しばらくブログの更新から遠ざかっていたという意識はある。
ということで久々にブログのページを開いてみた。
私の意識では4,5日は更新してなかったなという感覚。
パソコンを開いてみて驚いた。
前回の更新から1週間以上経っている。
時間があっという間に過ぎてしまう今日この頃。
仕事についても同様。
しかし、仕事で8日も時間の空白をけてしまうわけにはいかない。
だから仕事については、手帳に記録することにしている。
記録をもらしてしまうと大変。
と思いつつ、後で記録しておこうと思って記入してないこともたびたび。
こんなときには、あわててしまう。
それを補うのが、スマートフォンのメモ機能やら、スケジュール機能。
中でも頼りになるのがスマートフォンの通話の全録音機能。
通話内容を確認してメモ漏れの保管をしている。
通話内容の全録音機能はすこぶる便利のいい機能で、電話での会話はいちいちメモしなくてもいい。
通話相手の電話番号や住所を聞いたり、時間の待ち合わせをする際もメモをしなくていい。
これに慣れてしまって、ついつい会社の固定電話で話をするときにメモを取り忘れることがあるので、固定電話にも全部録音の機能のある電話機を導入している。
自分に自信がないもので、こんな便利な器械の機能を利用してなんとか支障なく仕事を続けている。
さて、明日から忙しくなりそうな1週間が始まる。
お前が一番いいよなあ
くる黒田東彦日銀総裁が、自身の「家計が値上げを受けいれている」という発言について、「まったく適切でなかった」と撤回した。
黒田氏は6日の講演で、東京大学の渡辺努教授の家計への調査を引用したもの。
「なじみの店でなじみの商品の値段が10%上がったときにどうするか」との問いに、「他店に移る」と回答した割合が昨年8月に比べ、今年4月は減少したことなどを踏まえ、「家計の値上げ許容度も高まってきている」などと発言していた。
発言については、相次ぐ値上げで家計の負担が増す中、認識がずれているとして批判が高まっていた。
衆議院財務委員会で「消費者と認識が違う」などと発言の撤回を求められる等、批判の声は高まるばかり。
それに応じる形で謝罪したのであるが、偉い人たちの謝罪会見というのはどうしてこうも反省のかけらもないものになるのだろう。
黒田氏は「家計が苦渋の選択として値上げをやむを得ず受けいれているということは、十分認識している。家計が値上げを受けいれているという表現は適切でなかった。誤解を招いた表現で申し訳ない」と述べた。
十分認識しているというのは嘘だろう。
自分にとって都合のいい調査結果が発表された。
それが権威ある『東京大学』の『教授』から発表したされたものだと言えば、平民はそれに屈服するだろう。
そんな浅はかな魂胆だったのだろう。
あにはからんや、調査結果の反応を見間違えたのはお山の大将の総裁とその周辺だった。
お偉いさんたちの謝罪の定型句のように、「誤解を招いた表現で申し訳ない」と結んだが、「誤解を招く表現になってしまった」というのは、「自分は間違ったことは言ってない」という言い訳。
まったく謝罪にはなっていない。
平民は誤解なんかしていない。
平民は、あんたらが思っているよりずっと賢いのだ。
「あなたの認識は間違ってるぞ」と、全員で糾弾しているのだよ。
平民をなめてはいけない。
平民はなめられてはいけない。
こいつは、なめてはくれない。拾ってきて13年になるが、いまだになつかない。
街を見下ろす超高層ビルの高層階。
全面ガラス張りのフロアーから立ち並ぶビル群をながめる男性の後ろ姿。
そこにテレポートして現れた、若くイケメンでやりてのIT営業マンが男性に声をかける。
「社長テレワーク進んでますか?」
男性はイケメン営業マンのクライアント会社の社長なのだろう。
社長はたずねる。
「頑張っている社員たちをちゃんと評価するにはどうすれば?」
イケメン営業マンはそれに答える。
「それには結果だけでなく、プロセスを見守ること。テレワークも見える化すれば、隠れた努力が見えてくるんです。」
その答えに社長はつぶやく。「努力を見落とさないIT運用管理」
その言葉にイケメン営業マンの言葉が重なる。「はい。それがスカイシークライアントビューです。」
テレワークの運用管理のシステムを販売する会社のCMだ。
「がんばっている社員の隠れた努力を評価する」という言葉が、ねじ曲がった根性の私の耳には「さぼっている社員を監視してさぼらせないように働かせる」と聞こえてしまう。
成功者勝ち組は、きれいごとを言いながら弱者を搾取していく。口は重宝なものよのお。
お前たちは、人目も気にせず寝てばかり。スカイシークライアントビューなんて関係ないよなあ。
今日も3つくらいブログのネタを思いついたのだけど、いざ書こうとパソコンの前に座ったら、まったく思い出せない。
馬上(ばじょう)、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)という言葉がある。
馬上というのは馬に乗っているとき。今であれば車や乗り物にのっているとき。
枕上というのは布団に入っているとき。
厠上もいうのはトイレの中。
これを3上といって、ものを考えたりアイデアをひねり出す場所として適している場所だとされている。
私がブログのネタを思いつくのは、車やバイクに乗っているときのことが多い。
運転中だと書き留めておくことができない。
思いついたときは、絶対忘れないようにしようと脳の引出しにきちんとしまうことにしているのだけど、みごとに引出しの鍵を無くしてしまう。
なんとか今月は、毎日更新を続けてみたい。
お前はなやみはないのだろうなあ
「あれ、あの、あれ。あれなんというんじゃったかね。」
「ほら、あの人。えっと、かわいい女優を奥さんにしたお笑いがいるじゃん。えっとなんという名前だったかね。」
我が家ではこんな会話が飛び交う。
いつもなら出てくる名前が出てこない。
有名俳優だったり、大物歌手だったり、お笑いタレントだったり、「あの、その」と言って、思いつく特徴をあれこれ言って出てこない名前を家内に問いかける。
あれこれ言っていると、以心伝心、家内もその俳優だか、大物歌手だか、お笑いタレントの顔は思いつくようで、「ああ、あれね」となる。
長年いっしょにくらしてきた杵柄というのか、同じ老化の道を歩んでいるからなのか、私が名前が出てこない対象の人が誰なのか家内には伝わっていて、思い出したときの正解率は98%くらいなのだが、これが不思議と同じタイミングで私も家内も名前が出てこない。
これって、夫婦仲が良いってことだよななんてなぐさめあっている。
人物の名前が出てこないというのは、周りでも、テレビを見ていても良く聞く話だが、まずいことに最近は普通名詞の単語が出てこない時がある。
考えてみると、一日のうちにこれを書きたいということがいくつもあって、そのうちのいくつかがブログのネタになっていた。
最近ブログの更新が途切れているのは、書こうと思うと長文になりそうで、長文に取り組む気力がなくてかけないことが原因のひとつだが、一番の原因は、日常活動の中で、これはブログで記事にしたいと思うことが何回かあるのだがいざ書こうとすると忘れているということだ。
仕事をしていたり人と話をしていたり、テレビを見たり新聞雑誌に目を通していて、これはブログのネタになるというアイデアがわくことがある。
短くて面白いネタだから今日の更新はこれでチャチャっとやっつけられるなんて思うことがあるのだが、さて時間が空いてパソコンをひらくとそのネタが思い出せない。
なんだったかなあ。短くまとめられて面白い話になるネタだったのだがなあと、一日を思い起こすのだがまったく思い出せない。
そんなこんなで、3,4日更新が途切れてしまうと、もういいかなんてあきらめの心境になってしまう。
月の初めだけは、今月から続けようと気持ちをふるいたたせるということをここ数カ月続けている。
今日は3日。
今日やらないと3日坊主にもなれない。
ということで3日坊主にならないための更新でした。
最近の流行りでよく目にする「DX」なる単語がある。
なにやらIT関係の言葉のようなのだが、「DX」 で「デジタルトランスフォーメーション 」と発声している。
「D」がデジタルなのはわかるけど、「X」がなぜ「トランスフォーメイション」となるのか、さっぱりわからなかった。
おまけに「デジタルトランスフォーメイション」の意味も見当がつかない。
私が見聞きするのはテレビCMでのことなのだが、このところしょっちゅう目にしてしまって気になってならない。
それでなくても老化で能力の低下した頭が混乱してしまうので、頭を整理するためにグーグル検索してみた。
答は簡単だった。
曰く、「デジタルトランスフォーメーションとは、テクノロジーにより産業構造を変化させることを意味します」とある。
テクノロジーはなんとなくわかる。
「そのテクノロジーにより産業構造を変化させること」と言われてみると、これまたなんとなくわかるような気がする。
さらにグーグルは、それをなぜDXと略するかの意味も教えてくれる。
DXと略するのは、英語ではDigital Transformationと書くのだそうだ。
TransformationのTransはラテン語の「trans」が由来で、「変える」や「超える」といった意味を持つ。この場合の「trans」は、「交差する」という意味の 「cross」という言葉と同義なのだそうだ。「
「cross」は省略して「X」と書かれ、同じ意味の「trans」も「X」で代用されるようにな交差するという意味があるため、交差を1文字で表す「X」が用いられているのだそうだ。
また、頭文字をとったDTだけではプログラミング用語とかぶってしまうため、DXという略語になったのだそうだ。
無事、混乱して発狂しかかった私の頭は沈静化。
ありがたや、グーグル様々である。
なにも考えずにネット検索に頼ると思考力低下につながるというけれど、こんな知識はいくら頭をひねって解決できない。
未知の言葉に反応して興味を持つというのは、老化防止に役立つものと思ってどんどん利用している。
ぜんぜん出てこなくなった人の名は、ウンウン苦しんで思い出すようにしている。
老化を楽しみつつ老化に怯える今日この頃である。
この子は私と同世代。このところずいぶん痩せてきた。
私は全然痩せないなあ。
今日は6月1日。
いつもながらではあるが、私にとって1日は特別な日。
6月1日の「1日」は「ついたち」
小学校の時に先生から日にちの「1日」は「ついたち」と読まなくてはいけない。
日にちを言う「1日」「2日」「3日」「4日」「5日」「6日」「7日」「8日」「9日」「10日」は、「ついたち」「ふつか」「みっか」「よっか」「いつか」「むいか」「なのか」「ようか」「ここのか」「とおか」と言うのが正しい。
「いちにち」「ににち」「さんにち」なんて言ってはダメですよと教えられ、今でも、日にちを言葉にするたびに先生言葉をを思い出す。
「今日は6月1日」の「1日」は「ついたち」と読んでもらえるだろうが、「私にとって1日は特別な日」という文章の「1日」を「ついたち」と読んでもらえるのか気がかりだ。
「ついたち」と読んでもらいたい「1日」を使う時は(ついたち)と読み仮名を入れたくなる。
ちなみに「ついたち」は「月立」「朔日」という漢字も充てられる。
「月立」は、なるほど「だから、ついたちと言うのか」と思える漢字だが、果たして一目で「ついたち」と読んでもらえるのか。
「朔日」にいたっては、読めない人も多いのではないかと言うほどなじみの無い感じだ。
ということで、「私にとって『1日』は特別な日」という文章を書くとき、「1日」には(ついたち)と読み仮名を添えたいと思ってしまう。
私にとって特別な日というのは、この年になるまで、なにごとも3日坊主で思ったことが継続できない質で、これは私が最近流行りの体質(症状)ADHDの性ではないかと言い訳しているのだが、すぐに中座したものを、年単位では毎年元日、月単位では「ついたち」、週単位では月曜日にリセットを続けてきていて、すべてをリセットすることのできる特別な日ということなのだ。
ということで「1日」の今日、気を取り直して、中断していたブログを久々に更新している。
この数カ月、毎日なにかと忙しくて日々の仕事に追われてあっという間に日にちが立ってしまうという感じなのだ。
その感覚を、前回の5月21日のブログに「ジャネーの法則」という題で書いた。
とにかく、最近は、1週間が日が1日の感覚で過ぎ去ってしまう。
3,4日前のことのように思って、手帳やスマートフォンで自分の行動を遡ってみると、20日1カ月前のことだと思い知らせれ愕然とする毎日なのだ。
ともあれ、今日は「1日(ついたち)」
吉田拓郎の「今日まで、そして明日から」の歌のフレーズが頭の中に流れる。
『私は今日まで生きてみました
そしていま私は思っています
明日からもこうして生きていくだろうと』
吉田拓郎の歌の意味とは違うのだけど、この年になって(実年齢は言いたくないが)も「明日から、明日から」だなあと、つくづくあきれている。
さあて、今日から、明日から。
お前たちは、いいなー
昨日、I 先生からラインが入った。
予想通りの用件だった。
私のブログ更新が止まっていることについての質問だった。
I 先生は私のブログの数少ない読者の一人。
10日くらい更新をとぎらすと問い合わせの連絡が入る。
I 先生と私は同級生の仲。
年齢のこともあって、私に対する安否確認なのかもしれない。
私の感覚としては1週間くらいブログの更新をしていないという自覚はあったのだが、ブログを開いて確認して見ると昨日でちょうど2週間、ブログの更新が途切れていた。
1週間だと思っていたのに、2倍の時間が経過していた。
歳を重ねるごとに時間が経つのが早くなったとは感じていたが、このところびっくりするほど時間が早く感じる。
確か、これを理論的に証明していた説があったなと、「年をとると時間の経過が早い」で検索してみた。
出た。出た。
検索結果の一発目に出た。
「大人になると体感時間が短くなるのはジャネーの法則による」のだという。
ジャネーの法則とは「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する(年齢に(反比例)」という考え方で、19世紀フランスの哲学者、ポール・ジャネが発案した法則なのだそうだ。
その理論はこうだ。
年を取るにつれて自分の人生における「1年」の比率が小さくなる。
例えば1歳の時に感じた1年は1/1。2歳の時の1年は1/2となる。
この理論で、1歳の時の2倍速く感じるようになるというのだ。
5歳の時は1/5で1歳の時の5倍、10歳の時は1/10と、分母である年齢が大きくなるごとに人生のうちにその1年が占めた割合が少なくなり、体感として時間が短くなったように感じる。
そのため、体感として1年が短く、時間が早く過ぎると感じられるようになるというのだという。
なるほどと思わせる理論だが、このままではちょっと理論に飛躍があると感じる。
1歳の時に時間の経過の自覚はまったく無いだろう。
2歳にしても大人になっての記憶はないだろう。
そんな年代と比較してしまうことには無理がある。
具体的に比較する年齢を10歳以上にして、10歳の子供にとっては1年は人生の10分の1。
50歳の人間にとって1年は人生の50分の1。
50歳の人間にとって1日は10歳の頃の5倍の早さに感じる。とした方がうまく納得させられるのではないか。
その理由はともあれ、とにかくこの年になって(あえて自分の年齢には触れたくないが)、時間が経つのがつくづく早い。
私なりに、その理由を考えてみたのだが、毎日を同じことの繰り返しでなにげなく時間を過ごしてしまうせいではないのだろうか。
わくわくするような大きなイベントもない。かといって頭を抱え込むような大きな事件や問題もない。
見る物聞くもの、経験値のあることが多くて刺激を感じることが少なくなって、なにもしないまま時間が過ぎてしまったように感じるのではないだろうか
もう一つ思うのは、例えば初めて地行くとき(例えば直近の例で、初めて子供に会うために車で長崎に行ったとき)、あとどのくらいで到着するのだろうと時間の予測がつかなくて、時間が長く感じた。
帰りの時間も長かった。
しかし2度目に行ったときには、行も帰りも1度目よりはるかに短い時間に感じた。
これは1度行った道は、今自分がどこにいるのか、あとどのくらいの距離と時間がかかるのか予測がつくから、時間に対するストレスがなくなるせいではないのだろうか。
年をとって時間が経つのが早いのは、あながち老化してボーっと時間を過ごして知らぬ間に時間が経過するということばかりではなく、人生経験をしてきたことで、若い時にはストレスだったことをストレスと感じないで生活しているせいかもしれない。
などと、無理やり前向きに考えてみたが、どなたかのブログに、「経験したことがないことをやっているときは、それが強く意識に残り時間が長く感じる。反対に、慣れてしまうと時間の長さが気にならなくなり、あっという間に時が過ぎたように感じる。
子どもの頃は初めて体験することばかりで、毎日が新鮮で新しい出会いや発見がある。
しかし、大人になるにしたがって、新しい経験をする機会が失われる。大人になると時間があっという間に過ぎ去ってしまったと感じるのは、日々の生活に新鮮味がなくなるからという考え方もあるようだ。」という意見があった。
この理論の方が正解のように思う。
久々のブログで、日々の生活に新鮮味を忘れないように過ごそうかと思い直しているところである。
お前たちの1日はどうだい?
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