに違いの分かるコーヒーに満足している今日この頃である。

2021年12月18日 (土)

ここまでやるか 認諾

  2018年に自殺した財務省近畿財務局の元職員赤木俊夫さんの妻雅子さんが国を訴えていた裁判で、国が突然「認諾」の手続きを取り、賠償責任を認めて裁判を終わらせた。

 「認諾」という手段を拙は知らなかった。

 政子さんは、夫の近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが、誰かに学校法人「森友学園」に関する公文書の改ざんを命じられ、それを苦に3年前に自殺した事実に基づき、国などに対し合わせておよそ1億1000万円の損害賠償を求める訴えを起こしていた。

 これは、赤木さんが自殺にいたった原因について一切答えない国に対して、誰が改ざんを指示したのかなど、改ざんに至る具体的な経緯を明らかにするために起こした裁判だった。

 政子さんの命がけの願いと、それを全面的に支援する人たちの苦労のおかげで、資料を開示が命じられ、ようやく証人喚問が始まると思われたいた矢先の「認諾」の手続きだった。

 「認諾」とは、原告の請求をすべて認めるということ。「原告の訴えの通りご迷惑をおかけいたしましたので損害賠償金1億1000万円を支払いますます」ということだ。

 訴えは、損害賠償金1億1000万円をもとめる民事裁判である。

 被告が「すべて原告の訴えどりおでした。1億1000万円を払います。」としてしまえば、雅子さんの目的は果たせないまま終了してしまうのだ。

 刑事訴訟法では「一事不再理」といって、確定判決がなされた事件については重ねて公訴の提起を許さないとする制度がある。

 これは、憲法第三九条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。 又、同一の犯罪についても、重ねて刑事上の責任を問われない。」により、一度無罪とされた行為を、あとから有罪とされることはないということだ。

 いったん無罪とされたのに、またあとから、起訴されて有罪とされるかもしれないということにおびえて過ごさなくてはいけない。

 また、いったん無罪判決がでてももう一度起訴することができるのであれば、無罪判決が出たあとも被疑者は捜査をされ続けることになってしまうからだ。

 民事裁判には「一事不再理」という考え方はそぐわないが、損害賠償を請求の民事訴訟に対して被告がそれを認め求められた損害金全額を支払います」としてしまえば、それ以上裁判を継続する手立ては無くなるのである。

 今回の国の態度を国民の大多数が疑問に感じるのは、国家賠償請求訴訟において国が認諾という耳慣れない手法で決着をつけたことだ。

 さまざまな国家賠償訴訟において、こんなことはさっさと認めて賠償金を払ってやれよというような事案であっても、国は国の威信をかけて、持てる力を総動員して最高裁判所まで争ってきている。

 なぜか最高裁まで行ってしまうと、国を擁護する判決がでることも多い。

 双方が譲歩して争いを解決する合意をするのが「和解」である。

 「和解」はよく耳にする言葉である。

 なにせ国は、莫大な資金と膨大な自分に都合のいい情報を収集できる立場にある。

 資金的にも時間的にもたっぷり余裕のある国は徹底抗戦をいとわないから、判決までには膨大な時間がかかることになる。

 原告の多くは弱い立場の国民で金も時間も無い。

 解決までに膨大な時間をかけたのでは原告の利益を損なってしまう。

 そこで裁判所が「和解案」を提示し、その和解案をもとに「和解」に合意するわけだ。

 この場合、和解の内容は和解調書に記載され,「和解」として裁判は終了するが確定判決と効力をもつことになる。

 原告が細かい責任追及をしないかわりに賠償金を給付することになったり、責任を認める代わりに賠償金を減額したり、双方がそれぞれ譲歩しての解決となる。

 この問題を知る国民全部が、今回の「認諾」は、文書改ざんを苦に自殺した赤木さんをめぐりる真相解明を避けるためのだと感じているはずだ。

 そんな見え見えの手段をとってまで守りたいものはなにか。

 それも見え見えなのだけど、それでも明らかになるよりはましなのだろうか。

 最近発覚した国交省の統計データー書き換えとか、国を守って支えてきていた日本の役人はどこに行ってしまったのか。

 

 

 

 

 

 

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2021年12月17日 (金)

インフルエンザはどうなった

 昨日、マスコミは国民の不安を煽ってメシの種にしているという話しをしたが、インフルエンザ情報がそれだ。

 オリンピックを契機に爆発的な流行があるかもしれないと騒いでいたが、あにはからんや9月10月とコロナの終息の気配。

 コロナで大衆を怖がらせることができなくなりそうになって久しぶりに表舞台に引っ張り出されたのがインフルエンザ。

 コロナ感染対策でインフルエンザが2年間流行していなかった。

 この2年間で日本人が手にしていた集団免疫の効果がなくなっているから、インフルエンザが大流行するという理屈だった。

 10月に拙はぎっくり腰をやって整形外科に通院していたのだが、その病院は整形外科専門であったのにインフルエンザの予防接種の予約電話がひっきりなしに入っているようだった。

 拙の身の回りでも、今までインフルエンザの予防接種をしたことが無かったのに早々にインフルエンザの予防接種をすませた人が何人かいた。

 幸か不幸か、いまだインフルエンザ流行の兆しは無い。

 気が付くと、インフルエンザについての話題なんて一切耳にしない。

 「インフルエンザの流行を心配していましたが、幸いなことにインフルエンザ大流行の心配は無いようです」と、大衆を安心させる報道をしたメディアはいない。

 インフルエンザの話題にほっかむりをきめこんでいたところに登場したのがオミクロン。

 オミクロンの感染者は、まだ、アメリカやヨーロッパでも、デルタ株の感染者数に比べるとはるかに少ない。

 しかも、オミクロン株は重症者が少ないのではないかというデータも発表されていて、デルタ株の感染の方が怖いという状況が本当の話のようなのだが、世界中に行き渡って知られてしまったデルタ株では民衆が怖がらないので、未知のオミクロンでおどかして恐怖を煽っているのだ。

 オミクロンを騒ぐのも結構だが、ネタにしていたインフルエンザがどうなっているのかきちんと報道しろよ!

 

2021年12月16日 (木)

健康食品にひそむ罠

 食べ物によって病気を撃退し健康な体を維持しようと健康食がブームだ。

 あることがブームで沸くと、片方で文を受けると必ずそれに反論する議論が展開される。

 先日、ある週刊誌の「健康食に潜む罠」という見出しで健康食品に警告を示す記事が掲載されていた。

 過激な見出しが目にとまっり、どんな話か読んでみた。

 その内容はこんなものだった。

 体にいいものを食べようと考えて 逆効果であることも少なくないというのだ。

 この専門家は、体にとって必要なのは何を食べるかよりも何を避けるべきかということだと主張していた。

 そこで週刊誌は食と健康の専門家32人に実は体に悪い食べ物をアンケート取材し、その結果が報じられていた。

 なんと 実は体に悪い食べ物ランキングの第1位が 玄米と大豆だった。

 2番目がマグロ。

 なんとなんと 健康に良い食品の 1と2と重なるではないか。

 健康食品で常にトップを走っているのは 納豆である。

 その納豆の原料の大豆が実は体に悪い食べ物ランキングの1位だと言う。

 その理由は、大豆は食物繊維やミネラルなどが豊富だが消化に時間がかかる。

 高齢者や体調の悪い人にはお勧めできない。

 消化不良になってお腹を壊す人もいる。

 また 精白していないということで、白米に比べ農薬の残留量が多いということ、さらに玄米が含有するフィチン酸という成分が鉄や亜鉛とを結合しミネラルの吸収を阻害してしまうのだそうだ。

 また、白米に比べれば少ないが糖質を含んでおりカロリーは白米とそれほど変わらない。

 さらには、カドミウムの含有率が高く継続して大量に食べると肝臓や腎臓に影響が出る可能性があるというのだ。

 大豆は、大豆のタンパク質は老廃物として腎臓から排泄されるが過剰に摂取することで肝臓に負担をかけ肝臓の機能低下につながるのだそうだ。

 納豆や豆乳などの大豆製品に含まれる大豆イソフラボンは人間にとって必須の栄養素ではない。

 また反栄養素と呼ばれるファイトケミカルが多く含まれ他のたんぱく質やカルシウムマグネシウムなどの吸収率を下げるというのだ。

 マグロについては、良質なタンパク質ではあるがメチル水銀の含有が気がかり胎児には影響を与える可能性があるため妊娠中は一週間に80 G 程度が目安になる。

 マグロのような大型の魚はイワシなどに比べ海洋汚染物質が蓄積しやすい 含有するメチル水銀は一定以上摂取すると脳や脊髄などの中枢神経にダメージを起こすことが明らかになっていると 食べ過ぎは水銀の過剰摂取になるというのだ。

 なんとも、いずれも、混乱をもたらす「ためにする」意見である。

 どちらも、過剰摂取した場合や食べ過ぎた場合という注釈付きの意見である。と拙は判断する。

 この過剰摂取というのは、マウス等の動物実験のデータをもとにしているのではないかと想像するが、重量比で人間に換算すると一日に納豆100バックを数カ月続けて食べるとか、マグロの刺身100人前を毎日数カ月たべさせたデータであることが多い。

 秋口にコロナが収まりかけたとき、今年の冬は2年間放置していたインフルエンザが猛威をふるうことになると警告を出していた医者がいた。

 人は平穏には大きな反応をしめさないが、不安に大騒ぎするして盛り上がりたがる傾向がある。

 だから、人が安心することを許さず、常に恐怖をあおるのがマスコミの仕事。

 事件が奴らの飯の種なのだからなあ。

 そんな情報の中から、どれが本当なのかを見つけるのが、またおもしろいんだなあ。

 こんなことに面白がって時間を費やしているから、肝心な自分の仕事ができない拙なのである。

2021年12月15日 (水)

拙は、「自画じいさん」

 現在拙宅は、拙と家内の二人暮らし。

 二人暮らしだが、夫婦の会話がとぎれることはない。

 拙は人見知りなのだが、周りの人はそれを認めてくれない。

 実は拙は人見知りで交際範囲が極端に狭い。

 人見知りで引っ込み思案で知らない人と話すのが苦手で、その反動で親しくなった人を相手にしたときはおしゃべりになる。

 拙と付き合いのある人は、反動でおしゃべりになった拙しか見ていないので、拙が人見知りで引っ込み思案でおしゃべりが苦手だと言うと、そんなことはないととりあってくれない。

 ただ自分のことは自分が一番知っている。拙が人見知りで引っ込み思案なのはまぎれもない事実なのだ。

 拙がおしゃべりになるのは、相手が親しい人の時に限っている。

 気兼ねをせずに話せる相手が少ないから、話せる相手を目の前にするとおしゃべりになってしまうのだ。

 そんな拙が一番親しくつきあっているのは、とりもなおさず家内である。

 だから、家で家内と二人っきりの時は会話がとぎれることはない。

 娘に言わせると、夫婦ともに相手の話は聞かずに勝手にしゃべりまくっているのだそうだ。

 拙のまわりの男たちは、拙がそんな話をすると、「女房と二人きりでどんな話をするのだ」と聞いてくる。

 知人一人に、温泉が好きで毎週休みの日には近場の温泉に一泊で出かけている男性がいる。

 行先は大分、別府方面が多いくて、移動は奥さん運転の車。

 道程の1時間余、行の車の中での会話は、「昼飯はなんにするか?」だけだという。

 一泊するのだが、食事の時もとりたてた会話もないそうだ。

 彼は自営業で、奥さんもいっしょに仕事をしている。

 何十年も朝から晩まで一緒にいるから話すことはないというのだ。

 もう1人よく顔を合わせる知人男性がいる。

 彼も個人会社の経営者。

 仕事で福岡に出張することがあって、奥さんの運転で行くことがあるそうなのだが、彼も「車中の会話は無い」と言っている。

 彼の奥さんに、「福岡まで4時間なんにもしゃべらないのは苦痛じゃないですか」と聞くと、「24時間仕事中も一緒にいるので話すことはない」と、これまた前出の知人と同じ理論である。

 拙の家庭は、仕事の時間は夫婦が別だから、たまに会ったときは話しがあるのだという。

 説明するのも面倒だから、それには反論しなかったが、それはちょっと違うのだ。

 家内も、人からは「人当たりが良くていい人」ということになっているが実は内向派。

 人に気を使うタイプなのだ。

 拙も、内向派。加えて軽いアスペルガーの傾向があって、知らないうちに相手を怒らせたり傷つけたりする言葉を発することが多々ある。

 拙は、福田康夫さんと同じくらい自分を客観的に見ることのできる体質も持ち合わせているので、拙のアスペルガー的行動について自覚があり、反省をすることたびたびなのである。

 欠点を自覚しているからこそ、見ず知らずの人には気を使う。それで付き合いの浅い相手には気軽に話ができないのだ。

 そんな二人がまったく気を遣わずに話ができる相手だからこそ、夫婦間では遠慮なく日頃溜め込んでいる不満だったり怒りだったり、面白いと思った話だったり、とりとめのないことが吐き出しているのだろう。

 まったく相手のことには気を遣わずに、自分の話したいことだけを話しているのだ。

 それを見て娘は「あんたらのは、会話になっていない。相手の話を聞かずに自分勝手に話しているだけ」と笑うのだ。

 ときどき自分たちでもそれに気が付いて大笑いすることもある。

 勝手な話をしているわけだが、家内は拙の話を「自慢話ばかりだ」とよく言う。

 拙は、事実う事実のままに話しているのだが、家内にとっては自慢話のように聞こえるらしい。

 そんなとき拙は、「拙の普通の行動が人から見ると自慢に見える素晴らしい行動なんだろうな」と言う。

 すると家内は、「それが自慢してるってことよ」と言う。

 そして今朝はこう言われた。「あなたは『自我じいさん』じゃわ」

 「うまい!」

 拙は客観的に物を見ることのできる男!家内に座布団1枚!

 ということで今日のブログ。

 

2021年12月14日 (火)

アベノマスク

 先日、テレビを見ていた時に「あっ!これ、アベノマスク」と思う映像が流れた。

 今、そのことをふっと思い出したのだが、どんな番組で、どんな場面のことだったかは思い出せない。

 コロナ関連の報道番組で、その中でマスクをかけた女性集団がカメラに向かって元気に手を振っているシーンだった。

 つけっぱなしにしていたテレビ番組だったので、番組の内容はわからないのだが、手を振っている女性たちが付けていたのは、口と鼻がやっと隠れるくらいの小さな布製と思われるマスクだった。

 拙は、全員のサイズの小さなマスクに一瞬違和感を感じ、次に「あっ!これはアベノマスクじゃないか」と思った。

 アベノマスクと言えば、拙宅にも2枚セットのものが3セット届いた。

 マスクをとりだして顔につけてみたが、小さくてつけられたものではなかった。

 なにせ拙は、「大顔会の会長」と呼ばれるくらい顔が大きい。

 拙の家内は小顔なのだが、それでも小さくて、「こんなの使い物にならないね」なんて言って、使うことはなかった。

 拙などは、口におしゃべり禁止のためのサロンパスを貼ったみたいで、みっともなくて使い物にはならなかった。

 小学校か幼稚園に寄付したら使う人もいるのではないかなどと言っていたが、そのまま使わずにどこかにしまい込んでいるはずだ。

 日本中がそんな人ばっかりだったようで、身の回りでもアベノマスクをつけている人を一人も見たことはい。

 テレビのニュース番組の中でも、街並みを映す映像にも、安倍さんと安倍さんの腰ぎんちゃくの国会議員以外にはアベノマスクを付けている人が映し出されたのを見た覚えがない。

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           写真=時事通信フォト

 先日のテレビの、あの5,6人(だったか?)が全員小さなマスクをしているのを見たのが、安倍さん以外のアベノマスク着用者を見た初体験だったような気がする。

 そういえば、ちょっと前になるが、アベノマスクについてこんな報道があっていた。

 『安倍政権下で新型コロナウイルス対策として全世帯や福祉施設などに配るために国が調達した布マスクについての、会計検査院が調べたところ、計2億9千万枚のうち3割近い約8300万枚(約115億1千万円相当)が今年3月末時点で倉庫に保管されていたことが27日、関係者への取材でわかった。保管にかかった費用は、昨年8月~今年3月で約6億円に上るという。』

 浪費してしまった500億円は仕方がないにしても、使われずに保管しているマスクがまだ8300万枚もある。

 なんとも、もったいないのはその保管費用が8カ月で6億円。

 1年に換算すると10億円もの保管費用がかかる。

 保管費用は今後もかかっていく金なのだ。

 磯崎仁彦官房副長官は布マスクの保管状況や費用について「おおむね事実」と認めたうえで、「調達等について特に問題があったと考えていない」と述べているそうだ。

 また厚労省は「保管費はかかるが、税金で買ったので簡単に捨てられない。有効活用を考える」としているのだそうだ。

 倉庫に保管しているマスクを処分してしまえば115億円の税金の無駄遣いになるのだろうが、使い物にならない代物だから余っている。

 ウイルス感染対策に有効なのは不織布マスクだとの判断が出ているのだから、無理やり「有効利用を考える」ためにさらなる予算を使わない方がさらなる税金の無駄遣いをせずに済む。

 焼け石に水ではあると思うが、安倍さんと「安倍派」の議員さんたちはアベノマスクを大量買いして、安倍派のシンボルマークとして顔につけて活動するいい。

 阿部さんが日本中の多くの安倍シンパの方に呼びかけて、一人100枚づつ購入してもらえれば8000万枚くらいすぐに片付くのではないか。

 なんといっても、安倍さんがアベノマスクをつけている姿は、ユーモラスで人の心をやすらげてくれるんじゃないかと思いますよ。

2021年12月13日 (月)

朝のウォーキング参拝は7時までに!

 久しぶりに、歩いて朝の神社参拝をしてきた。

 先々月、ぎっくり腰をやって10分以上は歩けなくなった。

 それ以来、ウォーキングアプリで確認すると一日の歩数は2000歩足らずしか歩いていない。

 秋の陽はつるべ落としというが、人生の秋の体力もつるべ落とし。

 2カ月くらい体を動かさないでいただけで、足腰が弱ってきたのを実感していた。

 加えて心肺機能も落ちたようで、自宅に階段の上がり下りに息切れを感じるようになってきた。

 今回のぎっくり腰では、いい病院に出会って、このところ、腰の調子がずいぶん良くなってきた。

 軽くウォーキングでも始めようかなと思っていたのだが、今朝は、ちょっと早めに目が覚めたのでウォーキングがてらに歩いて今山神社参拝に出かけてみた。

 6時半、自宅を出ると通りには歩く人はいない。

 神社の入り口の大鳥居まで自宅から徒歩で2,3分。

 大鳥居をくぐると、社殿まで長い昇り階段。

 息を切らしながら誰もいない深い森の木々に囲まれた長い石段を登るのだが、それがなんとも気持ちがいい。

 その気持ちよさを味わいたくて、今年のその日から今日まで毎日朝の参拝を続けていたのだが、お世話になっているお医者さんから、年をとっての階段登りは膝に悪いと言われてやめていた。

 久しぶりの朝の参拝。

 冷たい空気が体中の悪い空気を入れ替えてくれるようで気持がいい。

 参拝が終わると7時をまわる。

 7時過ぎると通りを人が歩き出す。

 当地(宮崎県の北端の町・延岡市)のような田舎町では、通勤にはほんとどの人が車を使うので、歩いているのは、神社から100mくらい先にある、わが母校岡富小学校に登校する小学生たちだ。

 それに交じって岡富中学の生徒と自転車通学の高校生だ。

 通りを人が歩きすと困るこのが、横断歩道でしっかり信号を守らなくてはいけなくなること。

 拙は、見通しのいい横断歩道では、車の姿が見えない時は赤信号でも平気で道を渡ることにしている。

 拙は、信号は自分の身の安全のため設置しているものだと理解している。

 人が車にはねられないように赤信号で車を停め、その間に人が道を横断するというのが信号の役目だ。

 当地のような田舎町では、幹線道路以外の道では、信号が2、3回変わる間にまったく車が来ない道がある。

 早朝や、夜ともなると、10分以上車が通らないこともざらだ。

 車の影も形もないのに、横断歩道の信号が赤だったら止まらなくてはならないという規則にしばられるのは不合理だと思っているのだ。

 だから拙は、安全が確実に確保される状況においては、臆することなく赤信号を無視することにしている。

 IPS細胞でノーベル賞を取った山中教授が、高校生を前にした講演で「(山中教授が)高校生の時代の先生から、絶対に車の来ない道路の横断歩道で、赤信号を守るような人間になるな」と言われたというような話をしているのを聞いて、拙は「そうだ!そうだ!」と自分の行動に自信も持ったものだ。

 ノーベル賞をもらった人が言っているから正しいというわけではないが、拙は、完全なる安全が確保されと判断した場合は赤信号は無視することにしている。

 これは拙の主義であり、それが正しいと思っている。

 しかし、小学生・中学生の前では違う。

 小学生・中学生の姿が見えるところでは、拙は、こんなのおかしいなと思いつつ、不承不承ではあるが信号が変わるのを待つことになる。

 そんなときの写真がこれだ。

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 絶対に車が通ることのない道路で、小学生のグループが赤信号待ちをしている。

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 この横断歩道の道幅は4mくらい。

 この横断歩道から左側は商店街となっていて、車は進入禁止。

 だから、この横断歩道に向かって車が突進してくることはない。

 ただし、商店街の中に商品や荷物を搬入するための許可車両は通行できる。

 めったに車が通ることはないが、たまには通ることもあるから念のために歩行者用の信号機がついているのだろう。

 拙の自宅兼事務所は、この横断歩道から100mくらいのところにある。

 拙は、この横断歩道をよくわたっているのだが、小中学生がいないときはこの信号はまったく無視している。

 拙がこの信号を車が通っているのを見たのは、この数年で1度だけ。

 恐らく、ここを出入りする車のための信号機なのだろう。

 だから、人間の安全を考えてのことであれば、ちゃんと状況を観察すれば無視していい信号なのだ。

 固くそう思うのだが、でも拙は、小中学生が信号待ちをしているときは、子供たちの後ろでじっと耐えて信号が青に変わるのを待っている。

 それが嫌で、以前朝の神社参拝をしていたときに、参拝は7時までにすませていたのだったなあ。

 

2021年12月 9日 (木)

脊柱管狭窄症再発 回復中

 2,3カ月前から脊柱管狭窄症の症状が悪化していた。

 私は大きな病気や怪我をしたことはないのだが、腰痛が若いころからの持病で、腰痛を抱えながらの生活が身につけてきた。

 脊柱管狭窄症というのは医師の見立てではなく私の自己診断によるものだ。

 腰痛と言うと、最近では脊柱管狭窄症が主流の病名になっている。

 私が最初のぎっくり腰を経験した高校生の頃は、腰痛の主流は椎間板ヘルニアだった。

 確かに高校生のときのぎっくり腰も、その後数度経験したぎっくり腰も椎間板ヘルニアにみられる症状だった。

 突然腰に激痛が走り、動くと頭の先からつま先まで電流が走る。

 動くこともままならず、ギブスで腰を固め、学校を休むことはしなかったが、部活は中止、体育の授業は見学だった。

 体が硬いのが原因なのかもしれないが、それ以来何度か軽いぎっくり腰をやった。

 その都度整形外科や整骨院で治療したが、私の独断的結論は、ぎっくり腰は病院や整骨院では完治しない。

 要は安静にして自然治癒を待つしかないというものだった。

 40代の頃にひどいぎっくり腰をして、このときは歩いてトイレにも行けないほどの重傷だった。

 医者にはしばらく入院した方がいいと言われたが、入院しても痛みが激しい間は特別な治療ができるわけではなく、当面は患部を固定し痛み止めの注射と飲み薬、それと筋肉を柔らかくするという薬や血行を良くする薬を飲みながら安静にして回復を待つだけ。

 それなら自宅で安静にしていても同じことと、通院しながらシップと薬をもらって自宅で安静にし、症状が安定するのを待った。

 幸い職業的に力仕事をするわけでもなく、立ちっぱなしになることもないし、歩き回らなくてはいけないわけでもない。

 2週間ほど自宅で安静にして傷みが和らぎ、車の運転ができるようになった。

 腰に負担をかけないように、そろりそろりと歩くことはできるので、ゆるりゆるりと仕事に復帰していった。

 このときは、よたよたと歩けるようになるまでに数カ月かかった。

 以来、何度か仕事を休まないといけないようなひどいぎっくり腰を経験したが、手術はしていない。

 当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の外科医院すべてで診てもらったが、病院の治療で病状が改善したという感覚は無い。

 どの病院でもやるのは、痛み止めの注射と飲み薬、それに筋肉をやわらかくするという注射と薬。

 あとは理学療法という名の牽引や温熱治療。

 目に見えて病状が改善することはなく、拙は、結局は自然治癒力によって回復してきたのではないかと思っている。

 ということで私は、以来50年余、腰痛とともに生きてきた。

 腰痛との長い付き合いの中から、腰に負担をかけない生活を身に着けてきた。

 しかし、どんなに気を付けていても、ぎっくり腰はふとしたタイミングで発症する。

 先月、夜の食事のときに、ちょっと物を取ろうと手を伸ばしたときに腰に電気が走った。

 まずい、と思ってすぐに安静の姿勢をとって横になった。

 仰向けはダメ。うつ伏せはもっとダメ。

 腰を丸くして、胎児のような姿勢で、体を横向きにして寝る。

 その姿勢でしばらく安静にしていた。

 痛みが少し和らいだ気がして、少し体の向きを変えようとしたら、またしても電流が走ったような激痛が全身を貫く。

 その日は土曜日。

 次の日曜日は病院は休みだから、終日自宅で安静に寝て過ごしたが、寝返りをうつにも苦労するような状況だった。

 果たして、次の月曜日。朝、腰が痛くて身体を起こすことができない。

 ごろりと体を転がして、うつ向けになり、四つん這いになって四肢をつかって体をもちあげ、じわじわと立ち上がらなければならない。

 これではどうにもならない。

 かくして、月曜日は臨時休業。

 その日も安静に、横になって過ごした。

 次の火曜日、朝、すぐに立ちあがることはできない。

 やはりうつむき状態から四肢を使って立ち上がった。

 それからは、そろりそろりと足を動かしてみた。

 痛いがなんとか動ける。

 簡単な朝食をすませ、バイクにまたがり病院へむかった。

 腰をかがめることができないから、車には乗りこめないのだ。

 とりあえずは痛み止めの薬をもらおうと思って、これまでに何度もかかったことのある、家から近い整形外科に行った。

 バイクを倒したら大変。気を付けて、ゆるりとした運転で病院に到着。

、よろよろと病院の玄関にたどり着くと、玄関には白衣をきた受付が待機していた。

 コロナ感染予防のための門番役のようだ。

 腰をかばいながら、よたよたとした足取りでやっとたどり着いた私の姿を見ていながら、「今日は、どのような要件ですか?」なんてことを聞いてきた。

 拙は、一瞬あっけにとられた。ここは病院ではなかったのか。なんと答えていいものか答えに窮した。

 「見て、わからんのかい」と思いつつ、「ぎっくり腰をやったようで診てもらいたい」と告げると、それなら裏の方の整形外科の受付に回ってくれという。

 この病院は、内科と外科に分かれているのだが、拙は何度もきているので、内科の玄関からも外科にいけることは知っている。

 それなのに、整形外科の所信であれば、裏にまわって受付をしてくれと言う。

 車で来ているなら、車も裏にも駐車場があるのでいどうしてくれとのこと。

 しかたがないので、じわじわと駐車場のバイクまでもどることにした。

 亀のようにのそのそと歩きながら、拙の様子を見て「どのような要件ですか?」などと言い、歩くのにもままならない拙の身体を心配する言葉もかけることなく、裏に回ってくれと言うような受付のに怒りがわいてきた。

 どうせバイクで移動するのなら、バイクで5分ほどのところにある新規開業して1年の整形外科まで足を延ばすことにした。

 腰痛や頸椎の手術もうまいと評判の整形外科だということは知っていたが、患者が多くて1時間2時間待ちになることもあるということだったので、あえて今日は近場の病院に来たのだが、この際、評判の病院に行ってみようと思ったのだ。

 そもそも、性格の悪い拙は、これまでの経験で医者を全能だとは思っていない。というかあまり信用していない。

 しかし、拙にとって今回の決断は正解だった。

 この病院は拙には大正解。

 納得いく診断の説明と、処方してもらった薬が拙には合っているようで、この1カ月でいままでに経験したことのない劇的な回復をしてきている。

 とくに、今日は朝から終日、腰の痛みを忘れていた。

 という、嬉しい昨日のできごとでした。

 

2021年12月 8日 (水)

やっと冬らしい寒さになってきた

 テレビのお天気番組では今年は厳冬という予想だった。

 それを正当化するかのように、「寒い」「寒い」「真冬の寒さ」なんて騒いでいるが、少なくとも当地(宮崎県の北端の町・延岡市)には真冬は来ていない。

 拙は、雨の日以外はバイク(大型スクータ)で移動しているのだが、まだ手袋をしないと耐えられないという寒さを感じていない。

 しかし、遅ればせながら、当地にも冬の寒さが到来しそうだ。

 夕方からぐっと冷え込んできた。

 明日は、初手袋、初ダウンコートになりそうな予感。

 寒いのは嫌だが、冬は寒くないといけない。

 そんな今日の出来事。

2021年12月 7日 (火)

いつもテレビを邪魔する

 今日のブログの更新をしていなくて、さてなにを書こうかと思って、管理画面で過去の投稿記事一覧を見ていたら、公開ボタンを押し忘れて下書きのままになっていた記事があった。

 記事の題名は「いつも邪魔する」だった。

 どんな内容だったのかと思って記事を開いてみたら、こんな写真だった。

 拙宅に最後に来た猫「サンタロウ」。

 こいつが、いつもテレビ台の前に座り込んでテレビ鑑賞?を邪魔するのだ。

 

20210413_213113

 そのワンショット。

 拙宅にいる3匹の猫気の中で一番の新参者。

 先輩猫を押しやって天下をとっている。

 立ち姿がきれいだったので撮った写真だった。

 いかにも天下をとったぞという生意気な態度。

 猫ってやつは、かまってもらいたいと、人の邪魔をしにに来るのだよなあ。

2021年12月 6日 (月)

物盗られ妄想への心得

 「あんな大事なことをなんで誰も教えてくれないんですか?」

「ボケ日和」の著者、認知症専門医の長谷川嘉哉さんは、聴講者からこう言われた。

 講演での物盗られ妄想の話についてのことだった。

 物盗られ妄想というのは認知症で出てくる症状のひとつで、財布を取られた、物を盗まれたと思い込む妄想のことだ。

 この物盗られ妄想は患者さんが一番頼りにしている人に対して出てくるという多々迷惑な特徴がある。

 この聴講者は義母を介護していた女性で、お義母さんから、「あんたかお金を取った」「この泥棒が」と何度も激しくなじられた。

 長谷川さんの話を聞くまで、この女性はお義母さんにずっと憎まれていると思っていた。

 何で一番世話をしているのに自分が憎まれるのだろうと思っていた。

 長谷川さんの話を聞いて心がスッとした。

 この話をもっと早く聞いておけば、お義母さんにもっと優しくできたかもしれない。

 そう思ったら切なくて、どうしてそんな大事な話を誰も教えてくれないのだろうということだったのだ。

 長谷川さんは、この認知症の「物盗られ妄想」の話を必ずする。

 この話を聞いた後の介護者は、お金を盗られた妄想で迫られたとき、「来るぞ来るぞと思っていたところに先生の話していたことと同じことを言われた」と苦笑いで対処できたという。

 拙は心配性で、怒りもしないトラブルを想定しながら仕事をする性癖がある。

 これは生まれつきの性癖で、すべてのことについてありとあらゆるバターンを想定するもので、9割以上問題がないと思っていても、万が一、1万分の1の可能性でも起こりうる不測の事態も想定の一つとして考えてしまうのだ。

  万が一が起こったらこうしようと心づもりをしているだけなのだが、人と組んで仕事をしているときなど、その万が一の想定を口にすると相手は拙がマイナス思考な人間で失敗ばかりを気にしていると勘違いされることもある。

 そんな細かいことを考えて生きていると疲れないかと聞かれることもある。

 しかし、あれこれさまざまなパターンを考えるのは、拙がこれは生まれてからずっと私が性分として無意識のうちにやってきたことで、拙は人が思うような重大事には考えていない。

 拙は、突然考えてもいなかったトラブルが発生するとパニックをおこして人の数倍も気に病む性分なのだ。

 いろんな想定をしておけば、想定内のことだと対処できる。

 このやりかたが拙には生きやすいやりかたなのだ。

 「ボケ日和」の長谷川さんの「物盗られ妄想」のエピソードを読んで、拙の、あれこれさまざま想定はこれに似ているなと自己満足の今日の出来事だった。

2021年12月 5日 (日)

自分の年齢を感じてしまう、三省堂新語大賞??

 今年は、拙も納得の「流行語大賞」だった。

 拙が言う、「新語・流行語大賞」というのは、自由国民社がその年1年間に発生した「ことば」の中から選考し、その「ことば」にかかわった人物、団体を顕彰するとされている賞。2004年よりユーキャン新語・流行語大賞に改称している。(ウィキペディアより)

 最近テレビで話題になる「流行語大賞」には、「ユーキャン」の冠がついている。

 拙の記憶では、「流行語大賞」は自由国民社の主催だったはず。

 自由国民社がユーキャンに身売りしたのかと思ってググってみたら、主催は、変わることなく自由国民社であった。

 ユーキャンはスポンサーとなっている。

 2004年からユーキャンがスポンサーになったようだ。

 

 この賞とは別に、2021年を代表する言葉(日本語)で、今後の辞書に掲載されてもおかしくないものを発表する『三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2021」』なる選考発表会が行われていたという記事を見た。

 どうやら「ユーキャン新語・流行語大賞」とは別物のようだ。

 「今年の新語」は一般公募などで寄せられた候補の中から辞書編纂(さん)のエキスパートたちが選定。選ばれるのはあくまで「今年広まったと感じられる新語」で、必ずしも「今年生まれた言葉」とは限らないため、その年話題となった新語・流行語を決める「ユーキャン・新語・流行語大賞」とは一線を画する、のだそうだ。

 そのトップ10は次のとおりだった。

『三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2021」』トップ10
大賞:チルい
2位:〇〇ガチャ
3位:マリトッツォ
4位:投げ銭
5位:人流
6位:ウェビナー
7位:ギグワーク
8位:更問い
9位:おうち〇〇
10位:Z世代

トップ10で、拙がわかる言葉は2位の「〇〇ガチャ」と4位の「投げ銭、5位の「人流」。

大賞の「チルイ」はみ身にしたこともない言葉だ。

『チル・い (形)落ち着く意の「chill out」のチルを形容詞化したもの。音楽などで、心身の緊張を解くようなと、心地よさが感じられる様子だ』「新明解国語辞典」編集部とある。

 すでに「新明解国語辞典」には取り入れられているのだろうか。

 トップ10のほとんどを異国の言葉のように感じてしまうのは、拙が老人なのか。

 なっとくのいかない新語・流行語である。

 本来の日本語を大事にするべきじゃないのかと怒りを感じるのも老人の馳せる思いか。

 

2021年12月 2日 (木)

納得 今年の流行語大賞「リアル二刀流/ショータイム」

 いつも、スキッと納得のできない「流行語大賞」。

 今年の大賞は文句なし!

 「リアル二刀流/ショータイム」

 コロナ、コロナで不安を抱えるなか、テメーのことしか考えていない政治家や医療権利者たちの立ち回り。

 大半の人は困窮しているのに、ばらまき政策に乗っかってうまい汁を吸うヤツらを、ただ見過ごすしかない腹立たしさ。

 そんな閉塞間の中で、ひときわかがやいていた大谷翔平選手の活躍は、誰もが明かるい気持ちにさせられた。

 普段野球に興味を持たない人まで、毎日の大谷選手の活躍のニュースを楽しみにしていた。

 何と言っても、本人が楽しそうに野球をしているのがいい。

 いつもニコニコしていて、本当に野球をするのを楽しみながら、さらに、ひたすらに上を目指しているところがいい。

 「コロナで苦しむ皆様に元気を与えたくて・・・」なんて言わないところがいい。

 来年も、さらなる高みをめざして活躍してくれることを願っている。

 

2021年12月 1日 (水)

今年最後の「一日(ついたち)」

 今年最後の一日(ついたち)だ。

 不安を書き連ね、不平不満をぶちまける。繰り言、非難、批判することならたくさんあるが、月の初めくらい前向きなことを言いたい。

 良いことを書こうとすると、なかなか筆が進まないというのか、キーボードを打つ手が進まない。

 ずっと、流行りの言葉でいうと「終活」に関連する記事を書きたいとも思っているのだが、どうにもそれにも集中できない。

 きれいにまとめようとするから、まとまらない。

 昨日は、思いつくままに、自分のために書き留めていこうと思っていたのだが、それがなかなかできない。

 

 今年中に仕上げたい仕事が2,3件あって、それに気持ちが割かれるからだと言い訳。

 年内にあと2本。とりあえず、そちらのほうが大事。

 ということで、まだやる気のある今日一日。

 

 

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