11延岡市のご案内

2024年6月 8日 (土)

梅雨入り.............したのかな

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)では、昨日の夜から、今朝にかけて大雨の予想が出ていた。

昨日の夜半、ちょっと激しめの雨が降ってきて、被害が出るような大雨にならなければいいがと案じていたが肩透かし。

被害を心配するような激しい降りにはならなかった。

昼のニュースで、九州南部が梅雨入りしましたと言っていた。

いつも思うのだが、当地は九州の何部になるのだろう。

鹿児島は間違いなく九州南部だろう。

宮崎県の南部、小林市、日南市、串間市と、宮崎県央の宮崎市周辺までは九州南部に違いない。

福岡県、長崎県、佐賀県と熊本県北部、大分県北部は九州北部だろう。

当地・宮崎健北部の延岡市や大分県南部の佐伯市、臼杵市、それとくまもと県央、県南がどう呼んでいるのかがわからない。

九州中央部という言葉を聞いたことはない。

大分県南部と宮崎県北部の当地(宮崎県の北端の町・延岡市)を繋ぐ高速道路が東九州道路というから九州東部というのだろうか。

私にとって、解決できないちょっとした疑問なのである。

2024年5月22日 (水)

図書館通帳

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の市立図書館では、図書館通帳なる読んだ本を記録する手帳を発行してくれる。

銀行の通帳にそっくりの、かわいい通帳だ。
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実に嬉しいサービスだ。

私は前々からこんなサービスを切望していた。

私は、新聞の本の広告を見て、買うほどではないけど読んでみたいなと思った本があったときに図書館で借りるようにしている。

私が子供のころは、手書きの図書カードがあって、自分が借りた本の履歴を見ることができた。

しかし、個人情報保護の関係からか、ずっと自分が借りた本の履歴を知る方が無かった。

それで、新聞広告だけを参考に借りてみたら、以前借りた本だったということが少なからずあった。

図書館通帳のサービスは、去年の暮れから始まったようで、私は3月にこのことを知って、すぐに通帳を発行してもらった。

 

図書館で本を借りるには、図書カードを作らないといけないが、これは住所と名前が確認できる書類(免許証等)があれば即時発行してもら生える。

図書カードを作っている人は、カードがあればすぐに通帳は作ってもらえる。

 

中身も銀行の通帳みたいだ。
図書館の受付のカウンターの近くのパソコンコーナーに通帳専用のプリンターがあって、通帳を差し込むと借りた日と本の名前と著者名が、即座に印字される。
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これが私の通帳。3月13日に発行してもらっている。

3月が6冊。4月が10冊。5月は17日までに7冊借りている。

きょう3冊借りてきて、このほかに予約待ち本があと9冊ある。

人気があって19人待ちと15人待ちという本もあるが、気になった本を片っ端から予約しておくと、とぎれることなく順番が回ってくる。

きょうは3冊同時に順番が回ってきた。

この他に、題名だけでAmazonで購入してしまう本もあるのだが、図書館の本は待っている人がいるので私が読むのは図書館の本が優先になって、買った本は積読状態が長くなってしまうのであります。

しごとも、ちゃんと最低限のことはやっているのであります。

最低限ではいけないのだと反省もしつつ、延岡市立図書館の宣伝をさせていただきました。

 

2024年5月20日 (月)

おつかれさまです 琴恵光関

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)出身力士、琴恵光関が引退を発表した。

今日の地元夕刊紙に、琴恵光関の晴れ晴れしい顔の引退写真が掲載されている。

まったく悔いのない、とりきったという満足そうないい顔だ。

こんな素敵な引退の写真は見たことが無いほどだ。

 

幕内在位29場所。

身長177cm 体重125キロの小兵力士だった。

幕ノ内力士の中では、2位か3位くらいの軽量力士だった。

最軽量で人気のあって炎鵬のような派手さはなく地味なお相撲さんだった。

金星や3賞という華々しい記録もないがが、私は今の大相撲の世界で模範となる、一番立派な相撲取りだったと思っている。

お酒に弱く、遊びも苦手で、相撲一筋。

軽量を補うために独自の筋力トレーニングをした。

小さい体で、初土俵から1043回というのは、立派な誇れる記録だ。

その相撲に対する取り組み方は、小兵の名横綱千代の富士に匹敵すると思っている。

常に先に、しっかりと手をついて、どんな大きな相手とも正面から取り組んだ。

今の相撲で、こんなにきれいな立ち会いをする力士はいない。

体に恵まれていながら、勝負に勝つことしか考えていない、ずるい立ち会いをするようなことはなかった。

解説や司会が、この立ち合いを話題にしないことが私は不満だった。

昨年の11月場所、初場所から1044場所目の相撲で膝を痛めて、それが回復しないままの引退となった。

残念でたまらなかったが、琴恵光の引退会見の晴れ晴れしい表情で「17年間、真摯に相撲に向き合うことができた」という言葉を聞いて、私は尊敬の念を覚えた。

琴恵光の相撲は、まさに言葉の通りだった。

小さな体ながら、飛んだり、逃げたりせず、常に真っ向勝負。

十両と幕ノ内を行ったり来たりしていた時、私は、後援会の事務長さんに、「たまに飛んだり逃げたりする立ち合いをして、相手を迷わる立ち合いをしたほうがいいのじゃないか」と提言したことがある。

その時の答えは、「どんなに強い相手であっても、正面からあたる相撲を続けることで力をつけていきたい」というのが琴恵光の信条ということだった。

その言葉の通り、常にしっかり両手をついての立ち合いだった。

大横綱白鳳より、横綱に匹敵する立ち合いだったと思う。

相撲協会は、琴恵光の相撲を立ち合いの手本としてとりあげてもいいくらいだ。

 

おつかれささまでした。琴恵光関。

2024年2月25日 (日)

2月25日 このはなウォーク 晴

地(宮崎県の北端の町・延岡市)はは、この1週間ずっと降ったり止んだりの雨模様だった。

今日は「このはなウォーク」の最終日。

朝から雨があがり薄日がさして、昼からは青空が見えてきた。

写真は「延岡花物語実行委員会」のパンフレット写真を掲載させていただいてます。

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空から、「お天気を心配していた人がいたでしょう。安心してください。晴れるんです。」と、とにかく明るい安村みたいなキャッチフレーズで、鶴瓶みたいな顔をした谷平会長が、「とにくかく私のやる行事は、必ず晴れるんです。台風が近づいていた時も、私がやる行事の日だけ避けてくれたみたいなことが何度もあるんです」なんて、自慢気に叫んでいるのだろう。

私が会長の下で働いていた時、会長の快気祝いで100人以上の人を招待して大々的に開催した快気祝いのお礼の会食パーティーは、猛烈な台風の最中に決行した。

この人が何か催しをするとき、以上に根回しを徹底していた。

まず招待状を出す。

出欠の葉書をいれているが、受け取った人が確実に出欠の葉書を出すとは限らない。

だから、私たちに出欠の確認の電話を入れさせる。

葉書を受け取ったと思われる数日後に1回目の電話をする。

開催日の1週間前に2回目の電話。

開催日の数日前に3回目の電話。

開催日の前日に、最終確認の電話。

電話を受ける相手の人からは、「あんたところは、くどいね。出席すると言ってるだろう。」

そうやって苦言を呈される人も少なからずいた。

しかし、すべて会長の命令。

この快気祝いのお礼の会の日は、テレビでは数日前から台風が直撃するという報道だった。

前々日、前日には参加予定者から、快気祝いは中止でしょうという確認の電話が集中した。

私たちも無理だと思っていた。

しかし、決行。

このときは、会の前日だけでなく当日まで、私たちは「会は開催しますと」いう電話連絡をさせられた。

招待客の全員が、「そんな話はないだろう。無理だよ。」とあきれられた。

当日、朝から嵐。「昨日の会は中止でしょう」という問い合わせの電話が殺到した。

私たち社員は朝から何度も、会の開催と出席要請の応対をすることになった。

「うそだろー。この嵐の中でやるのか。できるわけないだろう。」の声に、「すみません。会場は用意できてますので、ぜひ出席をお願いします。」と、平身低頭で出席をお願いした。

こうして、台風の最中、快気祝いの会は開催された。

招待客100余人。欠席者はゼロだった。(これは、私たち社員の涙と冷や汗のたまもの)

盛会のうちに会はお開きの時間を迎えた。

外は、大嵐。台風でタクシーが動かくなくなるといけないので、帰りのタクシーの手配をして、私たちは招待客のお見送りをした。

タクシーの運転手が、台風の風で瓦がとんでいるよ。運転していて危険を感じる。なんて不満をもらしていたくらいだった。

帰りのお客さんたちからは、「谷平さんらしいよ」なんて楽しい笑声だけが聞こえてきた。

私は会長が、自分は晴男だと自慢するとき、ときどきこの時の話をして突っ込みを入れた。

会長も、あのときのことは覚えていた。

「そうだったなー。しかし、あの台風の中一人も欠席せずに、みんな参加してくれたんだからありがたかったよなー。すごいことだった。」

よく言えば常に前向き。

常識的に人の迷惑なんてことをちまちま考えていたんで事は成し遂げられない。

延岡花物語だって、多くの人を迷惑の渦の中にまきこんでこそ誕生したんですよね。

 

2024年2月20日 (火)

延岡花物語 コノハナロード

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)大貫町のコノハナロード。

               00000
           写真を撮るヒマがなくて、「延岡花物語」のポスターと写真を使わせていただきます。

仕事で通りがかって、あらためて気がついた。

今日は、写真を撮るひまもなかったのだが、今、2月1日から4月7日まで「延岡花物語」と銘打った春のイベントの真っ最中だった。

去年、突然亡くなった師(谷平興二会長)が尽力して作り上げたイベントだ。 

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十数年かけて作り上げたイベント。

谷平会長は「延岡大好き」「延岡一番」という人。

ボランティアの人。

私も、コロナの前までの桜を育てる期間、桜を育てるための草刈りやイベント直前の駐車場の準備の手助けをさせてもらった。

「赤池君、悪いけど今年も手伝ってくんねよ」

人とのつながりが苦手、ボランティアとは無縁の私を、強引にボランティアの輪に加えてくれた。

わがままで人づきあいの悪い私を、会長が社会の一員にとどめてくれた。

「延岡の街づくりのために、あと一つだけやらなければいけないことがある。それまでやるのが自分の責任なんだ。」

そう言っていたのに、会長は去年、突然亡くなった。

会長が残してくれているものは数えきれないほどある。

貴方が残したものを、みんなが育てています。

24日、25日が「コノハナウォーク」のイベントの日。

こんざつしないその前に、コノハナロードを歩きに来ます。

 

 

2024年2月10日 (土)

十日えびす

朝から、いつもと違って人通りが多いと思ったら、今日明日は今山恵比須神社の十日えびすだった。

 


写真は延岡市観光協会のホームページのものです。延岡市を宣伝するので無許可で掲載させてもらいます。

「十日えびす」は各地で催されている縁日だが、元来は旧暦の1月10日、新年最初の恵比須神社の縁日だ。

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の今山恵比須神社でも、従来は旧暦1月10日が十日えびすの縁日だった。

旧暦だと毎年縁日の開催日が変わることになるので、いつからだったか(わりと最近のこと)、2月10日、11日が十日えびすの縁日に固定された。

ちなみに旧暦の今日は何日だと暦で確かめてみたら、旧暦の元日(1月1日)である。

私が子供のころは、当地でも旧暦の正月を祝うところもあった記憶があるが、現在では旧暦の正月を祝う行事はまったく見かけなくなった。

恵比須神社は商売繁盛の神様。

十日えびすでは商売繁盛を祈願して笹飾りが販売されている。

この笹飾りを毎年新しいものにするとご利益があるといい、数千円から数万円の豪華な飾り物が売られてる。

数万円もする立派な笹飾りを手にしている人は、いかにも儲かっている経営者のように見受けられる。

儲けさせてもらったお礼を兼ねて高価な笹飾りを買うのか、さらに儲けたいと思って奮発しているのか。

私はと言えば、恵比須神社に由来する恵比須町で商売をさせてもらいながら、笹飾りに数万円を払う余裕がなく、一番安い笹飾りしか買っていなかった。

笹飾りの販売は神社にかかわる人々が手伝っていて、私の顔見知りが販売を担当していることもある。

そんな時は、つい見栄を張りたいもので一番安いものにするわけにもいかない。

3000円、5000円では際立って見栄えが良くはない。見栄を張るなら1万円以上になる。

神様がお金で信者を差別はしないだろうが、へんな見栄もある。

そんな、こんなで、いつだったか十日えびすに行かない年があった。

以来私は、事務所から神社に向かって手を合わせるだけで、十日えびすの縁日には出かけていない。

それでも私はなんとか不動産屋を続けてこられている。

優しく見守ってくださる恵比須さんに改めて感謝している十日えびすです。

 

 

 

2023年9月30日 (土)

天然信仰を見直す

当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の秋の風物詩「鮎やな」が、今日オープンした。

当地の鮎やなは、市役所から徒歩で5分くらいの市街地のど真ん中に設営されている。

鮎やなには天然の落ち鮎がかかるが、天然ものだけではまかないきれなくて、天然物を食べたいときは予約が必要。

標準メニューは養殖の鮎となる。

一般的には天然信仰が根強く、天然物を重宝する傾向があるが、私は養殖物のほうが好きだ。

天然物が嫌いというわけではないのだが、天然物には外れがある。

天然物は、自然の中で食うや食わずの生活をしてきているから、栄養状態の悪い鮎や、泥を飲み込んだような鮎に出くわすことが少なからずある。

数年前に、鮎漁をやっている人からもらった天然鮎に、やせ細ったものや食味の悪いものが混じっていて、以来私は、目黒のサンマならぬ、鮎は養殖物がうまいと思っている。

実際、今は養殖技術が格段に進化していて、養殖物は品質が安定していて美味い。

もう20年も前になるが、鮎の養殖会社の社長さんと話をしたことがある。

昔の養殖の鮎は、魚粉などが混じった餌を食べさせていたので、臭みがあるなどといわれていた。

また、ふんだんに餌をあたえるから余分な脂のついた鮎になっていた。

しかし、今は研究を重ねて餌も改良され、出荷の前にはえさの量を調整して、肥満状態の余分な脂を落とし、天然鮎が食べる川の苔の成分の餌を与えて、天然鮎のような香りのある鮎を生産しているのだと言っていた。

そういえば、回転ずしで今一番の人気は、サーモンなのだが、寿司ネタでサーモンを食べられるようになったのは養殖技術が発達したおかげなのだ。

天然のサケ・マス類には、まれに寄生虫がいるので、以前は加熱するか、ルイベのように凍らせて食べるしかなかった。

寄生虫がいない飼料で養殖することにより、サーモンの刺し身が普通に食べられるようになったというわけだ。

日本には、「天然信仰」があって、天然物に比べて養殖物は味が落ちると思っている人が多い。

しかし、食べ比べても、見分けがつかないほど養殖ものの品質は向上している。

満足に餌にありつけなくて痩せひぼなえた天然物より、養殖の方がうまいということもある。

現に、近畿大学が開発した養殖マグロは、たっぷりの餌をくらってトロの部分が天然物より多くて、味も天然物に負けないものになっている。

 

 

2023年1月21日 (土)

延岡のすてきな景観がひとつ消える

1月も早や20日。

あれよあれよというまに時が過ぎ、もう来年の足音を感じてしまいそうだ。

そんなこともを考えていた今朝、朝食をとっていると、外からカキンカキンと鉄パイプのぶつかる音が聞こえてきた。

あ、まずい。いよいよ始まった。

私は後悔の念をいだきつつ窓から外をのぞいた。

私の悪い予感があたった。

私の事務所兼住宅の窓から見える場所にある、私が好きな素敵な建物に足場を組む作業が始まってしまった。

この建物は、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)の延岡市景観賞最優秀賞をとった由緒ある建物だ。

この建物を取り壊して高層マンションが建つことになっている。

今年の3月に着工予定で、先日から建物解体の準備に入っていた。

解体される前に、建物の姿を写真に撮っておかねばと思っていつつ先延ばしにしていた。

これが私の致命的欠点。

さっさとやればいいことを、意味なく先延ばししてしまうのだ。

現場は複数の作業員さんたちが忙しく働いている。

写真を撮りに行けるような雰囲気ではない。

大いに悔やんでいたら、作業の音が止んだ。

作業員さんたちの姿が見えない。

そうだ、10時の休憩だ。

このタイミングを逃したら、また悔やむ。

私はすぐにカメラを手にして写真を撮りに行った。

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作業員さんたちの姿は見えなかったが、大きなトラックが2台入り口をふさいでいる。

それでも取らないよりはましと撮った写真がこれだ。

自分の致命的欠点をつくづく反省しつつ、事務所でたまった書類を片付けていてふと現場の方を見ると、先ほどのトラックがいなくなっている。

天の救いとカメラを手にし、再度写真を撮りに行った。

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トラックが退いて建物の全体像を写すことができた。

昭和初期の洋館風建物。

神戸異人館や長崎のグラバー園にありそうな建物だ。

青山眼科さんの眼科医院の建物。この建物の裏には立派な純和風の住宅が建っているはずだが、それは外からは見えない。
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建物正面入り口の左手上方にある『SINCE 1985 AOYAMA CONTACT』の看板も雰囲気を盛り上げている。

『SINCE 1985』とあるが、建物は昭和初期の建物だと聞いている。

1985年は青山眼科さんが院内にコンタクトレンズの会社を設立した年だと記憶している。

所有者の青山先生は、モダンでダンディーな方だった。

お話したことはないが、ちょくちょく姿を拝見することはあった。

休みの日などカジュアルな格好で、方にカメラをぶら下げて歩いている姿は建物同様洋風だった。

 

直接お話をしたことはないが、持ち主の青山先生は時々お見掛けをしたことはあった。

この洋館が実にお似合いになるおしゃれでダンディな先生だった。

 

余談ながら、子供さんは美人3姉妹で有名だった。

現在のインターネット社会では、ちょっときれいだったり可愛かったりすると、「きれいすぎる〇〇」だとか、「かわいすぎる〇〇」だとかすぐに騒ぎ立てるが、文字通りの美人3姉妹だった。

3女の方は劇団四季で主役をはったことのあるはつらつとした現代的な美人。

確か、長女の方は私の1級先輩。この方はいわゆる美人顔の美人。

次女の方が1級後輩。この人は優しいお顔の美人。(セクハラ的非難を覚悟していえば、私のタイプでした)

3人さんとも、それぞれにきれいな女性だったなあ。

 

新年に今年はかかさず更新してみようと思っていたのだが、冒頭に書いた通り1月もすでに20日。

ブログを確認すると更新を1週間も休んでいた。

私の感覚では4,5日は更新していないという感じだった。

このままでは、またすぐに来年が来るぞとあせる気持ちになった。

その矢先の建物解体の始まり。

これはブログ再開のきっかけにも、すぐに書こうと思って写真を撮り終ったのが今日の昼過ぎのこと。

書こう書こうと思いつつ夕方になってしまい、夕食の時間が来て自宅に上がり、明日でいいかと思っていた。

これが何度も反省するのだが、私の致命的欠陥。先延ばし病。

えいやっと踏ん張って、晩御飯の後に事務所に戻りパソコンのキーボードをたたいてみた。

やってしまえばどうってことないのに、バカは死ななきゃ治らないなあ。

2022年3月 6日 (日)

菜の花と桜がはなざかり コノハナロード

今日は家内と、コノハナロードに行ってきた。

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当地(宮崎県の北端の町・延岡市)野地町の五ヶ瀬川河畔の堤防沿2㎞以上にわたって、100万本の菜の花と300本の桜が満開の花を咲かせていた。

コノハナロードは市民ボランティアの力で、10年ちょっと前から整備されてきた市民憩いの場所。今も継続整備中。

私は、毎年シーズン前の数日間だけだが草刈りのお手伝いをさせていただいた。

なんにもなかった堤防だったが、できあがってみたら、こんなに素晴らしい花街道になった。

今は「延岡花物語」という延岡市の春のイベントを担っている。

私が草刈りにかりだされたのは、谷平興二・現延岡市観光協会会長からの電話。

私は故あって、この人からの依頼は断れない。

何のことかわからなかったが、堤防の草刈りに人出が足りないので協力してくれとのことで、毎年シーズン前の日曜日の数日、草刈り隊の一員となって草刈りをした。

この間に谷平会長から断片的にはコノハナロードを誕生させる趣旨は聞かされていたのだが、その流れをブログにまとめさせていただこうとネットで検索したところ、地元限定ローカル紙・夕刊デイリーの2019年3月9日の記事に詳細が紹介されていた。

夕刊デイリーには許可を取っていないが、以下に私が勝手に編集して記事にさせていただいた。

延岡市野地町の五ケ瀬川堤防に河津桜が植樹されたのは平成21年3月15日。

以来、「コノハナロード」の愛称で親しまれる堤防の景観づくりに尽力した一人、松田庄司さん(76)=同市夏田町=は毎日のように足を運び、花々の手入れを続ける。

松さん胸にはある一人の友人の思いが引き継がれていた。

その男性とは同市出身で横浜市在住だった高倉雄三さん。
松田さんと高倉さんは同じ昭和17年生まれで、延岡高校の13回生。
当時の2人はそれほどの交流はなかった。

定年後は延岡でゆっくり過ごすつもりだった松田さんだが、平成20年2月にあった1本の電話が慌ただしい日々へと戻した。
相手は交流が復活した高倉さん。
「ふるさとに恩返しがしたい。河津桜を植えて花の名所をつくりたい」。
その思いを電話やメール、時には帰郷して直接伝えてきた。

松田さんは「送ってくれた写真もきれいだった。素晴らしい話だし、できるならやってみよう」と受諾。

旧知の市職員から、延岡アースデイの創設者でまちづくりに熱心な谷平興二さんを紹介され、思いを伝えると賛同し、協力を約束してくれた。

とはいえ、適した場所はなかなか見つからなかった。半ば諦めていた9月下旬、谷平さんから電話があった。「最高の場所が見つかりました」。
そこは野地町の五ケ瀬川堤防。東九州自動車道延岡ICから延びる県道沿いにあり、まさに〃玄関口〃で、市民も観光客も目にする場所だった。

心配していた苗木の購入資金も、昭和17年生まれの延岡出身者有志が集う「延岡はげらし会」が、関東在住の同期生に呼び掛けて100万円以上が集まった。
そして、平成21年3月15日、約250人のボランティアの手で河津桜135本が植えられた。コノハナロードが誕生した瞬間だった。

それからさらに2年かけて堤防2・3キロに300本を植栽。春にはピンクの桜と相性のいい菜の花も約100万本植え、花の名所として知られるようになっていった。26年から始まった観光イベント「延岡花物語」ではメイン会場の一つとなり、県内外から多くの観光客が訪れるようになった。


21年3月の植樹後からコノハナロードの維持管理をしてきたのは、松田さんら地元同期生が中心となって結成した「天下一ひむか桜の会」。
2・3キロの堤防を限られた人数で手入れするには多くの困難があった。

28年2月には市民有志が集い「コノハナロード市民応援隊」が結成され、約85人が所属。
桜と菜の花だけでなく、彼岸花やコットン、アサギマダラが好むフジバカマ、モーツァルトのバラ、東広場の花壇など新しいプロジェクトも立ち上がり、活動が活発化している。
当初から代表として引っ張っている松田さんは一年の多くの日は堤防に足を運ぶ。
「同期生も毎年資金援助してくれる。谷平さんの情熱でイベントもここまで大きくなった。
膨大な数のボランティアが関わっていて、そうした思いの結実したものが花物語だろう。国土交通省や県、市の後押しも強くなってきた。
いろんな人に恵まれたおかげ。10年でここまで大きくなるとは思ってなかった」と感慨深い。

高倉さんの夢は今、花々が咲き誇る堤防の景色という目に見えるものになった。
「桃源郷にはだいぶ近づいてきたかな。
あともう少し、10年ぐらいはかかる。体の動く限り自分も続けたいし、若い人も育ってきている」。松田さんはきょうもコノハナロードへ向かう。

 

松田さんの言葉のように、若い人が松田さんたちの意思を引き継いでいるのがすごい。

多くのボランティアの方々のおかげで、年を追うごとにコノハナロードはグレードアップしている。

ここ数年は市民の憩いの場所としてだけではなく、「花物語 このはなウォーク」といったイベントを目的に市外県外からの観光客もたくさん来てくれるようになっていた。

そんなやさきにコロナで3年もイベントが中止になってしまった。

松田さんたちの意思を継いだ若い人たちがたくさん活躍してくれている。

来年からは、今まで以上ににぎやかな「花物語」にしてくれることだろう。

 

桜の花は散り始めています。

早めに、一度散策して見られてはいかがですか。

2021年6月 1日 (火)

アユ漁解禁

 6月1日。

 月の初めの日だから明るい話を書きたいのだけど、どうにも明るい話題が思いつかない。

 今日は朝から、快晴。

 空気もからりとしていて気持ちがいい。

 晴れた空をアップするだけというのも芸がないなと思いつつ夕方になった。

 夕方に届いた、当地(宮崎県の北端の町・延岡市)限定ローカル夕刊紙「夕刊デイリー」に楽しい記事があった。

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 一面に「アユ漁解禁」の大きな写真。

 今日は当地の五ヶ瀬川水系のアユ漁が解禁日だった。

 「愛好家『初日はお祭り』ワクチン接種の県外組も」の小見出し。

 当地の鮎を目的に県外からの釣り人も訪れている。

 アユ漁が解禁になると本格的な夏が訪れる。

 今日は暑かった。

 車の温度計は、外気温30℃を表示していた。

 新型コロナ渦中でのオリンピック開催が危ぶまれているが、高温多湿の危険対策も忘れてはいけないんだよなあ。

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