一日、月立、 朔
今日は6月1日。
いつもながらではあるが、私にとって1日は特別な日。
6月1日の「1日」は「ついたち」
小学校の時に先生から日にちの「1日」は「ついたち」と読まなくてはいけない。
日にちを言う「1日」「2日」「3日」「4日」「5日」「6日」「7日」「8日」「9日」「10日」は、「ついたち」「ふつか」「みっか」「よっか」「いつか」「むいか」「なのか」「ようか」「ここのか」「とおか」と言うのが正しい。
「いちにち」「ににち」「さんにち」なんて言ってはダメですよと教えられ、今でも、日にちを言葉にするたびに先生言葉をを思い出す。
「今日は6月1日」の「1日」は「ついたち」と読んでもらえるだろうが、「私にとって1日は特別な日」という文章の「1日」を「ついたち」と読んでもらえるのか気がかりだ。
「ついたち」と読んでもらいたい「1日」を使う時は(ついたち)と読み仮名を入れたくなる。
ちなみに「ついたち」は「月立」「朔日」という漢字も充てられる。
「月立」は、なるほど「だから、ついたちと言うのか」と思える漢字だが、果たして一目で「ついたち」と読んでもらえるのか。
「朔日」にいたっては、読めない人も多いのではないかと言うほどなじみの無い感じだ。
ということで、「私にとって『1日』は特別な日」という文章を書くとき、「1日」には(ついたち)と読み仮名を添えたいと思ってしまう。
私にとって特別な日というのは、この年になるまで、なにごとも3日坊主で思ったことが継続できない質で、これは私が最近流行りの体質(症状)ADHDの性ではないかと言い訳しているのだが、すぐに中座したものを、年単位では毎年元日、月単位では「ついたち」、週単位では月曜日にリセットを続けてきていて、すべてをリセットすることのできる特別な日ということなのだ。
ということで「1日」の今日、気を取り直して、中断していたブログを久々に更新している。
この数カ月、毎日なにかと忙しくて日々の仕事に追われてあっという間に日にちが立ってしまうという感じなのだ。
その感覚を、前回の5月21日のブログに「ジャネーの法則」という題で書いた。
とにかく、最近は、1週間が日が1日の感覚で過ぎ去ってしまう。
3,4日前のことのように思って、手帳やスマートフォンで自分の行動を遡ってみると、20日1カ月前のことだと思い知らせれ愕然とする毎日なのだ。
ともあれ、今日は「1日(ついたち)」
吉田拓郎の「今日まで、そして明日から」の歌のフレーズが頭の中に流れる。
『私は今日まで生きてみました
そしていま私は思っています
明日からもこうして生きていくだろうと』
吉田拓郎の歌の意味とは違うのだけど、この年になって(実年齢は言いたくないが)も「明日から、明日から」だなあと、つくづくあきれている。
さあて、今日から、明日から。
お前たちは、いいなー
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