突然、すっと女性のお客さんが入ってきた。
当社の入り口は自動ドアではない。
全面透明ガラスの引き戸で、お客さんは入る前に一瞬立ち止まって中の様子をうかがいながら入ってくる。
さらに少々ドアが重いせいか、お客さんがドアを開けて入ってくるまでに一瞬立ち止まる瞬間がある。
今日のお客さんは、ドアをすっと引きながら、さっと入ってきた。
そして、こちらから声をかける前に「物件はありますか」と抑揚のない声で聞いてきた。
ここで普通なら私は、「物件ってどんな物件何だい。物件もいろいろあらーな」と思いながら、「どういった物件をお探しですか」と聞くことになる。物件と言っても、賃貸、売買、土地、新築住宅、中古住宅、戸建て、マンションといろいろある。
ところがこのお客さんは、私が言葉を発する間もなく、「駅に近いところで3万円のアパートを探してるんですけど、なにかいい物件はありますか」ときた。
駅に近くて3万円の予算と言うと、私の会社が家主となっている物件がある。
延岡駅まで徒歩2分。家賃3万円。ただし駐車場が無いので、しばらく空いたままになっている。
私の不動産屋としての感では、このお客さんは市外、おそらくは県外からのお客さんで、車は無いのではないか。
それなら、6畳に3畳のキッチンの1のアパートでちょっと狭いかもしれないが、条件と家賃は合っている。
「駅から2分くらいところに3万円の物件がありますよ」というと、「新しいですか?」ときた。
3万円の賃貸物件と言うと、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)のような田舎町といえども低廉な部類の物件。
古い、狭いという物件となる。
田舎で賃貸家主間の競争が少ないせいか、私は、わが町の賃貸物件の家賃は所得に対して高いように感じている。
「3万円のお家賃だと、新しい物件というのは少ないですよ」と思ったがそれは口にせず、「古いです」と端的に答えた。
築30年を超しているが、中は3万円ならそこそこだと思っている。
このお客さんは、当地の状況もよくわかっていないようだし急ぎのような感じもする。
当社は現在あまり賃貸物件の斡旋はやっていないので、通常なら当社から歩いても3,4分のところにある私が元勤務していた会社を紹介するところなのだが、家主としてこの物件はぜひ見てもらいたい。
このお客さんの雰囲気では気に入らないだろうなと思いつつ、物件の写真等を見せてないようを説明。
気に入らなければ、そのままその不動産会社を紹介しようと思っていた。
するとお客さんは、「案内してください」と、無機質な声で言う。
場所を気に入ってもらえばめっけもの。
当社が家主だから、要望があれば極力それに合わせるつもりで案内した。
当社から車に乗ってもらって、1分程度で現地に到着。
物件は3階。エレベータは無い。
室内に入るなり、「古いですね」ぼそっと言われる。
「はい。古いことは古いです。」と答えるしかない。
だって築30年余なのだから。
お客さんは、さっさと部屋を出て行った。
私は、戸締りをしてお客さんのあとを追う形になった。
このお客さんは足が無いようだが、私の出身不動産会社までなら歩いても4,5分。
ついでのことに私の車に乗せてお連れしてあげようと思って車に戻ったら、お客さんの姿が無い。
窓を閉め、戸締りをしていたけど、お客さんがいなくなってしまうほどの時間はかかっていない。
車に乗っているのかと思ったが車の中にはいない。
車のまわりを見回すが、お客さんの姿が無い。
このアパートは1階が飲食店で、2階、3階がアパートの雑居ビル。
小さなアパートだから2階で迷子になっていることもないはずだ。
1階の飲食店でも見て回っているのかと思って1階をのぞいてみたが、ここにもいない。
一瞬狐につままれたような伏木な気分になった。
がてんがいかず、きょろきょろとまわりを見回すが姿が無い。ミステリーゾーンに入ったような錯覚に陥った。
ふっと駅の方をみると、100m先位に、この女性と思われる人の後ろ姿。
物件を案内して、言葉を交わすことなく置いてけぼりにされたのは初めての体験。
悪徳不動産屋としては、普通に案内したつもりだったのだか、なんか気に障ったことでもあったのか。
アパート前の道路は一方通行。
すぐ車を発車させるとこのお客さんに追いつく。
気の弱い私は、このお客さんに声をかけるのもためらわれて、女性が道路の角を曲がるのを待って車をスタートさせた。
車で角を曲がるとき、お客さんの歩いて行った方を見てみたら、その女性は公衆電話に入ろうとしていた。
携帯電話を持っていないのだろうか。
どこかいい部屋が見つかっているといいのだが。
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